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2017年12月31日日曜日

音楽:オレゴン・イン・モスクワ

北陸の山間部の田舎町に暮らす高校生が、FMラジオで生まれて初めてジャズミュージックに触れ、夢中になったとき、とりわけ熱中したのは、そのころに全盛期をほこっていたバンド〈ウェザーリポート〉だった。
ウェザーリポートのほかにも、ちょうどフュージョン(当時はクロスオーバーといっていた)が盛んになってきていたころで、こんなのジャズじゃない、などといわれながらもリスナーはどんどん増えていた。
私もウェザーリポートだけでなく、チック・コリアの〈リターン・トゥ・フォーエバー〉とか、ハービー・ハンコックとか、いろいろなフュージョンを聞きあさっていた。

これらの音楽は電気楽器が特徴的で、シンセサイザーやエレクトリックベース、エレキギター、その他電気的なエフェクトを通した音色が多用されていた。
帝王マイルスもトランペットにエフェクターを通して吹いていた。

私はごく最近まで、自分はそういった多彩な音色や電子楽器に興味をひかれていたんだとばかり思っていたが、どうも違うらしいということに遅まきながら最近気づいた。
というのも、〈オレゴン〉というグループを再聴しはじめたからだ。

オレゴンはその名のとおり、オレゴン出身のミュージシャンが集まって作ったフュージョングループで、電子楽器も使っていたが、それが特徴というわけではなかった。
彼らの特徴はジャンルにとらわれない、まさに融合されたサウンドやリズムワークにあった。
とくにクラシック音楽やインド音楽、その他民族音楽を取りこんでいて、初期のオレゴンはインド楽器のタブラやシタール、そしてジャズではめずらしいオーボエがメロディ楽器として使われていた。
オーボエはいま現在もオレゴンサウンドのシンボルとしてつづいている。
オーボエ奏者はポール・マッキャンドレス。

彼はオーボエのほかに、私が知るかぎり、ソプラノサックスやバスクラリネット、その他さまざまな吹奏楽器を扱っている。
ポールのほかに、オレゴンの初期メンバーは、ギターとピアノ(キーボード)のラルフ・タウナー、ベースのグレン・ムーア、タブラやシタール、パーカッションのコリン・ウォルコットの4人だった。
私が最初に聴いたのはたぶん1975年ごろで、インド音楽やアラブ音楽、あるいはヨーロピアントラディショナルのテイストなどが交錯したサウンドで、心底びっくりした。
ずっと聴いていたかったが、ジャズの世界ではオレゴンというグループはあまり有名ではないみたいで、ウェザー・リポートやキース・ジャレット、チック・コリア、ハービー・ハンコックなどに比べればまったくオンエアのチャンスが少なかった。
それで、なけなしの小遣いをはたいてLPレコードを買って、すりきれるまで聴いたことを思いだす。
そのアルバムだって、田舎のレコード店では入手するのが大変だった。

その後、しばらくオレゴンのことは忘れていたのだが、十数年前にラルフ・タウナーがソロでしばしば来日していることを知り、また彼のすばらしい『アンセム』というアルバムにしびれたりしたことがきっかけで、またオレゴンを聴くようになった。
メンバーは、パーカッションのコリン・ウォルコットが1984年という早い時期に自動車事故で他界していて、いまはパーカッションやドラムスが別メンバーに交代しているが、その他の3人は相変わらず元気に活躍していることがうれしい。
ただ、サウンドは当然のことながら、初期オレゴンとは変化しており、そのことをあまり歓迎しないファンがいることも理解できるが、私は変化を楽しんでいる。

そして、表題のアルバムだ。
オレゴンは基本的に4人というコンボ編成で多彩なサウンドを繰り出すことが魅力なのだが、このアルバムにかぎっていえばオーケストラとの共演となっている。
まさに共演で、オーケストラサウンドをバックアレンジにくっつけたというようなものではなく、このアルバムのためにオレゴンとオーケストラのサウンドを融合させるためにスコアを書いているのだ。

スコアはラルフ・タウナーが大部分を、ほかのほとんどをポール・マッキャンドレスが書いているようだ。
アルバムタイトルを見て、モスクワのオーケストラ? ん? と思った私も、1曲めの「Round Robin」の美しいアレンジを聴いて打ちのめされてしまった。

オーケストラはモスクワ・チャイコフスキー交響楽団。
難しい譜面を楽団はスリリングに弾きこなしている。
それにしても、難しいアレンジ譜をよくも遠慮なくぶつけたものだと感心する。

たとえば、クラシック演奏家にとっては面倒なはずのリズムの煩雑さ。
オレゴンにとってはあたりまえのことなのだが、6拍子と5拍子が交互になった曲、あるいは11拍子の曲など、とても面倒。
「イカルス」という曲も6拍子と5拍子が入り混じった曲で、オレゴンの4人メンバーではちょくちょく演奏しているが、オーケストラとからむとなるとややこしくなる。
しかし、その複雑さを感じさせない、美しいアレンジで、幻想的な曲をスリリングに盛りあげている。

とにかく、もうずっと、何度もなんどもヘビーローテーションで聴いていたいアルバムなのだ。
ひさしぶりにそんなアルバムに出会って、そしてオレゴンがいまだに健在であること、オレゴンを牽引しているラルフ・タウナーやポール・マッキャンドレスがソロでも活躍をつづけていることなどを知って、まだまだ楽しみがあるのだろうとわくわくしている。

それにしても、彼ら、私より10歳以上も年上の先輩なんだなあ。
私もがんばらねば。

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2017年12月29日金曜日

共感的コミュニケーションの2018年版について

昨日もお知らせしましたが、『共感的コミュニケーション2018』がアマゾンKindleから発売になり、ダウンロード購入できるようになっています。
Kindleなどの電子書籍リーダー端末や、スマートフォン、タブレット端末、コンピューターなどのアプリで読むことができます。
紙本は年明けに販売開始になりますので、紙本が必要な方はもうしばらくお待ちください。

『共感的コミュニケーション2018』の「2018年版について」の部分を、抜粋して紹介します。

(2018年版について)
 『共感的コミニケーション二〇一七』をリリースして一年がたった。ありがたいことに、電子書籍版も紙本も、大変たくさんの人に手に取ってもらうことができた。
 私のもとには多くの方から、感想や質問、あるいは実際に役に立ったことの報告とお礼が届いていて、うれしく感激している。『二〇一七』が必要としている人の手に日々渡っていき、またそのフィードバックが毎日のように私に届く、そのことは私にとって「お祝い」に値《あたい》することで、この本をリリースしたことで満たされた私のニーズは計り知れないほど多い。
 『二〇一七』をリリースしたあとも――それは実際には二〇一七年という一年間ということだが――私は共感的コミュニケーションの勉強会を主催したり、みなさんから講師として招かれたり、あるいは個人的に相談を受けたりして、活動をつづけていくなかで、そのつどの気づきや考察をブログやメールマガジンの記事として書きつづけてきた。
 本書はそんなふうに、二〇一七年一年間をとおしてすこしずつ書きついできた記事に加筆と修正をおこない、一冊の本にまとめなおしたものだ。したがって、『二〇一七』とは重複する記事はなく、あらたに書きおろしたものと同様の内容になっている。
 加筆・修正の作業をおこないながら感じたことだが、この一年のあいだに私なりに共感的コミュニケーションについてのかんがえや理解が変化したり深まったりした部分があり、より進展した内容になっているのではないだろうか。お読みいただくみなさんにもそのように感じていただければ幸いだ。
 そしてもちろん、これは営業的な言質になってしまうけれど、この『共感的コミュニケーション二〇一八』は、できれば『共感的コミュニケーション二〇一七』とあわせてお読みいただくことをおすすめしたい。



2017年12月28日木曜日

新刊『共感的コミュニケーション2018』Kindle版配信スタート

新刊電子書籍(アマゾンKindle)『共感的コミュニケーション2018』のダウンロード販売が、アマゾンでスタートしました。
500円ですが、プライム会員などが利用できる「Kindle unlimited」サービスでは無料です。
スマートフォンやタブレット端末、Kindleなどの電子書籍リーダーで持ち歩いて読むのに最適です。

多くの方にご愛顧いただいている前著『共感的コミュニケーション2017』の続編で、内容は重複していません。
合わせてお読みいただけるとうれしいです。

ダウンロードはこちらから。

2017年12月25日月曜日

井の頭公園〈森の食卓〉での朗読と音楽のクリスマスコンサート、終了

2018年12月23日、土曜日。
井の頭公園の森の横にあるカフェレストラン〈森の食卓〉で、ここでは初となる朗読と音楽のクリスマスコンサートをおこなってきた。

こちらでは毎月、野々宮卯妙と栗山のぞみが共感的コミュニケーションの勉強会をひらいているのだが、アップライトピアノがあるのでコンサートをやってみようということになったのだ。
そして私は世田谷から国立に居を移してから、野々宮との朗読セッションはあまりやれていなかった。

野々宮とは世田谷・明大前のキッド・アイラック・アート・ホールでながらく「沈黙の朗読×音楽瞑想」などの公演を多数おこなっていたのだが、ホールが2016年末に場を閉じて以来、定期的に公演を打っていなかった。
なので、今回のクリスマスコンサートはひさしぶりな感じがした。

朗読や演奏を聴いていただくだけでなく、十数人というこじんまりした参加者のみなさんと交流したり、いっしょに音読エチュードを体験してもらったりと、とてもアットホームな雰囲気の場となった。

音読エチュードは音読療法として日頃高齢者介護施設でおこなっているような唱歌の歌詞の群読エチュードを、元気なみなさん向けにちょっと難易度をあげてやってみた。
みなさん、反応がよく、楽しんでいただけたようでよかった。

私自身は初めてのピアノにちょっと馴染みが浅くて、すっかり満足のいく演奏というわけではなかったが、ひさしぶりの朗読とのセッションや即興演奏を楽しませてもらった。

終了後の交流会もなごやかで楽しい雰囲気となった。
それぞれの方のお声をひとりひとり、直接聞けて、大変ありがたくうれしかった。
よいクリスマスだった。

この回のために書きおろした新作テキスト「かなたから来てここにたどり着く」は、こちら「水色文庫」で公開ずみ。

2017年12月24日日曜日

映画:ワンダー・ウーマン

監督はパティ・ジェンキンスという人で、私はまったく知らない人だった。
ジェンキンスという名前は最近なじみがあったけれど、もちろん無関係(だと思う)。
アメリカン・コミック原作の映画としては初めてとなる女性監督らしい。

女性監督だからどうとか、男性監督だとこうなったとか、変なジャッジはしたくないけれど、前半の女ばかりの島での生活の部分がまったりと(悪くいえば冗長に、よくいえば丁寧に)描かれていたのは、女性らしい感じがしないでもない。
けど、女性とか男性とか、どうでもよろし。
見所はもちろん、主役をつとめたガル・ガドットという女優。

イスラエル出身で、2004年にはミス・イスラエルになっている経歴の持ち主。
身長が177センチあるらしいが、映画のなかではあまりそれは感じさせない(そのように撮影や編集がされているのかもしれない)。
ワンダー・ウーマンの前に「ワイルド・スピード」のシリーズでデビューして、注目されている。

映画自体はまさにコミック(=まんが)であり、ストーリーも単純であほらしい。
このところ大量に作られているコミック映画のなかでも、ひときわ単細胞的であり、まだスーパーマンやスパイダーマンのほうが陰影があって立体的。
バットマンやアイアンマン、デアデビル、アイアン・フィスト、ジェシカ・ジョーンズなどはさらに陰が深く、単純なヒーローものからだいぶ逸脱して、ダークな面もある。
とくに私が最近気にいっているパニッシャーにいたっては、ダークな面もあるなんてもんじゃなく、人をがんがん殺しまくる、ヒーローのイメージを完全にくつがえすダークサイドヒーローだ。

そんな流れから見ると、ワンダー・ウーマンはなんと清らかで、子どもらしいんだろうと感じる。

ガル・ガドットはイスラエル出身ということでいろいろ批判も聞こえてくるが、不思議な女優で、シーンによってはまるで感じが変わる。
ごく普通の女に見えるかと思えば、はっとするほどの美女に見えたりすることがある。
ばかばかしいコスチュームもコスプレだと思えば楽しめるのだろう(あいにく私にはそっちの趣味は、皆無とはいわないが少ない)。

「ワンダー・ウーマン2」が公開予定らしいが、きっとまた観てしまうんだろうな。
それはそれとして、ガル・ガドットのシリアスな演技も観てみたい。


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水色文庫新作「かなたから来てここにたどり着く」登録しました

水色文庫の新作「かなたから来てここにたどり着く」を登録しました。

このテキストは2017年12月、東京・吉祥寺〈森の食卓〉でおこなった朗読と音楽のクリスマスコンサートのために書きおろした作品です。

2017年12月23日土曜日

速報:3月9日に渋谷文化総合センターで沈黙の朗読×音楽瞑想

あの「沈黙の朗読×音楽瞑想」公演が帰ってきます。
明大前キッド・アイラック・アート・ホールにて連続公演をおこなっていた「沈黙の朗読×音楽瞑想」ですが、ホールが2016年末に場を閉じて以来、東京では公演が中断していました。

それがあらたに、2018年3月9日(金)夜、渋谷区の文化総合センター大和田にて、新作公演となって帰ってきます。
ぜひとも予定をあけてお待ちいただくようにお願いします。
詳細は近日中に発表します。

2017年12月22日金曜日

映画:エイリアン・コヴェナント

あまりに楽しみにしすぎて、期待はずれでがっかりするということがあるけれど、それに近いことが起きてしまった。
とはいえ、この映画がだめだったかといえば、全面的にはそういいたくないという気持ちがある。

リドリー・スコット監督による最初の「エイリアン」からはるばるやってきて、ここにふたたびリドリー・スコットによるシリーズの新作が公開された。
期待しないほうが無理だが、この「コヴェナント」の前に「プロメテウス」が公開ずみだったことを、私はすっかり忘れていた。
「コヴェナント」はてっきり、これまでさんざんいじくり倒されて変な方向に行ってしまったエイリアンシリーズを軌道修正すべく、正統なエイリアンシリーズの一作として完全に独立した作品(というのは矛盾した表現だが)として作られたものだと思いこんでいたのだ。
だから、見終わったとき、これが「プロメテウス」の続編として作られたものだとわかって、ちょっとがっかりしたのだった。

がっかりした理由はほかにもある。
リドリー・スコットという監督は、どの映画も「超一流/超大作」という感じはしないものの、魅力的な作品が多く、とくにその登場キャラクターの配置には絶妙なものがあると思っていた。
古い順にならべてみても、
「ブレードランナー」
「ブラックレイン」
「テルマ&ルイーズ」
「ハンニバル」
「オデッセイ」
いずれも主人公はもちろん、脇役にも魅力的なキャラクターが配置され、ストーリーを盛りあげていた。
もちろん最初の「エイリアン」はリプリー役ことシガニー・ウィーバーだ。

前作であることが判明した「プロメテウス」にも、個性的な役者が登場している。
ガイ・ピアースにシャーリーズ・セロン、主人公の女性考古学者にはノオミ・ラパス。
彼女の体当たりの演技にはのけぞらされた。
この「コヴェナント」はそれらに比べると魅力に欠けるといわざるをえない。
そこが残念だ。

エイリアンシリーズは最初の「エイリアン」のあと、ジェイムズ・キャメロンによる「エイリアン2」(これもすばらしい)、デヴィッド・フィンチャーによる「エイリアン3」(残念)、ジャン=ピエール・ジュネによる「エイリアン4」(うーん)ときて、「プロメテウス」と「コヴェナント」でリドリー・スコットの手に戻ってきた。
それは喜ばしいことといわねばならない。
ひょっとして、まだ続編がありそう?

生涯に見た映画のベスト10をあげるとしたら、そのなかに「エイリアン」と「エイリアン2」を私は迷わずいれるだろう。
しかし、残念ながら「プロメテウス」と「コヴェナント」は入れられない。
だからといって、まったく楽しめないわけではない。
楽しめるし、スリリングな要素もたくさんある。
もう続編は作らなくていいよ、という気持ちも本音としてあるけどね。

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2017年12月21日木曜日

育ってきた音読トレーナー

今日の午後は毎月恒例になった練馬区にある高齢者介護施設での「いきいき音読ケア」に行ってくる。
もう五年近くになるだろうか、毎月欠かさず行って、音読療法をベースにしたケアワークをみなさんといっしょに楽しんでいる。

今日は、今年の春に音読トレーナー講座を受講して、無事に実践レポートを提出し終えてトレーナー資格認定されたまなみさんが、同行してくれることになっている。
音読トレーナーは養成合宿を経たのち、最低三回の現場実践とそのレポートを提出することが、資格認定の要件となっている。
まなみさんは現場三回だけでなく、その後もチャンスをとらえては練馬の現場にサポートに来てくれている。

そろそろ経験も積んだことだし、そして施設の皆さんとも顔なじみになったこともあって、明日は最初から最後までひとりでファシリテートしてもねらおうかなと思っている。
もちろん私がしっかりサポートするので心配はいらないが、そうやって完全に自立してもらって、自分ひとりでもいろいろな施設で音読ワークをファシリテートしたり、行政や企業や団体にも音読療法の有効性をアピールしてもらって社会貢献の仕事をしていったもらえたりと思う。

さらに、年明けには音読と共感をコラボした勉強会(カフェ)を予定していて、そこでもまなみさんをはじめとする音読トレーナーが参加し、経験を積んでくれることを期待している。
その後、自分でも積極的に音読カフェの場作りをやっていってくれたらいいと思うのだ。
そうやって音読療法が皆さんに知られ、日頃の心身の調整や健康や予防に役立つことが広まっていくことを、私は願っている。

いずれにしても、私自身、もうおなじみになった練馬の施設のみなさんとお会いするのが、明日も楽しみでしかたがない。

1月6日:ボイスセラピー講座@各務原〈カフェ花寧香〉
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座を、岐阜県各務原市で開催します。東海・中京など、お近くの方はこの機会をご利用ください。

1月8日:ボイスセラピー講座@国立
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。1月8日(日)10時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。

2017年12月20日水曜日

車の運転中の生産活動

今年(2017年)の春ごろから車を運転する機会が多くなった。
母が入院し、その後介護施設のお世話になったので、母の車を私が使うことになったのだ。
東京と北陸の実家のあいだをそれまでは飛行機で往復していたのだが、車で往復してみた。

私は車の運転がまったく苦ではなく、また友人の安納献に教わったアレクサンダーテクニークというボディワークのおかげで運転中にもまったく疲れないようになったので、東京=北陸の片道約450キロの運転も平気だ。
飛行機より時間はかかるが、なにしろドア・ツー・ドアで気楽だし、途中で好きなところに立ち寄れる。
とくに私のことを必要としてくれる人が途中で呼びとめてくれれば、共感的コミュニケーションや音読療法や現代朗読や音楽レッスンなどのコーチができる。
げんにいまは、名古屋市天白区の水野生惠さんの〈アロマファン〉や、岐阜県各務原氏の白狼澪さんの〈カフェ花寧香〉で、ほぼ定期的になんらかのワークを開催させてもらっていて、移動中の活動拠点となっている。
とてもありがたい。

そんな長時間にわたる運転中に、ただ音楽を聴いたりしているのもいいけれど、なにか生産的なことができないだろうかと、あれこれ試行錯誤中。
音楽を聴く以外には、最初にやったのはラジオを聴くこと。
車にはラジオがついているので、スイッチを押せばそのままラジオ放送を聴けるのだが、長距離を移動していくと地域の周波数に合わせ直す必要が出てくる。
これがけっこう頻繁な作業で、運転中だとあぶない。

解決策として、ネットラジオを使うという方法があった。
ネットラジオだと、車が移動しても、地域ごとにラジオ局を合わせ直す必要がなくなる。
山間部だと携帯電波が悪くなるところはあるけれども、基本的にずっとつながっているので、わずらわしさはない。
快適だ。

ネットラジオの延長としてPodcastを聴くのもいい。
オーディオブックを聞くのもいい。
オーディオブックの場合、結構長い文芸長編小説などもじっくり聞くことができる。
もちろん、必要に応じて、ビジネス書や自己啓発本を読むのもいいだろう。

さらに進めて、私は車の運転をしながら生産活動ができないかと考えている。
つまり、ブログやメールマガジンなどの執筆活動ができないかと思っているのだ。
いきなり車の中でそれを試すのではなく、今デスクトップでそれを試そうとしている。

これまで何度か音声入力による執筆を試みたことがある。
いずれもなんとなく失敗に終わっている。
それは、音声入力のソフトウェアが未熟だったということもあるし、音声入力の認識率が低かったというのも大きい。
そして何より、音声入力でテキストを執筆すると言う自分自身の慣れの問題があった。
これが最も大きな障壁になっていたかもしれない。
これはひとえに慣れるしかないのだが、それにしてもストレスなく音声入力の認識率が上がっている必要がある。

ここ数日、改めて音声入力を試している。
直接 MacBook Pro に入力するのではなく、iPhone(iOS)からWiFi経由でMacに送りこむという方法だ。

iPhoneに向かって文章を吹きこみ、iOSでテキスト変換させたものを、MacBook Pro のテキスト入力画面に送りこんで表示させる。
誤変換や取りこぼしがあれば、MacBook Pro のキーボードを直接操作して修正してしまう。
この方法だと、かなり正確に入力できるし、スピードもあがる。

しばらくこの方法を試してみる。
うまくいくようなら、この方法を応用して、運転中のテキスト入力=執筆作業として運用できるかもしれない。
また報告する。

2017年12月18日月曜日

貯金箱にコツコツとお金をためて

12月10日は愛知県知立市の〈パティオ池鯉鮒(ちりゅう)〉に行って、語人・サヤ佳ちゃんとその仲間たち〈ゆめぱレット〉が出演する知立演劇フェスティバルに参加してきた。

このフェスにはサヤ佳ちゃんと何度か参加したことがあって、これまでは大ホールのほうで開催されていたのだが、今年(だか去年だかから)は小ホールのほうに移動しての開催ということだった。

先月、豊田産業文化センターでおなじメンバーでおこなった「語りの会」の内容を、短縮して構成しなおしたものを、このフェスに持ってきた。
私はピアノ演奏で参加したのだが、歌の伴奏がいくつか増えた。
歌はみんなで歌う曲と、稲石さんがひとりで歌うものが何曲かあって、私の曲も一曲、その他は童謡とか唱歌。

豊田では中学の音楽の先生が伴奏してくれたんだけど、知立には来れないとのことで、私が臨時に伴奏。
だけど、リハーサルはほとんどなし。
適当にキーを合わせて伴奏したら、
「すごいですねー、すぐに伴奏できるなんて」
とびっくりされた。
でもこれはいつものことなので私は驚かないし、よく知っている簡単なコード進行の曲ばかりなので、転調もまったく難しくない。
こうやって書いているのも、自慢するためではなくて、ピアノが弾ける人ならだれでもできることなのでちょっと練習してみんなで音楽を楽しめるようになればいいのに、興味がある人は教えますよ(個人レッスンで)、ということをいいたいだけだ。

それはともかく、今年の知立演劇フェスではサヤ佳ちゃんと私たちのステージをなぜか思ったよりたくさんの人が聴きに来てくれていて、びっくりしたのだった。
そしてとてもよいステージになって、私たちもお客さんも大満足したのだった。

終わってからサヤ佳ちゃんが、出演料というかこれまでのレッスン代として、自分の貯金からおろしたものを私にくれた。
交通宿泊費は別にいただいているので恐縮なんだけど、サヤ佳ちゃんがほかのところで語ったり手伝ったりしてもらったお金をコツコツと貯めていたもので、ほんとうに涙が出るようにありがたく感じて、遠慮なくもらうことにしている。

知的障害者であるサヤ佳ちゃんは、一時、理解がある会社でお勤めしていたこともあるけれど、やはり語り活動との両立は大変で、いまは語りと〈ゆめぱレット〉という団体の活動に専念している。
だからけっして余裕があるわけではないのだが、そうやってすこしずつ積立たものを私にくれるというのは、それがお金であるとか金額がどうとかいう話とは別に、ほんとうにありがたく、切ないほどうれしいことだと思うのだ。

そんなサヤ佳ちゃんをサポートしてきた活動も、年があけると満15年になるらしい。
サポートというより、共演者として、これからもずっと私が元気で活動できるかぎり、いっしょにやっていきたい。

YouTube:良きにつけ悪しきにつけ人から評価されたとき

人からほめられるとうれしい、舞い上がる、けなされると悲しい、苦しんでしまう。
「自分はこれでいいのだ」という自己肯定感が低い人が多いようですが、自己肯定を他者評価にゆだねていてはうまくいきません。
人から評価を受けたとき、こちらが影響を受けずに自分らしくありつづけるためには、どうしたらいいでしょうか。

そんな話を、名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催した、共感的コミュニケーションの手法をもちいた自己共感とオリジナル表現のためのテキスト表現ワークショップでしました。


映像はこちら

2017年12月17日日曜日

YouTube:共感文章講座の前置き「私はなぜ書くのか」

名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催した、共感的コミュニケーションの手法をもちいた自己共感とオリジナル表現のためのテキスト表現ワークショップで、前置きとして講師の水城が話した部分を抜粋してお送りします。

水城がいかにして共感的コミュニケーションを表現の世界に持ちこんだのか、そこでなにが起こったのか、このアプローチを用いることでどんなことが起こるのか、話しています。

映像はこちら

身体を使って共感を学ぶ、名古屋編

先日・12月14日(木)の午後、名古屋市天白区の水野生惠さんの古民家スペース〈アロマファン〉で「音読と共感のコラボカフェ」を開催した。
生惠さんにはこちらのスペース〈アロマファン〉を毎月のように提供してもらって、私が案内人となるワークや勉強会を主催してもらっている。
ありがたいかぎりだ。
この居心地のいい古民家スペースを、私の名古屋での活動拠点のひとつのように使わせてもらえるというのは、本当にサポートや尊重のニーズが満たされてうれしく感じている。

今回は音読と共感のコラボということで、私がみなさんとのつながりや貢献のニーズからおこなっている「音読カフェ」と「共感カフェ」のふたつを合体させてしまおうという、欲張りな企画だった。

音読カフェは音読療法をもちいた心身の調整、健康法、予防法、活力アップや介護予防のノウハウを、お茶をいただきながら気軽に練習しようというもの。
共感カフェは共感的コミュニケーションをお茶をいただきながら気軽に学んだり練習したりしようというもの。

ふたつを合体させることで相乗効果が見込まれる。
共感的コミュニケーションは、ことばの使い方やその原理・プロセスを学ぶということに目が向いて、とかく知識やアタマに注目が偏りがちだが、実際には身体感覚として学びを深めることが重要だ。
とくに自分自身につながるための自己共感において、それが重要となる。

自分自身の身体やいきいきとした感覚に目を向けておくことで、学びが深まることが経験的にわかっている。
なので、共感カフェの前に音読療法の呼吸法や発声、表現のワークをおこなうことはとても有効なのだ。
今回のコラボカフェは、そんなねらいがあった。

もっとも、コラボといってもともにカフェ形式のなかで気楽に、お互いの気楽さや安心を大切にしながら進めていったので、音読療法も共感的コミュニケーションも初めての方、まだ経験の浅い方も、気軽にご参加いただけたのではないかと思う。
もちろん経験を積んでいる方も、相乗効果のなかで発見や気づきがあっただろうし、そういう私自身も今回をふくめて毎回、発見や気づきがある。

ご参加いただいたみなさん、生惠さん、今回もありがとう。
年明けには1月7日にまたお会いしましょう。

1月7日:朗読と共感のコラボカフェ@名古屋天白
自由でのびやかな表現を心がける現代朗読と共感的コミュニケーションのコラボ企画を、名古屋天白の気持ちのいい古民家スペース〈アロマファン〉にて、新年1月7日の午前・午後で開催します。

2017年12月16日土曜日

YouTube:人の役に立ちたいと思ったときも自分を手放さない

どんな人にも多少なりともだれかの役に立ちたい、貢献したい、という気持ちがあります。
それが高じると、自分のペースや能力やキャパシティを棚にあげて、必死にだれかの役に立とうとがんばってしまいます。
しかしそれではあまりいいことが起こらないし、いい結果も生まれません。
どんなときにも、まずは自分のニーズにつながり、そこから行動を起こす必要があります。
人の役に立ちたいと思っているときも、それは本当は自分自身の喜びをともなったニーズがあるのです。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。


映像はこちら

2017年12月13日水曜日

YouTube:ニーズには近景と遠景がある

どんなときにも人にはニーズがあり、それが満たされたり満たされなかったりするとき、感情があらわれたり、言動が生まれたりします。
自分自身のニーズを明確にし、自分につながっているとき、その言動はクリアで力強いものとなります。
これを自己共感ができている状態といいます。
ところで、ニーズには「すぐ目の前のいまこの瞬間にいきいきしている」ような近景と、その背後にレイヤー構造としてある遠景のようなものがあります。
この両方を把握していることが大切なのです。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。


映像はこちら

2017年12月11日月曜日

アカシデカフェ、オハナ、知立文化会館、アロマファン

5年間つづいていた三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのミニライブ付き勉強会が、8日(金)をもって最終回となった。
最後は、というか、最後も、とてもいきいきとした最終回となった。
参加いただいたのは、経営者、公務員、講師、ヒーラー、お勤めの人、さまざまな方だったが、感謝したい。

オハナが終わると聞いて、親切にも、三茶の近くの池尻大橋にある〈アカシデカフェ〉につないでくれた人がいたので、オハナの前に野々宮といっしょに寄ってきた。
まだあたらしい店で、とてもきれいですっきりした、居心地のいいカフェだ。
てっきり、共感的コミュニケーションに興味を持ってくれているのだと思って行ったのだが、オーナーのゆきさんは朗読表現に興味があるのだという。
現代朗読のワークを定期的にこちらでやろうという話になった。
ありがたいことだ。

朗読のワークショップとはいえ、現代朗読は共感的コミュニケーションを重要なファクターとして取りいれている。
いわば身体的・音声的共感表現の練習ともいえる。

私と野々宮が隔月交代で担当することになる予定だ。
おなじ現代朗読のワークとはいえ、野々宮は朗読の実演者、私は演出家という立場で、それぞれアプローチがちがっていると思うので、ぜひ両方を体験してもらいたい。

金曜日は現代朗読ゼミを午前中に開催したあと、車を飛ばして知立に移動。
語人・サヤ佳ちゃんとその仲間たちが出演する知立演劇フェスティバルに出演するための、前日リハーサルに参加した。
このフェスには、去年こそ参加しなかったものの、その前に何度か参加している。
今年はサヤ佳ちゃんが代表をつとめる〈ゆめぱレット〉というグループでの参加で、私はピアノ演奏と、ちょっとだけ演出のお手伝いで、サポート出演した。

終了後は福井の実家に帰省して、木曜日・14日には名古屋天白の水野生惠さんの古民家スペース〈アロマファン〉で、音読と共感のコラボカフェを午後1時から開催する。
お近くの方、ご都合のつく方はどうぞお越しください。
とても居心地のいい民家で、アットホームな雰囲気でこころと身体の調整・健康法をおこなったり、共感的コミュニケーションについて知識と体感の統合をめざした勉強会を開催する予定。

2017年12月10日日曜日

メールやSNSにおける共感的コミュニケーション

「メールとかSNSのメッセージで共感しあうことはできますか?」
という質問にたいして、これまで多くの人に、言下に、
「できません」
と、にべもない返事をしつづけてきた。
たしかにそういう側面もあるし、いまもコミュニケーションは対面でなければ重要な情報の多くが抜け落ちてしまうというかんがえは変わりない。
しかし、文章=テキストで「まったく」共感しあうことができないか、というと、そうでもないような気が最近はしてきている。

私が「できない」といいきってきたのは、言語および身体コミュニケーションを前提とした共感のプロセスが念頭にあったからだ。
たしかにだれかがだれかに共感する、あるいは共感しあうという交流においては、ことばに含まれるテキスト情報だけでなく、それがどのように発しられているのか、どんな調子なのか、どんなリズムなのか、そこにはどのような感情が読めるのか、引いてはそのことばはどのような身体から発しられているのか、といった複雑でリッチな情報の受け取り合いが重要になってくる。
しかし、それは対面または直接の音声交流がリアルタイムにおこなわれることを前提とした共感のプロセスにおいて重要だ、という意味だ。

最初からリッチ情報を交換できない、という限定された条件で共感を試みるとしたら、どんなアプローチがありうるのだろうか。
たとえばテキスト情報しか交換できないという限定条件において。

その観点から、共感のプロセスを一から見直してみたとき、あらたな可能性が浮かびあがってくる。
テキストで共感的な交流がまったくできない、ということは、ないのではないか。

このところ私がみなさんと試みて、大きな成果をあげている、「なにかを書くことによって自己共感を深める」というワークで、上記の可能性が私のなかでふくらんできた。
自己共感だけでなく、他者共感も試みることができるし、相互共感もありうるかもしれない。
その際、リアルタイムでリッチな交流とはかなり異なるアプローチが必要だろうと思う。
とはいえ、共感的コミュニケーションの核心的な原理をはずすわけでは、もちろんない。

こんなことをかんがえはじめて、ひさしぶりにかなりわくわくしている。
共感的コミュニケーションという体系のなかで、まだあまり手をつけられていないテキストコミュニケーションの原野に、ざっくりと冒険の舵を向けてみようと思っている。

2017年12月7日木曜日

最近のこと、母の葬儀など

昨年末に脳内出血で倒れた母は、手術、リハビリと入院生活を今年の5月まですごし、その後高齢者介護施設(特別養護老人ホーム)に入所していた。
最初のころは元気に歩いたり、食事もしていたのだが、しだいに弱ってきて、寝たきりになり、話もしにくくなってきた。
脳機能障害と、2回の切除を経て再発・転移したガンの進行が思ったより早かったのだ。

ここ数か月はかなり弱ってきて、食事がまったくできなくなって点滴でしのいでいた。
11月末には呼吸が不安定になることがあって、「そろそろ」という声が医師や介護職員から出ていたので、私もそれなりに覚悟していた。

12月1日の早朝に連絡があり、こちらに連絡する間もなく息を引きとったという。
そのまま車に乗って実家にもどった。
すでに遺体は葬儀屋によって自宅に運ばれ、座敷に安置されていた。

身内と隣近所だけに知らせ、ごく簡素に通夜と葬儀をおこなった。
それでも思ったより多くの人が来てくれて、いずれも母と親しかった人たちばかりで、心からのお別れをしにきた人ばかりだった。
僧侶が何人も来て頼みもしないお経をあげるようなことはなく、静かに親しい者だけでお別れした。

お通夜の夜、おいでいただいたみなさんにはそこそこにお引き取りいただいて、私は母とふたりだけで座敷で寝た。
ものいわぬ母とゆっくりすごせたのはありがたかった。

母とはここ数年、私にとっては「和解」とも感じられる共感的な対話を積みかさねることができていて、私もうれしかったが、母も喜んでくれていたとしたらいいなあと思っている。
別に仲が悪かったわけではないけれど、ふつうの親子にありがちな表面的でパターン化された会話やつながりしかなかったのだが、母が車の運転で事故を起こしたことをきっかけに、共感的な対話を試みたのが、私にとってはつながりのチャレンジだったし、それがよかった。

母を見送ったいま、私は寂しさを感じるけれど、安らかさもあって、母もそうであったらいいなと願っている。

東京にいったんもどってきて、今週は共感週間ともいうような共感カフェや文章講座のイベントがつづいているが、母とのつながりを取りもどした私の経験をだれかとシェアする機会があるといいなと思う。
もちろん母のこと、母とのことについては、あらためて書きのこしてみたいとはかんがえている。
それが私の供養だから。

2017年12月4日月曜日

YouTube:ピアノ即興アレンジ演奏「ふるさと」@福井県立病院

2017年10月に福井県立病院のエントランスホールで「秋のコンサート」の模様から、iPhoneで撮影した記録映像の一部を抜粋してお送りします。
唱歌「ふるさと」の即興アレンジ演奏です。
作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一です。


映像はこちら

2017年11月30日木曜日

メールやSNSメッセージで共感は可能か

しばしば標題のような質問を受ける。

しばらく前までは、言下に、
「無理です」
と断定していた。
人と人のコミュニケーションというものは、表面的に交わされている「ことば」など言語情報のほかに、表情や反応、姿勢、息遣い、視線、声のトーンやリズムといった、非常にリッチな情報を交換していて、しかもそれらのほとんどは無意識のうちに処理されている。
それに比べ、メールやメッセージなどによるテキストコミュニケーションは、リッチな情報がほとんど抜け落ちた、言語情報のみによるかなり貧相(プア)な交流といわざるをえない。

共感的コミュニケーションにおける人と人の共感のやりとりは、無意識下の処理を含むリッチな交流で、とてもテキストの交換のみでおこなえるようなものではない、たいていは失敗する、というのが、容易に想像できることだし、また経験的にもそういえる。
実際にメールでやりとりして、こちらの意図がまったく伝わらなかったり、思いもよらない反応が相手から返ってきて、絶望的な気分になった経験を持っている人は多いのではないだろうか。
だから、テキストで共感はできない、といわれているし、私もそう思っていた。

でも、ちょっと待て。
本当にそうなのだろうか。

私は子どものころから本が好きで、さまざまな本をたくさん読んできた。
北陸の山間部という田舎に生まれ育ったので、世界を知るには本は貴重な情報源だった。
その読書体験――テキスト体験を振り返って、それがプアな体験だったとはとうてい思えない。
むしろ非常にリッチな時間だったと、いまでも感じている。
子どものころのテキスト体験がなかったら、いまの私はいまとはまったく別の人間になっていただろう。
そのことはあまり想像したくない。

ことばだけのテキスト情報は、たしかにそれ以外のリッチな情報が抜けおちているが、だからといって読む者に豊かな経験や感覚を喚起させないとはいえない。
ようするに、どう書くか、どう読むか、ということなのではないだろうか。

最初からテキストだけのやりとりでは共感はむずかしい、とあきらめてしまうのではなく、テキストの可能性を共感的コミュニケーションの観点から洗いなおすことで、あらたなコミュニケーションが見えてくるかもしれない、と私は希望を持っている。
というのも、最近の共感文章講座でおこなっているいくつかのワークで、テキストを用いた共感交流の可能性が見えてきたからだ。

だれかが書いた文章を読むとき、私たちはついつい、そこに「なにが」書かれているかを読みとろうとする。
そこに書かれている「情報」に注目する。
そういうふうに読む習性が身についているからだ。
その習性はおそらく、教育や社会性のなかで成長とともに訓練して、あるいは強制されて身につけてきたものだろう。

いったんその習性を手放し、「なにが」書かれているか、ではなく、「どう」書かれているかに注目して文章を読んだときに見えてくるものはどういうものだろうか。
実際にワークで経験したことだが、だれかが書いた文章にはさまざまな感情やニーズが込められている。
それが意識的に書かれていることもあれば、ほとんどの場合は書き手も無意識に書いていることが多い。
しかし、それは文章からある程度読み取ることができる。

人が話したり行動したりするとき、そこには豊かな感情があらわれ、またその奥にはニーズが息づいているように、書かれた文章のなかには感情がこめられ、それはさまざまなニーズにもとづいている。
それを受けとり、フィードバックを返していくことで、これまでとは異なったテキストコミュニケーションができるかもしれない。

また、自分が書くときにもそのことを意識する。
自分のニーズや感情をつかまえ、そこから離れないままなにかを書くとき、それはどんな文章表現になるだろうか。
このことは、実はある程度実験ずみだ。
そこに大きな可能性と楽しさがあることは、すでに実証ずみだ。
そこで起こっていることを、もうすこし整理し、系統だてて説明したり、だれもが練習できるようにしてみたいと、私はいまかんがえているところだ。

12月3日:自己共感を用いた文章表現WS
水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

YouTube:ことばではなく自然な態度が共感をもたらす

だれかに共感するとき、どのように聴けばいいのか、相槌はどうすればいいのか、どのような質問がふさわしいのか、どんなことをいってもいいのか、あるいはいってはいけないのか、など、コミュニケーション・スキルとしてテクニックを気にする人がいます。
しかし、もしそれらを身につけたとしても、残念ながらあまり役に立ちません。
本当に役に立つのは、相手に興味を持つ、相手のニーズに目を向け尊重する、相手を思いやる、その「態度」もしくは「姿勢」そのものです。
それがこちらにあるとき、どのようなことばを使っても相手につながることができます。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

映像はこちら

2017年11月29日水曜日

YouTube:共感とは自分につながるお手伝いをすること

共感的コミュニケーションの解説をしながら、感情とニーズに注目することで相手につながる実践をおこなっている記録映像です。
「共感する」という行為は、話を聴いている相手が自分のニーズに気づき、自分自身につながるお手伝いをすることだ、ということがわかるかと思います。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

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2017年11月28日火曜日

YouTube:自分の喜びから人の役に立つことの重要性

だれかの役に立ちたい、貢献したい、という気持ちはだれにでもあるものですが、それが勝ちすぎると相手にもプレッシャーを与えてしまいます。
自分が喜びをもって貢献したいと思っているとき、相手は「ありがとう」という気持ちになりますが、そうではなく「やらなきゃ」と思って無理をしているときは、相手は「申し訳ない」という気持ちにさせられてしまいます。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

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2017年11月27日月曜日

進化した(NVC)共感文章講座

すでに何度か開催しているけれど、「自己共感を用いた文章表現」のワークショップが、最近、とてもいい感じに進化してきた感がある。
とくに先日の名古屋天白区〈アロマファン〉で開催したワークショップでは、参加してくれたみなさんの協力と集中力に助けられて、長年文章講座をおこなってきた私にとっても、いくつもの大きな気づきと進展があって、びっくりした。

かつては文章表現のテクニカルな面ばかりに注目し、それはそれでユニークな内容だったと思うけれど、ここ何年かは身体感覚からもたらされるオリジナリティやその独自性に注目した内容にシフトしてきていた。
それがいまも月に3回のペースで開催している「身体文章塾」だ。

この身体文章塾の入口として単発で開催しているのが、自己共感を用いた文章表現のワークショップだ。
この「自己共感」ということば(=行為)は共感的コミュニケーションから来ているもので、いまこの瞬間の自分自身の「ニーズ」を理解し、それを把握しつづることで、いきいきした行動や身体感覚が表現にもたらされる。

これは、フレッシュな身体感覚を注目するときに有効であるマインドフルネスと密接な関係があって、私がここ十数年おこなってきたマインドフルネス、自己共感、それらによってもたらされる予見不能のオリジナリティを見るためには欠かせない。

身体感覚の側面からアプローチしてきたテキスト表現のオリジナリティだが、ここ何回かは意識的に自己共感のプロセスを取りいれることを試みていた。
なにげなく書かれた文章のなかに、どんなニーズが隠されているのか、自分が書いたものであれ他人が書いたものであれ、そこに注目して読んでみる。
すると、書かれているありふれた表現や言葉遣いのなかに、じつは豊かな感情やニーズが潜んでいたり、あるいはそれを伝えようという試みがあることに気づく。

それを「逆順」にしてテキスト表現にアプローチしてみる。
なにか書こうとしたとき、自分はいったいなんのニーズがあり、またそのときどんな感情があり、身体感覚があったのか。
それをつかまえ、そこから注目をそらさないまま、文章を書いてみるのだ。
ただし、人に読んでもらう文章である以上、言葉・テキストという記号を用いて「伝わる」ことを考慮しなければならない。
その最後の部分では、ある程度テクニカルな配慮が必要になってくる。

このようなプロセスで、先日のアロマファンでのワークショップでも、6時間にわたってみっちりとみなさんにテキスト表現に向き合ってもらったのだが、最後には私にとっても感動的な作品がいくつも完成して、ほんとうに驚かされた。

12月3日:自己共感を用いた文章表現WS
水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

2017年11月26日日曜日

YouTube:相手のニーズを聴くための質問のコツ

「あなたのニーズはなんですか?」
というオープンな質問はうまくいきません。
なぜなら、人はなにか聴かれると「答えなきゃ」という無意識が働くことがあって、ついあせってよくかんがえないまま答えてしまうことがあるからです。
共感的に聴くには、具体的に「あなたのニーズは○○ですか?」と、イエス/ノーで答えられる質問をすることがコツです。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

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2017年11月25日土曜日

YouTube: お金を浪費する人のニーズは?

高価なものを無計画に衝動買いしてしまう、いらないものを次々と買いこんでしまう、パチンコなどギャンブルに浪費してしまう、など、お金を浪費してしまう人が身近にいると、心配になってしまいます。
あるいはお金ではなく、お酒やタバコがやめられない、ひょっとして薬物や恋愛やなにかほかのことへの依存がある人もいるでしょう。
そんなとき、その人が満たそうとしている本当のニーズはなんでしょうか?
そのニーズをきちんと聞いてあげたとき、なにが起こるでしょうか。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

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2017年11月22日水曜日

止まらない愚痴をどう聴くか

偶然だろうと思うけど、最近の共感カフェやフェイスブックのコメントで何人かから共通の「気がかり」について教えてもらった。
それは、人の悪口や愚痴をいってくる人がいて、それが長々ととまらず、また何度も繰り返されてうんざりする、どうにか愚痴をやめさせる方法はないだろうか、ということだ。
それぞれのシチュエーションは違っているが、ここではざっくりと、
「愚痴を繰り返し長々という相手の話をどう聴くか」
ということに焦点をあてて、共感的コミュニケーションの視点からかんがえてみたい。

これらの方たちに共通しているのは、
「すでに愚痴を聴くことにうんざりしている」
ということだ。
すでに愚痴を聴くことにうんざりしている場合、どのように愚痴をこぼす人に対処すればいいか、という切り口でかんがえてみる。

まずこちらにはどのようなニーズがあるのだろうか。
愚痴を聴きはじめたとき、自分のなかから生まれてくるさまざまな強弱の感情が、自分のニーズを教えてくれる。
愚痴を聴きはじめたとき、こちらには、
「またはじまったよー、いつもと同じ話だ。何度も何度もおなじ話を聴かされて、しかも後ろ向きで非生産的で聴けば聴くほどこちらが落ちこむのがわかっていて、うんざりするよ。やだーもう聴きたくない」
という反応や感情があらわれてきたとする。
そのときの反応や感情が示す自分のニーズはなんだろう、ということだ。
そこにつながってみる。

ただ、その前にひとつやっておきたいことがあって、何度もおなじ愚痴を聴かされたり、うんざりさせられた経験が、あなたのなかに一種の「傷」をあたえていて、その「痛み」があなたの行動や感受性を鈍らせてしまっている、ということがあるかないか、確認しておきたい。
もしそれがあるとしたら――とくに痛みが大きい場合は、それがきちんと「聴かれる」必要がある。

聴かれるのは「だれか」であってもいいし、自分自身であってもいいが、いずれも共感的にジャッジやアドバイスや非難なく受け取られ、認められる必要がある。

自分の痛みにたいする客観的な理解と、できれば癒しを経て、ふたたび「愚痴をくりかえす人」の話を聴けるかどうか、あるいは聴きたいかどうか、自分に問うてみる。

「聴きたい」にしても「聴きたくない」にしても、そこには「自分」のニーズがある。
それにつながっていない状態で話を聴くことはできないし、また話を「聴かない」こともできない。
つまり、ニーズにつながらないままなにかを選択してしまったとき、そこには居心地の悪さや後悔が残るだろう。

さて、もし「愚痴をくりかえす人」がいまふたたびあなたのところに来て、愚痴を話しはじめたとする。
そのとき、あなたにはどんなニーズがいきいきするだろうか。
今度こそいやいやではなく積極的に相手の愚痴を聴き、相手がほっとしたり気がすんだりすることに貢献したいと思う?
いつもうまくできなかったことを今度はうまくできるかどうか挑戦してみたいと思う?
あるいは、自分には自分の時間や選択のニーズがあって、相手の話をいま聴く余裕がないと感じる?

後者だったら相手に正直に、自分にはいま話を聴く余裕がないことを伝え、余裕があるときにあらためて聴かせてくれるようにお願いする。

前者の場合、いよいよあなたはこれまでとは違う態度で、本質的な共感を相手に向けてみる。
このときあなたは、本当の意味で「相手のニーズ」に注目しながら話を聴くことにトライすることになる。

よくやりがちで、失敗してしまうパターンは、相手の愚痴の「内容」を聴き、そのニーズを最初に推測してしまう、ということだ。
たとえば、
「仕事がうまくいかなくて、いつも失敗ばかりしてしまう。上司には怒られてばかりだし、同僚からは見放されてしまった。仕事やめようかな。私なんかいないほうがいいのかもしれない」
というようなことを繰り返しグチる友人がいたとする。
あなたは友人に共感しようとして、
「職場のみんなに受け入れられることが大事なのかな? それとももっと能力を身につけて仕事がうまくいくようになることが必要なのかな?」
というようなことを聴いてみる。

ここで共感がうまくいき、友人が自分のニーズに気づいて活力を取りもどせたとしたら、それはそれでいいのだ。
しかし、ときに、友人がなかなか自分のニーズにつながれず、いつまでもグチグチとあなたに後ろ向きな言葉を伝えつづけ、またそれを繰り返すことがある。
そんな場合、友人のニーズは別のところにあるかもしれない。

ひょっとして愚痴を「聴いてもらう」ことそれ自体が相手のニーズなのかもしれない。
だれかに自分のことを聴いてもらいたい、伝えたい、それを受け取ってもらいたい、自分の存在をただ認め受け入れてもらいたい、つながりを感じたい、そんなニーズがあるのかもしれない。
もしそうだとしたら、愚痴の「内容」に共感を向けても、相手は自分につながることはむずかしい。
そうではなくて、相手の愚痴そのものを「聴いている」「受け取っている」「理解しようとしている」というこちらの態度が相手には必要なことで、それが伝わったときはじめて友人は安心できる。

相手の愚痴の「内容」に共感したり、それを解決しようとしたり、解決の役にたとうとしたりするのではなく、愚痴をいっている相手の不安そのものに共感し、受け入れてあげることが、まずは必要なことであることがしばしばある。

『仕事をやめたいと思ったときに――共感ハンドブック Vol.1』『祈る人』シリーズ1〜4『共感的コミュニケーション2017』『秘密』『桟橋』『ストリーム』『ジャズの聴き方』ほかにも続々とリリース予定です。一度ご覧ください。

YouTube:共感を身につけるのは難しくない?

共感的コミュニケーションでは相手の話を聴くとき、決めつけず、アドバイスもせず、ただ共感する(相手がなにを大切にしているのかに焦点をあてながら聴く)ことが重要とされますが、往々にしてそれを「むずかしい」と感じてしまう人がいます。
なぜむずかしいと思ってしまうのでしょう。
そしてそれは本当にむずかしいのでしょうか。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

映像はこちら

2017年11月19日日曜日

韓氏意拳の自主稽古

私も韓氏意拳を始めたばかりのころはそうだったが、
「自分で稽古しなさいといわれても、稽古方法がわからない。やみくもにやっているけど、これでいいのかどうか不安だ」
とか、
「形体訓練や站椿の順番や名前がわからない。やってみてもこれでいいのかどうか曖昧だ」
といった悩みがある人がいる。

教練ではないので指導はできないが、教程内容や名前くらいは私にもお伝えできる。
稽古の手順や名前がわかっていると、ちょっとした手がかりになって、自主稽古もとっつきやすくなるような感じが私にはある。
そんな人には、自主稽古会に一度参加してもらえるといいかもしれない。

先日も国立春野亭での駒井先生による講習会で、先生が、
「だれかに伝えようとすると、自分がなにをわかっていて、なにがわかっていないのか、曖昧な点やクリアな部分が明確になって、自分の役にも立つので、どんどんやればいい」
とおっしゃっていた。
このことは韓氏意拳にかぎらず私も実感していることだ。

興味がある方は、春野亭でいつでも自主稽古会をやりますので、いっしょにやってみましょう。
気軽にお声がけください。
手順とか名前がある程度わかってくると、講習会に出るのも楽しくなってくる。

11月28日:韓氏意拳養生功講習会@国立
JR国立駅徒歩5分の会場にて駒井雅和中級教練による韓氏意拳養生功講習会を11月28日(火)19時半から21時まで、ショートクラスで開催します。

2017年11月18日土曜日

相手を「甘やかせる」「つけあがらせる」という心配

恋人だったり夫婦だったり、子どもだったり、部下や顧客だったり、さまざまなシチュエーションで起こることだが、
「ここで下手《したて》に出ると相手をつけあがらせてしまうかも」
と思ってしまうことがある。

共感的コミュニケーションの勉強会では、相手を責めたり、間違いを指摘するのではなく、ただ共感することをお勧めするのだが、一様に不安な顔になる人が多い。
そんなことしたら、相手はますます図に乗るのではないか、自分ばかり不利な立場になるのではないか、という不安に襲われてしまうらしいのだ。

実際にそのような感じになってしまうこともある。
相手には相手のニーズがあり、相手もそれを満たそうと懸命になっている。
しかし、そのニーズを満たす手段はいくつかあり、いま相手が必死にしがみついている方法でなくてもニーズは満たせるということに気づいてもらえれば、相手にも余裕が生まれ、「図に乗る」とか「傘にかかってくる」ように見える必死な態度は消えることが多い。

相手に共感し、尊重や思いやりをもって冷静に対応したとき、相手がもしつけあがったり図に乗ったりするように見えたとしたら、それはまだ相手が自分のニーズにつながっていないからだ。
こちらは相手に共感し、なにが必要なのか、なにを大切にしているのか、どんなニーズがあるのか、ただ聞いてやり、相手が自分自身につながるサポートを心がける。
すると相手は自分のニーズにつながり、なにが必要なのかに気づき、それを満たすためにどんなことができるのかに目を向けることができる。
もしそのとき、あなたのサポートが必要だったら相手はそのようにお願いしてくるだろうし、あなたにもしその気があればお願いに応えることもできる。
あるいは、必要なのはあなたのサポートではなく、なにか別の手段が有効であることに気づくかもしれない。

共感というのは、相手が自分自身のニーズに気づき、自立した選択や行動を取れるお手伝いをすることであって、図に乗ったりこちらへの依存を助長することではない。
そのような心配はまったく無用で、自分が相手から依存されたりパワーオーバーな態度を取られたくなかったら、必要なだけたっぷりと共感を浴びせればいいのだ。

NVCをベースにした共感的コミュニケーションの学びの場を水城ゆうが開催しています。オンライン参加も歓迎。11月は24(金)19時半から約2時間です。

2017年11月17日金曜日

豊田、各務原、福井、名古屋天白区

今日・11月17日(金)の夜に豊田入りして、翌18日(土)は「語人サヤ佳「語りの会」2017~お母さんを語る~」にサポートで出演する。
場所は豊田産業文化センター・小ホール。
13時半から。

サヤ佳ちゃんの語りに楽曲を提供しているほか、ピアノで共演する。
ほかにもサヤ佳ちゃんが代表をつとめるゆめぱレットという団体のメンバーの何人かも出演する予定で、その稽古に何度かお付き合いさせていただいた。
「お母さん」をテーマにしたお話や音楽が詰まった、楽しくもしんみりしたコンサートになるはずで、お近くの方はぜひいらしてほしいのだ。

この日は夜に各務原のカフェ〈花寧香〉に行って、共感カフェを19時から。
もともと参加枠は少人数だけど、今回も席が埋まりかけていて、残り枠はせいぜいあとおひとり。
興味がある方はどうぞお早めに。

花寧香共感カフェが終わったら、そのまま北陸の実家に移動。
実家では母がお世話になっている施設に行ったり、車の整備とタイヤを冬用に交換したり、雪囲いをしたり、実家音読カフェを開催したり、合間にオンラインでの個人セッションをおこなったり、そこそこ忙しい。

23日(木)には福井から名古屋に移動して、午後いっぱい、天白区の〈アロマファン〉でテキストライティングのワークショップを開催。
そのあと長野経由で東京もどり。
という明日から1週間のツアー予定。

猫ヘンタイ・猫好きの白狼澪さんが開いているかわいくて居心地のいいカフェで、オリジナルハーブティをいただきながら共感的コミュニケーション(NVC)について学びあいます。午後7時から約2時間。

水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。

『朗読の力』という本を

たくさん書きたいことがたまっていて大変なんだけど、また一冊、書いてみたい本ができた。
というより、すでに断片的にはメールマガジンやブログで書いていることなのだが、それをもうすこしまとまった形にしたくなっている。

タイトルが先に降ってきていて、『朗読の力』という。

2006年に特定非営利活動法人として現代朗読協会を立ちあげる以前から、私自身は朗読をやらないくせに朗読という表現行為についてかなり大きな可能性を感じていた。
自分では朗読しないかわりに、朗読演出という形で朗読者と関わりつづけ、またステージ表現を演出という立場で数多く試み、また音楽家・演奏者という立場でおなじステージに立って共演してきた。
その過程で「朗読の力」に気づき、年を重ねるごとにその可能性をますます確信するようになってきた。

「朗読」という表現は、さまざまな表現行為のなかでも特別な位置づけにある。
だれもがいますぐチャレンジできるその表現行為には、現代人にとって非常に重要で必要なことに気づき、獲得できる、特殊な有用性が秘められている。

このことをいまここで解説するつもりはない。
それは『朗読の力』のなかで明らかにするつもりだ。
また、きちんと順を追い、ある程度の質量のことばを重ねなければ、みなさんに納得してもらうのは難しいと思っている。
だから、一冊本を書きたくなっているのだ。

まあしかし、私や現代朗読家の野々宮卯妙がやっているゼミやワークショップに参加したことがある人なら、その一端は垣間見ておられるかもしれない。
ピンと来た方がいるかもしれない一方、まったくピンと来なかった人もいるだろう。
よくわからないままについてきてくれているうちに、おぼろげながら方向性が見えてくる人もいるだろう。
なんだか曖昧な話だが、なかなかひとことで説明するのが難しい、明快に言語化することが困難なことをやっているからだ。
といって、やっていることそのものは難解でもなんでもない。
ごくシンプルなことだ。

ようするに自分の身体、生命の働きをよく注視し、そこから生まれ出ずるいきいきとした脈動を「邪魔しない」ようにする、というだけの話だ。
難しくはないが、やってみればわかるとおり、ちょっとやっかいな面がある。
それは私たちが現代的な文明生活のなかで自分の生命活動を解きはなつ機会を失ってしまっていて、むしろそれを抑制し阻害する習慣ばかりを強固に身につけてしまっている、という理由による。

長々と書いたが、ようするに朗読という表現行為は、私たちが自分自身をひとつの生命体として生かしきるための練習の有効性がある、ということだ。
みなさん、いっしょに楽しみながらやってみましょう!

朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、12月の開催は5(火)/7(木)/16(土)/21(木)/26(火)、いずれも10時半から約2時間。

2017年11月16日木曜日

あした農場の日本みつばちのお世話

あした農場に行って、日本みつばちの巣箱の内検と麦わら巻きをやってきた。
巣箱はみつばち部のものと、あした農場の渡辺さんちのものの2箱があって、いずれも順調に冬に向かっている。
渡辺さんちのほうはかなり勢いがあって、先月、採蜜した。
今回の内検でも、勢いは衰えておらず、このまま元気に冬越しをしてくれると思われる。
みつばち部のほうも勢いがないわけではなく、冬越しはたぶん大丈夫だろうと思われる。

みつばちはスズメバチなどとは違って、女王蜂を含む群全体で冬を越す習性があって、そのための貯蜜が必要になる。
冬のあいだも巣箱のなかは一定の温度に保たれ、冬眠しない。
天気のいい日は真冬でも蜜を集めに出かける。
ただ、冬場に花を咲かせる蜜源植物は少なく、そういう花はみつばちにとっては非常に貴重なものとなる。
蜜源が近所にない場合は、人工的に給餌してやる必要が出てくることもあるが、あした農場の2群についていえばその必要はないだろうと思われる。

巣箱のまわりにわらを巻いてやる。
保温してやらなくても乗りきってくれそうだが、少しでもみつばちの負担を軽くしてやれば、春になったときの勢いが違うだろう。

あした農場では麦も作っているので、稲わらよりも保温効果が高いらしい麦わらをいただいて、巣箱に巻いた。
このまま無事に冬越しして、春には女王蜂がたくさん卵を産んで、働き蜂がどんどん蜜と花粉を集めてきて、幼虫を育て、さなぎから成虫へとどんどん羽化していくことを期待したい。
すると雄蜂も生まれはじめ、女王蜂を育てるための王台が作られ、新女王が誕生したら旧女王は巣箱のなかの働き蜂を半分くらい引き連れて、巣分け(分封)のために出ていく。
新女王は結婚飛行を繰り返し、あたらしい群を育てていく。

みつばちの精緻な生態は本当に驚くばかりで、興味がつきない。
年内か年明けあたりに、報告会をかねてひさしぶりに BEE’s Cafe を開催したいと思っている。
興味のある方は仲間にどうぞ。

我がレンタル歴とネットコンテンツの巨流

LPレコードをレンタルする店ができたのは、1981年ごろのことだったと思う。
私はそのとき、京都に住んでいて、バンドマンのはしくれをやっていた。
バンドマンというくらいだから、大量の音楽を聴いていて、学生時代はレコードを買うお金がなかったからもっぱらラジオや、ラジカセで録音した(エアチェックといった)音楽をカセットテープで聴いていた。

自分で稼ぐようになると、レコードを買ったりもしたけれど、月に何枚か買えるかどうかで、レンタルレコード店ができたのはほんとうにありがたかった。
レンタル屋ではLP1枚が200円とか300円で借りることができて、それを家ですぐにテープにダビングして、ラジカセやステレオセットで聴く。
当時はまだカセットテープだったウォークマンで聴いたりもした。

そのあと、LPレコードはコンパクトディスク(CD)に取ってかわられていった。
CDウォーマンも出たけれど、私はそれは使わずに、MDウォークマンを愛用していた。
つまり、CDをMDにダビングして、それを聴いていたのだ。

レンタルビデオ店も爆発的に普及した。
ビデオも最初はVHSやベータ、あるいは光学(レーザー)ディスクであるLDなどが混在していたのだが、いつのまにかVHSばかりになり、やがてはDVDに取ってかわられた。

レンタル店は音楽とビデオを、それぞれCDとDVDで扱うようになっていって、いまはその状況がつづいている。
が、この状況も間もなく終焉を迎えるだろう。
というのも、私個人についていってみても、すでにレンタル店に足を運ぶことがなくなって久しいからだ。

いまは音楽もビデオもネットで聴いたり見たりしている。
音楽は2005年にApple社のiTunesとiPodが日本にも上陸して、当初はその普及を疑問視する人もいたけれど、いまは音楽はネットで買ったり、無料で聴いたりすることが当然になっている。
音楽配信サービスも、有料コンテンツから、サブスクリプション契約による聴き放題へと主流は移ってしまった。

ビデオも単発映画のダウンロード販売からはじまって、これも月額定額制の見放題サービスが普及しつつある。
こちらは単発映画だけでなく、連続テレビドラマやお笑いなどの既成のテレビ番組の使い回しコンテンツ、さらにはオリジナルコンテンツなども充実してきている。

大手映像配信のNetflixとアマゾンのシェア争いは熾烈を極めている。
それぞれ年に1兆円近い規模の予算をオリジナルコンテンツに投入していて、アニメを含む映像の人材や設備はことごとくこの2社の元に集まりつつある。

私は最初、Huluを契約していたのだが、圧倒的なボリュームの差でNetflixに移った。
また、アマゾンはプライム会員なので見放題サービスも利用できるが、私の使い方だとNetflixのほうが楽しめる感じがする。

Netflixでは単発映画のほか、オリジナル連続ドラマが充実している。
映画をベースに連続ドラマにする場合もあるし、かつてのテレビシリーズをあらたにリメイクすることもある。
最近ではあの「スター・トレック(宇宙大作戦)」のシリーズがNetflixオリジナルとしてスタートしたばかりだ。
スター・トレックではあるが、主人公はカーク船長ではなく、スポックももちろんいなくて、黒人女性がメインキャストになっていて驚かされた。

ドラマといっても、映像のクオリティは1回1回が映画となんら変わりなく、CGやSFXも相当凝っているし、俳優も有名どころをどんどん使っている。
脚本を含む製作陣にも湯水のように予算が投入されている感じが伝わってくる。

これがいいことか悪いことなのかはわからない。
しかし、ネットの普及による商業コンテンツの巨大な流れがとめようもなく生まれてきていることは確かだ。

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2017年11月15日水曜日

見てもらうこと、聞いてもらうことの必要性

以下、共感的コミュニケーションの話につながる話だが、まずは私が稽古している武術で体感したことから書き起こしたい。
関係ないようでいて、深く関わりのあることなのだ。
すくなくとも私のなかでは。

私が取りくんでいる韓氏意拳という中国武術は、人の身体的・生命的本質を重視している武術で、それゆえに他流派からも注目されている。
ここでは人がもともと持っている自然本有のポテンシャルを練り、実際の危機にあたってその人が持っている身体能力を十全に発揮してコトにあたれるようになることを目標としている。
なにかを付け加えたり、過去の経験をなぞったり、企んだり、ということではなく、我々の生命が本来持っている能力を全体的に発揮するためにはどうすればいいか、を問うための稽古体系となっている。

稽古の過程でつくづく感じるのは、私たち現代人は自分の身体のことをじつにないがしろにしていて、ちゃんと見ていないし、身体の声を聞いてもいない、ということだ。
見ている「つもり」、聞いている「つもり」というのはある。
その「つもり」でやっていると、腕一本あげるのにおかしなことになってしまうことに気づくことがある。
本当にきちんと身体を見てやる必要があるし、声を聞く必要がある。
それができたとき、身体は必要なことによく応えてくれる。

身体だけでなく、共感的コミュニケーションでいうところのニーズにつながり、よく理解しているとき、言動は非常にクリアでいきいきとしたものになる。
自己共感がよくできているときがこの状態だ。

人と人のつながりにおいても、だれかに本当にきちんと見てもらったり、聞いてもらったりすることが、その人本来の能力を活発にさせる。
ちゃんと見てもらったり聞いてもらったりすることで、自分につながることが容易になり、自己共感が生まれていきいきとする。
だれもがだれかをそのようにいきいきさせる手伝いができるのだ。
これが共感の力だ。

問題は「本当にきちんと」だれかを見てあげたり、聴いてあげることが、我々がすでに身につけてしまっている社会習慣のなかでは、ちょっとした困難を伴うということだ。
共感的コミュニケーションを身につけるには、武術の稽古をするように、「なんちゃって」や「つもり」ではない、隙のない練習が必要となる。

アマゾンKindleストアで買える水城ゆうの著書
『仕事をやめたいと思ったときに――共感ハンドブック Vol.1』『祈る人』シリーズ1〜4『共感的コミュニケーション2017』『秘密』『桟橋』『ストリーム』『ジャズの聴き方』ほかにも続々とリリース予定です。一度ご覧ください。

2017年11月13日月曜日

文章表現WSの参加者特典追加

オンラインおよび国立春野亭や名古屋天白区〈アロマファン〉などで開催している「自己共感を用いた文章表現ワークショップ」に、参加者特典を追加します。

このワークショップに参加してくれた方には(希望すればですが)もれなく、月に3回開催している「身体文章塾」へのお試し参加1か月分を進呈します。
ワークショップで試したことをさらに深めたり、疑問点などを確認したり、まとまった作品を書きあげたり、試してみる機会を延長できます。

お試し期間のあと、継続を希望する場合は身体文章塾メンバーになっていただく必要がありますが、継続するかしないかはご自由に選んでください。
もちろん、お試し期間特典を利用するかしないかも、自由に選択できます。
ご利用いただければ幸いです。

11月23日:自己共感を用いた文章表現WS@名古屋天白
水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。

12月3日:自己共感を用いた文章表現WS
オンライン参加も可。

2017年11月12日日曜日

自己共感がもたらす「ほがらかさ」

自分が機嫌よくほがらかでいるというのは、とても大切なことだ。
不機嫌な態度でいる人と、機嫌がいい人とでは、どちらに近づきたくなるだろうか。
あるいはいっしょにいてこちらも気が楽なのは、どんな態度の人だろうか。

お母さんが不機嫌だと、家族全員が暗い気持ちになってしまう。
ひょっとして子どもは勉強がはかどらなくなったり、話したいことも話せなくなってしまうかもしれない。
お父さんも本来の自分の能力を発揮しにくくなるかもしれない。

逆に家族のだれかがほがらかだと、みんなも元気になる。
多少しんどかったりつらいことがあったりしても、ほがらかな人に話を聞いてもらって解決策を探してみようと思えるかもしれない。
自分もがんばろうという気持ちになれる。

だれかの気分はまわりに伝染し、影響を与える。
共感的コミュニケーションでは、自分と他人の感情やニーズを切りはなし、影響を受けない、ということを重視しているが、そうはいっても落ちこんだりいらいらしている人のそばにいれば気になるし、機嫌がいい人のそばにいればこちらも元気になる。
人にはミラーニューロンという神経系があって、本能的にまわりの人の感情や身体性を写し取ろうとしてしまう。

では、どうしたらいつもほがらかでいられるのだろうか。
いつもほがらかな人は、いつもしかめつらしい人となにが違うのだろうか。

私自身の経験では、ほがらかさはマインドフルネスや自己共感、心身のいきいきさなどからもたらされる。
いまこの瞬間の自分自身の状態やまわりのことに気づいていて、必要なことや大切にしていることがあればそのことを理解している。
こころも 身体も分離することなくまとまりをもってほどよくいきいきしていて、必要があればすぐに動けるような一種の運動状態である「活体」にある。

こんな状態にあるとき、その人はまわりにたいして感覚や態度がオープンになっている。
自分自身を受容しているだけでなく、他者をも受け入れ、話を聞く準備ができている。
このオープンさは自然なほがらかさを生む。

多くの人が想像できると思うが、自分がいまここにつながってオープンになっているとき、自然に微笑みが生まれ、余裕や客観性がそこにあると感じるだろう。
ここに至るには、ただただ、マインドフルネスと自己共感を心がけ、自分の心身を見るよい視力を養うことが必要だ。

11月開催:国立春野亭共感カフェ(11.14)
NVCをベースにした共感的コミュニケーションの学びの場を水城ゆうが開催しています。オンライン参加も歓迎。11月は14(火)19時半/27(金)19時半、いずれも約2時間です。

2017年11月11日土曜日

韓氏意拳の講習会に参加する人たち

内田秀樹先生にご指導をお願いしている11月の世田谷韓氏意拳世田谷講習会は、先日、烏山区民センターにて終了した。
参加は少人数だったので、かなりじっくりと核心部分をじっくりと指導していただき、また稽古もできたので、充実した時間となった。
内田先生、ありがとうございました。

充実した時間だったが、当然武術の稽古なのでかなり疲れる。
今回はショートクラス(1時間半)とレギュラークラス(2時間半)の2コマを、ごくみじかい休憩をはさんでほとんどぶっつづけでおこなった。
私はやや体調がわるかったこともあって(食中毒か流行りの風邪か原因は不明ですが嘔吐と下痢のなか)、終わってから相当消耗したが、やっている最中は集中していてあまり疲れは感じなかった。

しかし、毎回、私以外の参加のみなさんの集中力にも驚かされる。
とくに韓氏意拳の講習会は女性や高齢の方の参加も多く、なかには私よりずっと上の年齢の方も多い。
私より長くつづけておられる方もいれば、最近になってあらためて入会した方もいる。
長い経験者の方は、ご一緒させてもらうと、その動きや身体性に触発されたり刺激を受けてありがたい。
経験が浅い方は、衰えない好奇心や探究心をお持ちのようすに、こちらも大いに刺激を受ける。
いずれにしても、先輩のみなさんには敬意をおぼえるばかりで、そのような方々といっしょに稽古できることが本当に幸運だと思う。

女性も男性も、高齢といってもその集中力と体力はすばらしく、こちらがへろへろになってくたばりそうになっていても、まだまだしゃんとしておられる方が多い。
2コマぶち抜きの講習会だと、5時間以上なんて時もあるので、もう驚くしかない。
もっとも、私にしても、入会したばかりのころは、2時間半のひとコマですら立っているのがやっとというありさまだったので、いまは5時間立っていられるだけでもかなり進歩したというべきだろう(きついけど)。

そんなきつい稽古をなんで毎回やるんだ、といわれれば、楽しいから、としかいいようがない。
韓氏意拳では「自然運動」ということを重視していて、軌道をねらった動きや、動き方をなぞったやり方を厳しくチェックしていく。
その過程で、たとえば「腕をあげる」という単純な運動ひとつ取っても、自分がいかに頭でそれをかんがえ、あらかじめイメージした軌道ややり方をなぞろうとしているかに気づかされる。
では、どうすれば自然運動としての「腕をあげる」という運動が生じるのかというと、それは「発生する」としかいいようのないとどこおりのなさで生まれてくる瞬間がある。
その瞬間をつかまえ、育て、全身に響かせ、つづけてみる。
そこにはまったく「手ごたえ」とか「力感」はないのだが、なんともいえない心地よさは味わいがある。
自分も自然生命の一部であることを感じ、可能性をかいま見、喜びを感じる瞬間だ。

今回の烏山区民センターでの講習会でも、形体訓練という、練習体系の最初にあるものからはじまって、丁寧に身体と運動を見、ときにそこから站椿や技撃椿、歩法との関連を検証しながら、奥行きのある稽古をさせてもらった。
もう何年もやっている稽古なのに、あらたな発見がいくつもあったのには驚く。

とっつきにくく、またつづけていくのも難解に思える部分がある武術だが、すくなくとも私にとってつづけることに非常に大きな意味を持っていて、自分の未知なる身体のさらなる探求のためには不可欠なものとなっている。

11月14日:国立・韓氏意拳初級講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級講習会の2017年11月は、14日(火)午後にJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

2017年11月10日金曜日

いまさらながらあらためて著書紹介『共感的コミュ……』

この年末に『共感的コミュニケーション2018』をリリースする予定で準備をすすめている。
今年初にリリースした『共感的コミュニケーション2017』のつづきにあたるが、内容的には一切かぶっていないので、合わせてお読みいただけるとうれしい。

ところで、この『共感的コミュニケーション』のシリーズは、アメリカの心理学者マーシャル・ローゼンバーグが提唱し、体系化したNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)にもとづいて開催している共感カフェや共感サロン、その他ワークショップや勉強会で実際に提示された人間関係の実際的で具体的な問題を、ひとつずつ取りあげ、読み物としてまとめたものだ。
マーシャルのNVCは『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』というタイトルで日本経済新聞社から翻訳本が出ている。
私の友人である安納献氏が監訳にたずさわっていて、こちらも参照していただくことをおすすめする。

私の本の特徴としては、前記のように、実際に起こったことで具体的なエピソードにもとづきながら、共感的コミュニケーションについて考察している、ということがある。
この本に書いたかんがえかたを踏まえて、私は共感カフェなどの勉強会を開催したり、個人セッションをおこなっているが、そこで起こったことや話されたことがまた本にフィードバックされていく、という双方向性が特徴となっている。
年末にリリースする予定の『共感的コミュニケーション2018』も、まさに今年2017年一年間でみなさんから聞いたり私自身が経験したことをもとに書かれた、具体的な内容となっている。
私自身のリアルな経験であり、身体的実感から生まれた、いわば水城ゆうという身体を通過した共感的コミュニケーションの事例考察だ。

日本にNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)がはいってきたのはまだほんの十数年にしかすぎない。
アメリカからの輸入であり、初期の勉強会といえば、英語の堪能な人が原書を読んだり、現地のワークショップに参加してきた体験をシェアしたり、あるいは現地のトレーナーを招聘してそれを通訳を介して学んだり、といったもどかしいものだった。
しかし、深く学んでいけばわかるように、このコミュニケーション体系はアメリカだけのものでなく、英語圏だけのものではなく、他の言語文化圏や、もちろん日本人にもまったく通用する、人類普遍といってもいいものだ。
それゆえに、日本文化、日本語文化圏のなかでも十分に咀嚼され、こなれていき、身体化する必要があると私は思っている。

かつて仏教が大陸から伝来したとき、僧侶が大陸に渡って学んだり仏典を持ち帰ったり、あるいは大陸から高僧がやってきたりして、ありがたく拝んで学んでいった。
それがいつしか、日本に根付き、土着の文化や宗教ともまじわり、そのスピリッツは保ちながらも日本オリジナルの仏教として広まっていった。
そのときはじめて、仏教は日本人にとって身体化したといえた。
NVCについても、おなじようなことがいえるのではないかと、私はかんがえている。

NVCを共感的コミュニケーションとして日本でも身体化するにはどうしたらいいか。
それは日本人である私が、自分自身の個人的なコミュニケーション体験として実践し、身につけていくことでしか実現できないのではないかと思っている。
その体験を書きしるすことが、私において身体化した共感的コミュニケーションを多くの人に共有の体験としてシェアできることだろう。

アマゾンKindleストアで買える水城ゆうの著書
『仕事をやめたいと思ったときに――共感ハンドブック Vol.1』『祈る人』シリーズ1~4『共感的コミュニケーション2017』『秘密』『桟橋』『ストリーム』『ジャズの聴き方』ほかにも続々とリリース予定です。一度ご覧ください。

◎紙本『共感的コミュニケーション2017』はこちらから購入できます

2017年11月7日火曜日

直近(10日間)の水城イベント

直近(10日間)の水城イベントです。

明後日です。
11月開催:水城ゼミ(11.9)
朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・水城ゼミ、11月の開催は9(木)/11(土)/16(木)、10時半から約2時間(2日のみ19時半から)。

明後日です。
11月9日:かまいキッチン共感カフェ@下北沢
安心して親子連れで行ける店として有名な下北沢〈かまいキッチン〉で、#共感的コミュニケーション ( #NVC )の勉強会を開催します。11月9日(木)15時から17時まで、お子さん連れ歓迎です。

あと4日です。
11月開催:マインドフル共感練習会(オンライン)(11.11)
水城の著書『マインドフル練習帳』(Kindle)を使って、毎週土曜日の早朝7時半から30分間限定でマインドフル共感練習会をオンラインでおこないます。11月の開催は11(土)/25(土)です。

あと4日です。
11月11日:ボイスセラピー講座@国立
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。11月11日(土)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。

あと7日です。
11月14日:国立・韓氏意拳初級講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級講習会の2017年11月は、14日(火)午後にJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

あと8日です。
11月15日:ステイハッピー共感カフェ@下北沢
隔月で開催している下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェです。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

あと10日です。
11月17日:もけごはん付き共感カフェ@国立〈門〉
国立市の古本ブックカフェ〈門〉で、おいしいもけごはんと〈門〉のご主人・和田さんによる絶品のお茶をいただきながら、共感的コミュニケーションについて学んだり、お互いの話を深く聴きあう練習をします。12時から。

2017年11月6日月曜日

自己共感を用いた文章表現ワークショップ終了

11月の文章表現ワークショップが終了した。
今回の前半部分のテーマは、「書きたいこと」と「書いてしまったこと」のズレ・違和感について。

書きたいことというのは、たとえそれがはっきりしたエピソードの紹介だったり、かんがえの伝達であったりしたとしても、書く前は自分のあたまのなかでもやもやと抽象的な雲のような塊として存在していて、まだ言語化されていない。
それをできるだけ取りこぼさないように、慎重に言語化し、構造化をこころみるわけだが、たいていはうまくいかない。
書きたかったことと、実際に書きあげた文章のあいだには、どうしても埋まらない溝があって、もやもやとした違和感を払拭できないという経験をした人はたくさんいるのではないだろうか。

その違和感やズレの部分を、共感的コミュニケーションのプロセスを用いて丁寧に見ていくとどうなるだろうか、というワークだ。
感情とニーズにスポットをあて、違和感を丁寧に見ていったとき、自分が伝えたいと思っていたもやもやした雲のなかにある「本質」というか「核=コア」のようなものが見えてくる。
そこを把握し、つながって、あらためて表現してみたとき、もやもやした違和感は劇的に減少する。

参加のみなさんといっしょにトライしながら気づいたのだが、ひょっとして共感的コミュニケーションのプロセスを用いた文章表現のワークは、ほかでやっているのを知らない。
私が知るかぎりにおいて、ここでしかやってないはずだ。
そしてこのワークは、文章表現の技術向上にも有効だが、自分自身を知る、自分自身につながる自己共感の練習としても、かなり有効な方法だと確認できる。
これをやってみることで、自己肯定や自己共感に力強く向かうことができる。

後半はより技術的なことにもチャレンジ。
たとえば、文章表現のオリジナリティはどんなふうに獲得すればいいのか、オリジナリティはなにから生まれるのか、ということをメタファーを用いたワークなどで確認しながらそれぞれトライしてみた。
あるいは主観と客観の分離が、なにかを人に伝えるためには非常に重要であり、伝わる文章、伝わらない文章を分けるものはどの点なのか、ということの確認もしていった。

国立春野亭に直接参加の人、オンライン参加の人、それぞれいっしょに自分につながり、自分を知り、オリジナリティを大切にしながら自分を表現する練習の時間となった。
お互いに大切にしていることを尊重しあったり、確認し理解しあったりしながら進めていくワークは、深いつながりも感じられて豊かな時間でもあった。
テキスト=文章を書くことで自分を知り、つながるワークが、もっと広まって気軽に用いられるようになるといいな、と思っている。

12月3日:自己共感を用いた文章表現WS
水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

2017年11月5日日曜日

映画:ブレードランナー2049

公開されたばかりの「ブレードランナー2049」を立川シネマシティまで観に行ってきた。
なんと、シルバー割引で1,100円だった。
ラッキー(笑)。
そうか、そういう年齢になったんだ、お祝いだね、これは。
映画はなるべく映画館で観たいと思っても、1,800円はちょっと高いなと思う。
が、1,000円だとだいぶ気軽に行ける気がする。

それはともかく。
最初の「ブレードランナー」が公開されたのは1982年。
私はまだ京都でバンドマンをやっていて、カラオケブームに押されてそろそろ仕事がなくなってきたのでどうしようか、とかんがえている時期だった。
だいぶ暇になってきたので、小説を書いたりして暇つぶしをしていた。
そのとき書きあげたSF長編小説が私の作家デビュー作となったのだが、ひょっとして「ブレードランナー」の影響を受けていないとはいいきれないところもありそうだ。

その続編としての「2049」。
30年後という設定。
リドリー・スコットは「2049」では監督はやらず、製作総指揮にまわっている。
監督はドゥニ・ヴィルヌーヴという人。
だれなんだと思ったら、「メッセージ」の監督ではないか。

「メッセージ」はネット配信がはじまっていて、観ようかどうしようか迷っていたところだったから、これはさっそく観なければ!
というくらい、「2049」はよくできていた。
最初の「ブレードランナー」の衝撃には比べようもないけれど、続編として、そしてそれ以上に単独作品として、良質の映画になっていると思った。
とても楽しめた。

よく「SFは絵だ」といわれるけれど、映像もすばらしくオリジナリティにあふれていてイマジネーションを刺激されるし、元の「ブレードランナー」へのリスペクトもたっぷりだ。
その上でディテールが楽しめるし、テクノロジーを駆使した工夫もかなり詰めこまれている。
世界設定も未来像として決して楽しいものではないけれど、重厚に作りこまれている。

映画全体のテーマとして、前回を踏襲する部分も多く、記憶とはなにか、人を人たらしめるもの、差別問題、命の問題など、重い問題をがっつりとあつかっている。
それは元々の原作、P・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』にもあったものだ。

配役も絶妙で、老体のハリソン・フォードがなかなかがんばっている。
娼婦役で出てくるマッケンジー・デイビスという女優がいるのだが、あれ、この人、どこかで見たなと思ったら、やはりリドリー・スコットの映画「オデッセイ」でNASAの職員役として出ていたのだった。
ちょっととぼけた、しかし妙に存在感のある女優だったので覚えていたのだが、演技力が買われたのだろう、「2049」でもなかなかいい演技を見せてくれる。

彼女と、バーチャル恋人ジョイ役のアナ・デ・アルマス(かわいいねえ)が、リアルな肉体とバーチャルな映像を同期させて主人公とからむエッチシーンは、なかなかよくできている。

あと、「ブレードランナー」で圧倒的な存在感を見せていたレイチェル役のショーン・ヤングが、30年前そのまんまの姿で出てくるのは、いったいどういうトリックなのか。

ひとつ残念だったのは、映画館が「極上音響」を売りにしていて、振動をともなった重低音の大迫力なのだが、それが逆にうるさくて気になってしまった。
音楽もいい感じだったのだが、必要以上に強調された音響にディテールを壊されてしまっているような気がして、残念だった。

いずれにしても、おすすめの映画だ。
ただし、上映時間は2時間半を超えるので、要注意。

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2017年11月4日土曜日

傾聴についての質問

人の話を聞く、ということについての質問をいただいた。

――――――
他者の話を傾聴(ジャッジやアドバイスをするために聞くのではなく、只只、相手と繋がるために相手の話に耳を傾ける )しようとした時、相手の感情に同調してしまいます。例えば、他者が悲しいと涙を流していたら、私も悲しくなって涙が滲んできます。
他者の話を共感的に聞きながらも、同情せずに、私は私とつながって居られるようになりたいです。
『この悲しみの感情は、○さんのもので、私のものではない!私の体はリラックスしていて心は平穏です』と唱えてみても、やっぱり、自然と涙が滲んできてしまいます。
どうすれば良いでしょうか?
――――――

話を聞いている相手に同情してしまったり、影響を受けてしまうのは、望ましいことではない。
まったく(相手にとって)役に立たないということではないが、こちらは聞きつづけるのが大変になるし、あまりにシビアな事情だったり激しい感情が相手にある場合、つながりを持ちつづけるのがむずかしくなる。

共感的コミュニケーションでは、相手の感情(とニーズ)とこちらの感情(とニーズ)を切りはなしておくことが重要で、もっとも基本的なスキルといってもいい。
たとえどれだけ激しい感情が相手にあらわれていたとしても、それは相手のニーズから生まれたものであり、こちらとは関係のないものだ。
こちらはこちらで自分のニーズにつながりつづけている必要がある。

そもそも、その人の話を聞こうと思った「こちらのニーズ」はなんだろうか。
あるいは聞きつづけている「こちらのニーズ」はなんだろうか。
また、聞きつづけることがむずかしく感じはじめたときの「こちらのニーズ」はなんだろうか。
いつもその瞬間の自分のニーズにつながり、理解している必要がある。
自分のニーズがわかっていれば、その時々で自分がどうしたいのか、なにができるのか、最適な行動はなにかがクリアになる。

自分につながりつづけているのがむずかしいとき、つまりこちら側が自己共感できていなかったり余裕がなかったりするとき、話を聞きつづけるのがむずかしいことを正直に相手に伝える必要がある。
この質問者のように、なにかをとなえたり、自分に言い聞かせてみても、そもそも自分のニーズにつながりつづけていられない状態は、相手の話を聞ける状態ではないということだ。
いつなら、どのような状況なら話を聞くことができるのか、もしそう思うならもう一度話を聞く気持ちがあることを相手にも伝えておくことが、つながりの役に立つだろう。

NVCをベースにした共感的コミュニケーションの学びの場を水城ゆうが開催しています。オンライン参加も歓迎。11月は6(月)11時/14(火)19時半/27(金)19時半、いずれも約2時間です。

2017年10月31日火曜日

個人セッション(的)に長いお付き合いとなった人たち

私は専門のカウンセラーというわけではないので、そんなにたくさんの人を相手にしているわけではないけれど、共感的コミュニケーションやボイスコーチングを用いた個人セッションの依頼を、ちょくちょくうけたまわっている。

最初から個人セッションを依頼してくる方もいれば、はじめは共感カフェに参加してくれてそのあとに個人セッションも、という人もいる。
かなりシビアな問題を抱えている人もいれば、なんとなくもやもやしていて元気が出ない、というような人もいる。
気がついたらそういう方が何人もいて、必要に応じてセッションの申し込みをしてきてくれる。

もちろん、つながりが途切れてしまった人もたくさんいるけれど、いまだにつながっている人とは何年にもわたる長い付き合いになっていることが多い。
ありがたいことだ。
そこには私への信頼を感じられて、私もそれに正直に、誠実に向き合いたいという気持ちがある。

私の個人セッションは、もともと、ナレーターや声優のための音声表現スキルアップの個人レッスンとしてスタートしたものだ。
ただただ正しくきれいに伝えるだけのナレーションやアナウンスメントだけではなく、朗読やオーディオブックなどの個性を発揮して表現の幅を身につけたいとか、マイク収録における技術的な問題を解決したい、といったニーズに応えるものだった。

技術的に解決できることは問題ないけれど(すぐに解決できる)、なんらかの理由である種の心理的なブロックが関わっているようなとき、問題解決はひとすじ縄ではいかなくなる。
そういう場合、力を発揮するのが、共感的コミュニケーションを用いた共感セッションだ。

共感セッションは音声表現のスキルアップだけではなく、日常生活における個人的な問題や、仕事の人間関係など、さまざまな問題にもアプローチし、解決にいたったり、解決にいたる道すじを知ることができる。
そういう意味で、個人セッションはしだいに、音声表現のプロだけでなく、一般の人の発声、話し方、表現、人づきあい、人間関係、自分自身とのつながり、といった問題もあつかう方向に広がってきて、現在にいたっている。

とくに最近はかなりシビアな人間関係の問題をあつかうことが多くなっている。
仕事上の人間関係、家族の問題、パートナーとの関係など、うかつな人に相談できないような問題を、私には話していただける。
友人に聞いてもらってもいいのだろうが、彼らは共感的に聞くということができないことが多い。
ついつい自分の経験に引きつけて同情したり、アドバイスしたり、分析したり、断罪したり、といった反応になってしまうこともある。
せっかく勇気をふりしぼって話したのに、がっかりな結果に終わってしまうのは残念だ。

私の場合、解決にいたるかどうかは別として、すくなくとも共感的に話を聞き、本人がなにを大切にしているのか、どんなことが必要なのか、気づくお手伝いに専念するので、自分自身につながるお役には立てるだろう。
結果的に解決にいたることが多い。

私と長くつながってくれている人たちは、たぶん、私と話すことの目的が「解決策を得ること」ではなく(それもあるかもしれないが)、「自分自身につながり落ち着く」ことの助けになると思ってくれていて、その部分で頼りにしてくれているんだろうと思う。

ところで、私のなかにも「お金についての心理ブロック」があるらしく、それは過去に受けたなんらかの傷から来る痛みなのだろうと思うけれど、無意識で起こることなので自分ではなかなか気づきにくい。

個人セッションを受けてくれた何人かから、
「申し込みの方法がわからない」
「予約サイトにたどりつけない」
「支払いの方法がわかりにくい」
といった指摘を、このところ立てつづけに受けた。
心をあらためて心理ブロックに向きあい、きちんと処理してみようと思っている。

私のおこなっている個人セッションは、「セッション」と銘打たなくても、たまたま顔を合わせたときのちょっとした共感やワークなどでも喜んでくれる人がいて、自分でもだれかの役に立てることがうれしかったりする。
セッションも時間枠に縛られず、自由にやりたいと思っていて、必要ならば一定の時間じっくりやることもあれば、すぐにすんでしまうこともある。
一応、規定の時間と金額は決まっているが、あくまで「参考の基準」くらいにかんがえておいていただけるとありがたい。

個人セッションの申し込み窓口は、直接のフォームリンクがこちら

私のウェブサイトを開いていただくと、トップベージをすこしスクロールダウンして「レッスン/個人セッション」というブロックがあるので、その下のほうにも申し込みボタンがある。

お支払いは事後でかまわないのだが、定額で払いたい方はこちらのショップページから決済できる。

定額でなく、自由にドネーション(寄付)のような形で払いたい人は、「レッスン/個人セッション」のブロックの下の申し込みボタンの横に、ドネーション窓口があるので、そちらを利用してほしい。

YouTube:水城ゆうのボイスコーチング・朗読表現編

水城ゆうがおこなっている個人セッションのひとつ、ボイスコーチングの模様から、朗読表現のコーチングをおこなっている一部をご紹介します。
こんなことを、こんな雰囲気で、というごく一部ですが。

水城ゆうのボイスコーチングに興味がある方は、こちらからどうぞ。

映像はこちら

2017年10月29日日曜日

豊田で共感的コミュニケーションと語りレッスン


2017年10月28日、午後。
豊田市のとよた市民活動センターで、共感的コミュニケーションの勉強会の案内人をつとめてきた。
主催は〈ゆめぱレット〉という団体で、代表は語り人の小林さやかちゃん。
さやかちゃんを筆頭に、知的障害などの障害を持つ人やその家族、支援者などで作られた団体で、語りや音楽など表現活動をやっている。
私はさやかちゃんとはもう15年近い付き合いで、中学生のときからずっとサポートしている。
おかげでこちらも学びと成長と豊かなつながりの経験をさせてもらっている。

今回はこの人たちを中心に、お互いに大切にしあえる関係のなかで、安心し、いきいきと表現できる場を持続的に発展させていくための方法として、共感的コミュニケーションを学ぼうということで、私を呼んでいただいた。
ゆめぱレットの主催の勉強会は、これが2回めとなる。

参加者は10人くらい、関係者もいれれば15人くらいの人数での勉強会となった。
今回はとくに身近な人とのつながりを作ること、相手にもかならず切実なニーズがあると思いやることでつながりのきっかけを「自分が」作ること、そして自分自身といつもつながっていることの大切さなどについて、みんなでかんがえ、話し合うことができた。

そこそこの長丁場をみなさん最後まで集中して参加してくれたし、熱心な質問も飛びかって、ありがたかった。
終わってから、この勉強会を不定期ではあるが、また時期を見ながら開催していきたいという話になった。

夜はおなじ会場でゆめぱレットのみなさんの語りレッスン。
来月11月18日に豊田産業文化センターのホールで、小林さやかとゆめパレットのみなさんによる語りの会をおこなうことになっていて、私もピアノ演奏やトークで参加する。
それに出演する方のレッスンをおこなった。
この語りの会のテーマは「おかあさん」で、みなさんそれぞれ、おかあさんにまつわる話を朗読したり語ったり、歌ったりすることになっている。

最後にさやかちゃんのおかあさんの希依子さんと、コンサートの進行と演出内容についての打ち合わせ。
この内容をほぼそのまま、年末の知立演劇フェスティバルにも持っていって上演するというので、私はそちらもサポートすることになった。
うまい具合に、ちょうど移動予定がかみあっていたのだ。

知立演劇フェスは12月10日(日)。
豊田も知立も、もしご都合がつく方がいらしたら、ぜひ応援にきてください。
お待ちしてます。