2016年5月31日火曜日

社会と言語活動の関係

言語活動は私たちが人として社会的生活をいとなむために不可欠のものです。それゆえにそれはある「型」や「ルール」を私たちにもたらしています。その型やルールが私たちの純粋な表現の質にあたえる影響を検証してみる必要があります。朗読表現において、私たちの純粋な表現欲求と社会性をどのようにとらえればいいのか、どのように扱えばいいのか、かんがえてみます。

ことばを使ってコミュニケーションをおこなう、ことばを使って表現する、ことばを使ってさまざまなことを学ぶ、ことばを使ってものごとをかんがえる……このような言語活動は、私たちがヒトとして社会生活をいとなむために不可欠なものです。
もちろん、朗読も言語活動の一種です。

私たちは生まれ落ちたときから、人が話すのを聞き、ことばを理解しようと耳を傾けはじめます。
最初は混沌とした音のかたまりにしか聞こえなかったことでしょう。
赤ちゃんがお母さんの話している声に集中し、懸命に聴いている姿を、だれもが見たことがあるでしょう。
記憶にはありませんが、私もそのようにしていたはずです。

混沌とした音群のなかから、すこしずつパターンを聞き分け、それがある種の意味を持っていることを察知していきます。
そして徐々にことばを認識し、自分でもそれを発語する練習をはじめるのです。

ことばを認識し、話すようになるというのは、ひとつの型をおぼえる稽古といっていいでしょう。
ダンスでも音楽でも、あるいはスポーツでも、ひとはある種の型を稽古することで身につけ、上達していきます。
言語活動もおなじです。
私たちは生まれて以来、現在にいたるまで、繰り返し、毎日、その型稽古をおこなっているといってもいいでしょう。

それはそれで社会生活をおこなうために必要なことですが、その「型」は社会の共通項であるがゆえに人の「個性」を拒否します。
「型」にはその理想形があり、そこをめざせばめざすほどオリジナリティは消えていきます。
ことばによる伝達のプロであるアナウンサーがみなおなじような感じがするのは、そのせいです。

言語の持つ「型」という社会性を踏みはずさない範囲で、どこまで自分のオリジナリティを表現できるか。
オリジナリティというのは自由な生命活動そのものといってもいいでしょう。
私たちは社会の型に自分をはめこむことができると同時に、それ以前に存在している気ままでのびやかな生命活動を持っていて、そのことにどこまで気づいていられるか、ということがいきいきと予測不能で多様な表現行為をもたらしてくれるのです。

現代朗読では、ときにその「型」をぎりぎり踏みはずすキワまで進入することがあります。
つまり、「なにをいっているのかわからない」という表現を取ることもあります。
そのときになにが垣間見えるのか。
なまの生命活動のようなものが表現されることもあります。
朗読がそもそも音声表現であり、音楽のようでもあり、さらには身体表現そのものであるということに気づかされる瞬間でもあります。
そのとき、言語活動であるはずの朗読表現が、社会性から遠ざかってきわめて個人的な生命の表現となるのです。

「朗読生活のススメ」コース全10回、2016年7月スタート(7.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座が、7月からあらたにスタートします。単発の体験参加も歓迎です。


2016年5月30日月曜日

映画:ターミネーター:新起動/ジェネシス

2015年公開のアメリカ映画。
監督はアラン・テイラーという人で、初めて名前を聞いたが、人気テレビシリーズの監督としてたくさん仕事をしている人みたいです。

いわずと知れたシュワちゃんで有名になったシリーズもので、これの前に「4」まであって、巨額予算(にもかかわらず)バカハリウッドSF映画が好物である私は、もちろん全部観てます。
最初の「ターミネーター」と「ターミネーター2」はジェームズ・キャメロンが監督で、それぞれ1984年1991年の公開なんですね。
そんなに昔だっけ。

この「ジェネシス」にもキャメロンが関わっていて、しかしノーギャラの友情出演(出てないけど)的な感じらしいです。
シュワちゃんが出演を引きうけるにあたって、キャメロンが関わることを助言したとか、要求したとか、なんかそういう話らしい。

ストーリーはちょっとややこしいです。
そもそもタイムパラドックスもので、論理が入り組んでいたり、そもそも破綻してるじゃないのという意見もあるなか、「ジェネシス」では4までとは世界設定がちがっていて、救世主のジョン・コナーの母親であるサラの子ども時代に起きたある事件がもとで、4までとは歴史が変わってしまった世界が舞台となっています。

タイムマシンによって歴史を変えようとするスカイネットと人間の戦いという設定を、さらにそもそもすでに歴史が変わってしまった世界で最初からターミネーターにタイムスリップ先で待ちかまえられているというややこしい話で、まあその分、アクションや破壊シーンはたっぷりとあるわけです。
映画のなかでものが壊れる、街が破壊される、ものすごい暴力がふるわれる、ということである種の爽快感を覚えることがあるのを、私は否定しません。
現実世界でそんなことが起こったらごめんだけど。

襲ってくるターミネーターはT-1000という、液体金属でできていてどんなものにでも姿を変えられるおそろしいやつがメインですが、さらにT-3000という進化形のやつも登場して、危機につぐ危機というストーリー展開です。
それに立ちむかうのは、こちら生身の人間とT-800という旧式のターミネーター(シュワちゃん)。

シュワルツネッガーが妙に若い顔から老人に近い年齢までの設定で出てきますが、これはシュワちゃんの若いころの顔をCGで役者に貼りつけて表現したもので、なんでもありだな、CG。
いっそ全部CGでいいじゃん、といいたくなるのが最近の傾向ではあります。

サラ・コナー役のエミリア・クラークという女優がちょっとぐっとくる感じで、小柄ながらボリューミーなボディが男性観客の消化を助けることでしょう(生唾いっぱい)。

なんとこの映画、3部作の1作めということで、あと2作、続編があるわけですね。
「スターウォーズ」にせよ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にせよ、巨額の収益システムとしてまだまだハリウッド映画は機能しているということでしょうか。
制作費は170億円くらいだそうです。

カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(6.8)
6月8日(水)夜7時半から、恒例の三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーション・ワークショップを開催。朗読と音楽のミニライブ付き。参加費1,000円+ワンオーダー。

2016年5月29日日曜日

子どもや恋人に甘えられるとムカつくことがある

自分の子どもが道で転んで、泣きだしたとき、親は怪我がないか心配になります。
傷がないか、痛みはどうなのか、最初は心配して子どもをいたわりますが、たいしたことないと判断するとあとはあまりかまいたくなくなります。
それなのに、子どもは相変わらず「いたいよーいたいよー」と訴えつづけることがあります。
明らかに甘えている、という判断をして、その甘えがとてもわずらわしく感じて、冷たく突きはなすこともあります。

怪我もしてないし、もうたいして痛くもないのに、痛みをうったえつづける子どもは、なにを必要としているんでしょうか。
それを「甘え」という言葉でジャッジするのは、社会的な制裁に近いと私はかんがえています。

「甘え」「ねたみ」「逆恨み」といった、ある種の社会的ジャッジを含む言葉がたくさんあって、それを親やパートナーが使うとき、そこには制裁の色あいが含まれることがあって、注意が必要です。
自分の判断ではなく、社会的価値基準という、いわば「外部の正義」の力を借りて、相手に制裁を加えているのです。

自分がそのような社会的制裁言語を用いようとしていることに気づいたとき、それを共感的な言語に翻訳できないか、試みてみる必要があります。
子どもが「甘え」ているように見えるとき、そこにはどのようなニーズがあるのでしょうか。

子どもは親に自分の痛みをきちんと理解してもらいたいのでしょうか。
もっと向かいあっていたわってほしいのでしょうか。
つながりの質を確認したいのでしょうか。

子どもはいつも、親とのつながりを必要としていて、それがうしなわれると恐怖をおぼえます。
つながりがうしなわれないようにいつも懸命につながろうとしているのです。
それがひょっとして過剰な「甘え」という行動をとらせてしまっているのかもしれません。

親ができるのは、過剰に甘えなくても(依存しなくても)、いつもつながっているよ、いつでもきみを見守っているよ、という安心を子どもに保証してあげられることかもしれません。

親の側にもニーズがあります。
こちらもまた、子どもとのつながり、守り育てること、強いニーズがあります。
だから、子どもが甘えてきたとき、そのニーズを聞き、こちらも自分のニーズにしたがっていつでもつながりの質を保ちたいのです。
それなのに、わずらわしく感じて、子どもを遠ざけるような態度をとってしまうのはなぜでしょうか。

そのときひょっとして、自由や、自分が選択肢を持つことのニーズがこちらにあるのかもしれません。
もちろん子どもを守りたい、つながりたいというニーズもあるけれど、そのなかで子どもが自立して成長し、過剰に他人に依存しない人間になってほしい、そのことが親の安心だという気持ちがあります。
子どもの安全が確保されていることが確認したとき、親は子どもの自立を願い、こちらの自由と選択を子どもにも尊重してもらいたい、という気持ちがはたらいているのかもしれないですね。

恋人同士や夫婦関係でも、このようなニーズのあらわれは起こります。
おたがいにそのニーズを見て、受け入れたり聞き合うことができるかどうか、お互いのニーズを尊重しあうことができるかどうか、そのことによってつながりの質はずいぶんと変わるでしょう。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(6.14)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を6月14日(火)夜におこないます。

2016年5月28日土曜日

短時間での共感勉強へのチャレンジ

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースとする共感的コミュニケーションは、じっくりと学ぶことが推奨されることが多いし、私もそう思います。
時間をかけて基本的プロセスを学び、練習し、またじっくりと時間と余裕をもって自分自身につながる(自己共感)ことが必要です。
そうはいっても、そのような時間的・精神的余裕がない人にかぎって共感的コミュニケーションを必要としている場面があることもまた事実です。

私は共感カフェという名のもとに、都内のカフェやお店などのスペース、古民家〈羽根木の家〉などで共感的コミュニケーションの学びの場を多く持っていますし、オンラインでも個人セッションや共感カフェを提供しています。

そんななかで、時間的・精神的余裕のない人を対象にした、よりコンパクトでインパクトのある短時間のセッションができないか、というふうにかんがえるようになってきました。

そこで、今年からはじめたオンライン共感カフェは60分という時間的制約をもうけてみました。
オンラインなので自宅にいながらにして、しかも60分という比較的負担のすくない時間的拘束で、コンパクトに学ぶことができる。
一定の手応えを得ています。

これをオフライン/リアルカフェでも試してみたいのです。
コンパクトな学びの場、これを提供してみたいとかんがえています。
もちろん各地にさまざまな人がじっくりと学べる場を用意していますし、羽根木の家でもそのような勉強会や講座が頻繁におこなわれています。
じっくと学びたい人、時間的余裕がある人は、そういうところに参加していただきたいと思います。

昨日、下北沢の〈かまいキッチン〉にお邪魔して、あたらしく共感的コミュニケーションの勉強会をスタートできないか、クミさんと打ち合わせしてきました。
たくさんニーズを聞かせていただき、いろいろな方法を検討し、まずは試しにやってみることにしました。

よいアイディアが出て、それは60分という枠をふたコマつないでみる、というものです。
前半の60分は共感的コミュニケーションをまったく知らない人、まだ一度も触れたことのない人、あるいは学びなおしたい人などに参加してもらいます。
後半の60分は、前半の人がそのまま残ってつづいて参加してもいいし、ある程度知っていたり経験のある人を対象にやります。
どちらか60分だけ参加してもいいし、時間に余裕のある人は通して120分参加してもらってもかまいません。

これでまずは6月のはじめのほうに一度やってみようということが決まりました。
ほかにも楽しいお誘いをいただきました。
7月10日(日)にかまいキッチンの前の通りで「やなかまストリートマーケット」というイベントが開催されるんですが、そこで「共感おはなしカフェ」をやってみよう、というものです。
コーヒーでも飲みながら気軽に通りがかりの人のお話を聞き、共感しようというオープンなカフェです。

このようなオープン共感カフェは一度やってみたかったので、大変ありがたく、楽しみで、いまからわくわくしています。
ひょっとしてこちらのオープン共感おはなしカフェは、60分どころではなく、10分とか15分の世界かもしれませんね。
そんなもの聞いたこともなかった、というような人たちに、共感的コミュニケーション/NVCの世界の一端でも知ってもらえればと思っています。

6月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(6.6/14/27)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、6月の開催は6(月)16時と20時、14(火)20時、27(月)20時です。

2016年5月27日金曜日

暖かな時間がながれたオンライン共感カフェ

私にもよく起きることですが、
「自分のいまのニーズはこれだ」
と思っていても、じつは違っていたということがあります。
そんなとき、自分が本当にニーズにつながっているかどうかをチェックする方法はいくつかあります。

先日のオンライン共感カフェで、貢献のニーズから自分が協力していると思っていたのに、仕事がどんどん多くなり、また複雑になって、つらくなっている、という人がいました。
自分のニーズは「貢献」なのに、それが満たされない、というところで、その人は自分を苦しめてしまっているようでした。

そのときにチェックしてみたいのは、
「自分が満たそうとしているニーズはなにか」
ということと、もうひとつ、
「いま満たされていないニーズはなにか」
ということ。
このふたつは、ひょっとしておなじものかもしれませんが、違う方向からチェックしてみることで、なにか気づくことがよくあります。

先日も「つらい」と感じているのは、時間的にも能力的にもいっぱいいっぱいで余裕がなく、またそのことを仲間やボスに理解してしてもらえていない、ということが出てきました。
つまり、余裕や能力、理解、協力といったニーズがあって、それが満たされていないということに気づいたのです(もちろん気づくためには自分に共感するか、だれかに共感してもらうというプロセスが必要なわけですが)。
そしてそのニーズが満たされたときにさらに満たしたい自分のニーズは、「貢献」というのもあるかもしれないけれど、よる深いところに「守りたい」「場の持続」というニーズがあることに気づいていったのです。

自分の本当にニーズに深くつながったとき、身体が暖かくなったり、自然に涙が出てきたり、といった身体的反応があらわれてきます。
自己共感がうまくいっていないときには、それがはっきりと現れてきません。

先日の共感カフェでは、ひとりはいつも冷たい雨のなかにいたみたいな感じが、初めて暖かい安心できる感じになった、といってくれました。
別の方も涙があふれてきて止まらなくなりました。
私にとっても、共感カフェをやっていて心からよかったと思える瞬間で、みなさんのニーズにつながるお手伝いができたことと、あたたかなつながりの場をに参加できたことを、大変うれしく思うのです。

6月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(6.6/14/27)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、6月の開催は6(月)16時と20時、14(火)20時、27(月)20時です。

人生後悔ばかりと思ったらそれは宝物です

自分がしでかしたことを後悔したことがない、という人はいないでしょう。
だれもが多かれすくなかれ、
「しまった、あんなことをしなければよかった」
とか、
「失敗してしまった」
という経験を持っているものです。

そういう私などはだれにも負けない後悔の宝庫で、なにをしてもなにかを思いだしては、ひええーと首をすくめている毎日です。
自慢にはなりませんが。

いつまでも忘れられない後悔の念に向かう道はみっつあります。
ひとつは、うじうじと思いだしつづけ、そのたびに後悔の念にかられて自分を責めたり、怒ったり、悲しんだりしつづけること。
ふたつめは、無視するかなかったことにすること。
思いだしかけるたびになにかほかのことをしたり、かんがえたりして、気をそらせます。
みっつめは後悔している過去のできごとを自分の「宝物」に育てること。

後悔の念というのは、自分が満たせなかったニーズをしめしてくれます。
そこには悲しみや怒り、悔しさといったさまざまな感情が見えます。
その感情を押し殺さずに、まずはしっかり受けとってみましょう。
後悔の念にかられるできごとを思いだしてしまったとき、自分の身体にあらわれる感情をとらえ、味わってみます。

その感情をとらえ、味わっておかないと、自分のニーズにつながりにくいのです。
感情を味わったら、その奥にある自分のニーズ――自分はいったいどんなことを大切にしていたり必要だったりして、こんなに後悔の念にかられているのだろうか、ということに目を向けてみます。

ニーズが見つかり、それにつながったら、それもまたじっくりと味わってみます。
「自分には本当にこれが必要なんだな」
「自分はこのことを本当に大切にしているんだな」

ひょっとしてまたおなじような事態に遭遇することがあるかもしれません。
おなじような事態でなくても、似たようなことがまた起こるかもしれません。
そのとき、明らかになったニーズを満たすためにどんなことができるでしょうか。
あるいはいまこの瞬間、そのニーズを満たすためになにかできることはあるでしょうか。

過去の後悔を、いまと未来の希望や成長に転換すること。
あなたにはそれができるのです。
過去の後悔をそのように見ることで、それはあなたにとっての「宝物」になることでしょう。

カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(6.8)
6月8日(水)夜7時半から、恒例の三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーション・ワークショップを開催。朗読と音楽のミニライブ付き。参加費1,000円+ワンオーダー。

2016年5月26日木曜日

松原あけみ朗読:水城ゆう「ラジオを聴きながら」「舞踏病の女」

2016年5月24日。
三軒茶屋のライブカフェバー〈四軒茶屋〉にてひさしぶりに開催された「げろきょオープンマイク」から、松原あけみの朗読パフォーマンスをお送りします。

 朗読 松原あけみ「ラジオを聴きながら/舞踏病の女」(水城ゆう作)
 演奏 水城ゆう

映像はこちら(画像をクリックしてください)。

野々宮卯妙朗読:柳宗悦『民藝四十年』より「琉球の和歌」

2016年5月24日。
三軒茶屋のライブカフェバー〈四軒茶屋〉にてひさしぶりに開催された「げろきょオープンマイク」から、野々宮卯妙の朗読パフォーマンスをお送りします。

 朗読 野々宮卯妙「琉球の和歌」(柳宗悦『民藝四十年』より)
 演奏 水城ゆう

映像はこちら(画像をクリックしてください)。

2016年5月25日水曜日

映画:スプライス

2009年制作のカナダとフランスの合作映画。
監督はヴィンチェンゾ・ナタリ。

ヒトと動物の遺伝子を人工的に組み合わせて、ハイブリッド生物を作る実験に成功した主人公の男女カップル。
サラ・ポーリーが演じるのは奔放で挑戦的な女性科学者で、会社に巨額の収益をもたらす実験を成功させますが、相手役のエイドリアン・ブロディが演じるパートナー科学者はそれに危惧をおぼえます。
会社は当面の収益を確保するために、実験をそれ以上進めることを中止する決定をしますが、サラ・ポーリーは密かにさらなる実験を進めていきます。

その結果、人間の女性にそっくりで、驚異的なスピードで成長する生き物が誕生します。
ふたりはそれを密かに育てます。

遺伝子操作、いわば神の領域に踏みこんでいく科学にたいする倫理的な問題、子どもと親の問題、近親相姦を含む男女の問題、さまざまな問題がモザイク状に提示されているけれど、作られた生物をはじめとする映像自体はかなり気色悪いです。
スプラッタな場面も多々あります。
そういうのが苦手な人は見ないほうがいいでしょう。

ヴィンチェンゾ・ナタリという監督は「キューブ」という映画で一躍有名になった人ですね。

「スプライス」ははっきりいって、後味が悪いです。
「エイリアン」などもかなりスプラッタで、悲劇的なストーリーですが、この映画のような後味の悪さは感じませんでした。
どこが違うんだろう。
そんなことをかんがえさせられる、そういう意味では興味深い映画とはいえますね。

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みつばち、里山の水田、にぎやかな羽根木の家

先週の月曜日から木曜日までの実家への帰省中に、先月設置した日本みつばちの分封群の待ち受け箱を点検に行きました。
山の扇状地にある畑の横の、大きな作業小屋のわきに置いてあったんですが、蜂が来た気配はまったくありません。
そこで、場所をすこし移動することにしました。

日本みつばちは東か南向きの、前が開けた場所を好みます。
夏の直射日光があたらないことも必要です。
前は畑で開けているんですが、西向きだったので、南向きの位置に移動しました。
小屋の壁一面にキウイの蔓が生い茂っているので、ちょうどいい木陰になっています。
北陸の分封はかなり遅めのようなので、いまからはいってくれるといいんですが。

この季節は水田の風景が格別に美しく見えます。
とくに夜明け前、水がはられた水田、田植えが終わったばかりの稲の苗もまだ小さく、空と雲が映った水面をかこむ里山の風景は、本当に美しいものです。

東京にもどってきたら、羽根木の家はにぎやかでした。
イギリスのオクスフォードから来日して羽根木に滞在中のNVCトレーナー夫妻ブリジット&ルードは、つぎは名古屋でのワークショップに行くということで、いっしょにランチ。
こちらはドイツのフライブルクから一時帰国中の音読トレーナーであるなおみさんが来ていたので、ランチに誘っていっしょに行きました。

昨日はもともとトランジション世田谷 茶沢会の仲間で、私をトランジションにつないでくれるきっかけとなったhiloさんが、現在住んでいる島根県の雲南市から上京していて、ひさしぶりに羽根木の家に遊びに来てくれました。
先日から庭木の片付けを手伝ってくれている共感カフェの仲間のすみれさんが、さらなる枝の伐採のために友人の佐藤さんを連れて来てくれたので、みんなでいっしょにランチ。

すみれさんが作った野菜餃子と、私はスープとパスタを作って、hiloさんと佐藤さんが持ってきてくれたデザート付きの、とってもおいしくて幸せなランチでした。
雲南で作っている塩漬けの桜花で桜茶をいただいたんですが、これが美しいのです。
ご飯といっしょに炊いてもいいみたい。

午後はすみれさんと佐藤さんが大量の枝切りをしてくれて、庭がますます明るくなり、本当に助かりました。
ありがとう。

共感カフェ@羽根木の家(5.27)
5月の羽根木の家(世田谷の古民家)での共感的コミュニケーションの勉強会・共感カフェは、5月27日(金)19~21時です。

2016年5月24日火曜日

私が生きている意味

今週というか前の週の月曜日から、北陸の実家に帰省していました。
羽田から小松への飛行機はなぜか満席で、私のとなりにはもうすぐ2歳になるという小さな女の子を連れたお母さんが乗りました。
私は子どもが大好きなのでまったく気にならないんですが、女の子は動きたい盛りで、もちろんせまい飛行機の席にじっとしているのは大変で、お母さんに抱っこされたまま足を伸ばして前のシートの背を蹴ったり、もらったおもちゃを床に落としたり、歩きまわりたくてぐずったり、大変です。

お母さんはなんとか、持ってきた絵本を読み聞かせたりして、子どもをおとなしくさせようとするんですが、なかなかうまくいきません。
こっちはかまわないのに、お母さんは自分の子どもがまわりに迷惑をかけないかと気をもんでいるようすが、ひしひしと伝わってきました。

ばたばたする女の子の足が私を蹴ってしまったりするたびに、お母さんは恐縮したようすで私にわびをいれるのですが、私は全然気にならないので、正直に、
「大丈夫ですよ。なにかお手伝いできることがあればなんでもいってくださいね」
と伝えました。

羽田=小松のフライトは短くて、離陸して30分もたたないうちにもう着陸態勢にはいります。
北アルプスが見えてきて、高度がさがっていきます。
窓際の席にすわっていた私は、女の子に外の景色を見せたくて、
「お山が見えるよ。雪がまだあるよ」
と話しかけたら、女の子は興味をおぼえたらしくて、窓の外をのぞきこみました。
そこで、
「こっちに来る?」
とさそって、膝の上に乗せてあげたら、すぐに落ち着いて外を見はじめました。

女の子はしのちゃんという名前で、私がかつて書いた長編小説『赤日の曠野』(いまてんトコラがネットライブで連続朗読をしてくれている)のヒロインの名前「志乃」とかさなって、うれしくなりました。
もちろんそんなことは話さなかったですが。

お母さんは恐縮していましたが、私はしのちゃんが安心して私の膝の上に来て抱かれてくれたのがうれしくてしかたがありません。
窓の外はどんどん地上に近づいてきて、家や道路が見えてきて、おもちゃのような車が走っているのが見えてきます。
それをいっしょに見たり、話したりしながら、飛行場が近づいてくるあいだに、しのちゃんは私の膝の上でそのまま眠りそうになってしまいました。

幸せな時間はあっという間にすぎ、着陸したあと私はしのちゃんをお母さんに返しました。
お母さんは私にお礼をいいましたが、お礼をいうのはこちらのほうでした。

私はあとどのくらいかわかりませんが、十年、二十年、そのくらいの年月でこの世をおさらばしますが、そのときにしのちゃんが幸せに生きられる世の中になっていることにすこしでも、自分の力がおよぶかぎり貢献したいという気持ちがあります。
そのことが私の挑戦であり、ゲームでもあるのです。
私がいまここにこうして生きている意味を、私はそこに見出しています。

水城ゆうのボイスコーチング
Skypeを利用したリアルタイムでのオンラインボイスコーチングをおこなっています。どなたもまずは気楽に無料相談で。

2016年5月23日月曜日

メンタルが強いとはどういうことか

親はだれもが、自分の子どもがこのシビアな現代社会のなかで強く生きぬける自立した人間になってほしい、と望んでいます。
競争においては、心が折れない、くじけない、強いメンタルを持つものが優位です。
本番に強い、という人間もたしかにいます。

スポーツなどでは競争の上位になればなるほど、強いメンタルが必要であり、いざ本番で心がくじけてしまう人間は勝ち残ることができません。
勉強でも、芸術でも、人に優劣をつけたり、勝ち負けを競ったりする場面では、かならずメンタルの強弱が勝敗を大きく左右します。
なので、親は子どもに、メンタルの強い人間に育ってほしいと願うわけです。

さて、「メンタルを強くする」ための方法には、2種類あると私は思っています。
ひとつは、外部からやってくるさまざまな批判、否定、攻撃などをシャットアウトしたり、動じなくする方法。
自分の外に壁を作り、自分のパフォーマンスに影響を与えるノイズをすべて遮断します。
ノイズを無視する、あるいはノイズに気づかないようにみずからを鈍感にする。
外側にたいして鈍感になることで自分を守る、という手段によって、自分を守り、パフォーマンスを安定させる方法です。

もうひとつの方法は、自分を批判したり攻撃してくる相手に積極的につながり、共感することで、結果的に自分を守る方法。
自分がおこなったことで生じる批判や攻撃は、相手の価値観・ニーズにそわないものであることがあり、そのときこちらにたいする批判や攻撃が生まれます。
その相手のニーズによりそうことで、批判や攻撃をしてくる対象に共感し、対話のチャンスを作ります。
このように、対話するためのつながりを作るということは、同時に自分に起こっていることと相手に起こっていることが別の価値観によるものであるということをはっきりさせます。

相手のことは相手のことであり、自分のことは自分のことである、という客観的認識が、こちらのメンタルを強くする保証となります。

どちらの方法をとってもいいと思います。
それぞれの価値観や立場やタイミングによって選択肢は変化するでしょう。

私自身は表現者でありたい人間なので、自分の感受性をシャットアウトしたり、鈍磨させたりすることはけっしてしたくありません。
したがって、選択肢としては、後者の方法でしかありえません。

共感カフェ@羽根木の家(5.27)
5月の羽根木の家(世田谷の古民家)での共感的コミュニケーションの勉強会・共感カフェは、5月27日(金)19〜21時です。

「遊び」という深遠なるニーズ

私は子どもが大好きで、赤ちゃんをはじめ、ずっと大きい子どもたちといっしょにいると幸せな気持ちになります。
先日も飛行機のなかで、隣席にいた女の子(もうすぐ2歳だという)に窓の外を見せてあげようと私の膝の上に抱っこしていたら、安心しきって眠りそうになっているのを見たとき、本当に幸せな気分でした。
初めて会った子で、お母さんはとても遠慮したり恐縮していましたが。

長年の付き合いがある知り合いの場合、その子どもが小さなときからだんだん成長して大きくなっていき、思春期をすぎ、大人になるまでをずっと見ていることもあります。
小さいころは遠慮なくだっこしたりおんぶしたり、いっしょに遊んだりしていたのが、だんだん遠慮がちになり、思春期になるときゅうに疎遠になったり、こちらを遠ざけるようなそぶりが見えたりすると、悲しくなります。
それが女の子だったりすると、こちらにも遠慮が生まれます。
かつてはだっこしたり、手をつないだり、いっしょに遊んだりしたのに、それが素直にできなくなってなんとなく気持ちがわだかまります。

しかし、大人になった彼女と、私はいまだにただ遊びたいだけなんだ、ということに、先日あるワークを通して気づきました。
ただ子どものときのようにいっしょに遊びたいだけなのに、彼女はもう大人なんだ、女性なんだ、彼氏だっているんだ、世間体がある、などと社会的思考がはいりこみ、私の行動を居すくませていることに気づいたのです。

そのことに気づいたことがきっかけで、ほかのいろいろなことにも気づきました。
私がだれかとつながりを持ちたい、と思ったとき、それはただその相手と遊びたいだけであることが多い、ということ。

遊びというのは純粋な自分への貢献です。
まただれかと遊ぶというのは、祝祭をともにするということでもあるでしょう。
そこには見返りの期待もありませんし、自分への妥協もありません。

思えば私がピアノを弾きはじめたとき、小説を書きはじめたとき、いずれも純粋な遊びとしてだったのです。
ピアノを弾いて人を驚かせてやろうとか、自慢してやろうとか、小説でお金を稼ごうとか、尊敬を得ようとか、そんなことはみじんもかんがえずにはじめたことです。
それはたしかなことです。
それがいつしか、そうでなくなり、純粋さにまざりけが生じ、楽しくなくなっていった――つまり遊びでなくなってしまったそのとき、私は私自身とのつながりをうしなってしまったのです。

自分自身ではなく、社会とか、制度とか、経済システムとか、なにかそういうものとつながろうとしてしまったのです。
それは全然楽しいことではありませんでした。
私はそのとき、自分の人生をうしなってしまったのです。

平安時代末期に後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄』の有名な一節です。

 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

これは遊んでいる子どもの姿を見て心を打たれたことを歌ったとされていますが、私にはそうではなくも、大人になった自分自身も本来は遊びをせんがために生まれてきたのだったことに気づいて気持ちが動くことを歌ったのではないか、と思っています。

私がピアノを弾くのは、小説を書くのは、遊びで釣りに行くようなものです。
それは利益のためではありません。
純粋に自分の楽しみのためです。
釣れるかどうかはわかりません。
しかし、自分なりに工夫をこらし、想像力を働かせ、よい型の獲物をねらいます。
だれかに評価されたいからではなく、ただただ自分の満足のために釣り糸を垂らすのです。

私がピアノをひと前で弾くとき、小説を書いて発表するとき、それはいわば釣りにだれかを誘っているようなものです。
いっしょに釣らない?
なにが釣れるかわかんないけど、そもそも釣れるかどうかわかんないけど、楽しいよ、釣りを試みるということそのものがね。
釣れたらいっしょにお祝いしよう。
釣れなくてもいっしょにこうやって糸をたらしているだけでもわくわくしない?

もちろん、自分ひとりで釣っていても楽しいのです。
遊びなので、そこには妥協も打算もありません。
ただ全身全霊を打ちこんで楽しんでいるだけなのです。
結果として、だれかの役にたったり、喜んでくれたり、つながりが生まれるかもしれません。
もちろんそうなれば、それはそれでお祝いです。
しかし、釣りの過程そのものが私にとっては祝祭なのです。

自分の人生を祝祭として生きる。
こんなシンプルなことにたどりつくのに、なんて長いまわり道をしてしまったんだろう。
いや、いま気づいていることをお祝いしましょう。

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演@明大前キッドギャラリー(6.18)
ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。14時からと18時からの2回公演。

2016年5月22日日曜日

ののみずライブ「蟷螂の孵化する」@下北沢レディ・ジェーン(6.26)

下北沢のライブバー〈レディ・ジェーン〉で現代朗読の野々宮卯妙と即興ピアノ小説家の水城ゆうがひさしぶりにライブをします。

オーナーの大木さんがかんがえてくれたコピーはこれ。
「人はやっと衣替えを憶えた頃、葉に付いた夥しい数の卵は忽ち幼虫になったと思ったら、もう斧をかざしてカマキリだ」
朗読テキストは水城の書きおろし新作を予定しています。

◎日時 2016年6月26日(日)19:00開場/19:30開演
◎場所 下北沢〈レディ・ジェーン〉
  東京都世田谷区代沢5-31-14
  03-3412-3947
◎ミュージックチャージ ¥3,200(予約¥2,700)+ Drink Fee

ご予約は電話またはmailでお願いいたします。
電話予約 LADY JANE 03-3412-3947 / BIGTORY 03-3419-6261
mail予約はbigtory★mba.ocn.ne.jp(★を@に変えてください)

フェイスブックイベントページもしくは出演者(水城・野々宮)に直接お伝えいただいてもかまいません。

ZOOM H4n をオーディオ・インターフェースとして使う

ネットミーティングをかなり頻繁に活用するようになってきました。
Skype、Hangout、LINE、フェイスブックのメッセンジャーなど、オンラインで複数の相手と同時につながれるシステムが充実してきています。
しかもほとんどの人がスマホやタブレット端末を持っているので、パソコンの前に座っていなくてもつながることができます。

私は Zoom.us というシステムが使いやすく、オンライン共感カフェやボイスコーチング、あるいはちょっとした打ち合わせなどに利用しています。
手軽に持ちはこべる MacBook でオンライン接続することが多いんですが、ひとつだけ問題があります。
複数人数のミーティングでも、こちらがひとりのときは問題はないんですが、こちらに複数の参加者がいる場合です。

MacBook の内蔵カメラは画角が狭く、ひとりふたりならいいんですが、3人、4人となるとひとつの画面内におさまることができません。
なので、強制的に画角を広くするフィッシュアイのようなクリップアダプターを MacBook のカメラアイに取りつけることで、広角になるようにしました。
これでこちらに4、5人いても映るようになったんですが、その場合、どうしても MacBook から全員がすこし距離を取ることになるので、音声を拾いにくいという問題が出てきました。
マイク入力をいじって最大ボリュームにするんですが、それでも聞こえにくいといわれてしまいます。

そこで、ZOOM H4n の出番となりました。
H4nはハンディレコーダーなので、高性能マイクが内蔵されているんですが、さらにUSB接続のオーディオインターフェースとしても使えます。
つまり、

 H4nの内蔵マイク ⇒ オーディオインターフェース ⇒ MacBook

として、H4nを外部入力マイクとして使えるわけです。
これだと声を拾いやすいし、ボリュームの調整も簡単です。

使い方は簡単。
ドライバーも不要です。
H4nをUSBケーブルでMacBookにつないで、スイッチを入れる。
メニューから「USB」「AUDIO I/F」と進んで、あとは「CONNECT」するだけ。
MacBook側で入力をH4nにすればオーケー。
快適です。

自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、5月の開催は5月23(月)20時、30(月)20時です。

2016年5月20日金曜日

映画:アポカリプト

2006年公開のアメリカ映画。
監督はメル・ギブソン。

メル・ギブソンといえば、いまや押しも押されもしないトップハリウッドスターだけれど、私生活やその思想信条にはいろいろ問題が指摘されています。

彼を最初に見たのは、もちろん「マッドマックス」でした。
低予算のオーストラリア映画「マッドマックス」がヒットし、その後メル・ギブソンはハリウッドに活動拠点を移します。
そのあとの「マッドマックス2」も私は割と好きでした。
ばかばかしいと思いながらも第3弾の「マッドマックス サンダードーム」も観ています。

そのマッドマックスシリーズは、昨年の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」でビッグヒットを叩きだしていますが、これにはメル・ギブソンは出ていません。
ギブソンはマッドマックスシリーズのあと、「リーサル・ウェポン」という刑事ものに出て、これもヒット。
このシリーズは4まで公開されています。

そして彼は監督業に乗りだします。
最初の作品がイエス・キリストを描いた「パッション」、そしてこの「アポカリプト」。
映画にもその個人的なイデオロギーが反映されていますが、厳格なカトリック信者で、純潔主義者――レイシストともいいますが(笑)、避妊や妊娠中絶も否定している男です。
そのわりには離婚、再婚、ドメスティックバイオレンスで裁判沙汰になったり、飲酒・速度超過運転で逮捕されたりと、私生活はあまり厳格とはいえないようですね。
人間らしいといえば人間らしい。

「アポカリプト」はマヤ文明の末期を描いたとされていますが、森の生活、暴力、奴隷、逃走、戦い、生存競争といった、非常に暴力的な内容で、そういうものが苦手な人は見ないほうがいいでしょう(きっぱり)。
私はてっきり、SF映画だと思って見はじめたんですが、勘違いでした。
よく最後まで見たな、と自分にあきれて――いえ、感心しています。

「パッション」はユダヤ人団体から、「アポカリプト」はマヤ文明の研究者たちから、いずれも激しい非難を受けたということです。
さもありなん。

げろきょネットライブ(5.26)
現代朗読協会がお送りする「げろきょネットライブ」を5月26日(木)夜に開催します。
自宅や外出先からネット経由で観るもよし(無料)、ライブ会場の「羽根木の家」まで直接ご観覧にいらっしゃるのも(参加費500円)歓迎です。

2016年5月18日水曜日

マルチタスク、マルチデスクトップで仕事する

世の中のライフハック術や自己啓発の本には、ほとんどすべて、なにかタスク(仕事)に集中するときにはほかの雑音がまぎれこまないような環境を作るやりかたについてアドバイスされていたり、そのことが推奨されています。
つまり、目前の仕事ひとつに集中することで、効率があがり、その人の能力が最大限に発揮される、ということです。

たとえば、パソコンに向かっているときは、できるだけいろいろなウインドウをあけておくのをやめ、ひとつのアプリだけに集中できるようにします。
ノートパソコンなら、1画面がひとつのアプリに占有されるように全画面表示にして、ほかの情報ははいってこないようにします。
メールやSNSから割りこんでくるような情報はシャットアウトし、目の前の仕事に集中できる環境を作ります。

たしかにそれは、自分が持っている限られた時間を有効に使うのに役立つような感じがして、私も一時期、タスクを並行処理する癖をやめようと努力してみたことがあります。
パソコンもひとつのアプリを全画面表示にして、その仕事だけに集中してみようと試みてみたのです。

しかし、人にはさまざまなタイプがあります。
私はどうも、シングルタスクに集中して仕事の効率があがるタイプではないようで、マルチタスクでいくつかの仕事をあっちいったりこっちいったりしてこなすほうが、より成果があがるようなのです。

現在はパソコン――MacBook Pro 13インチには、同時にいくつかのアプリケーションが立ち上げてあります。
まずこの原稿を書いている Scrivener というアプリ。
その後ろには Evernote が控えています。
ここにはさまざまな必要なデータが記述されていたり、ちょっとした覚書をパッと書きつけたりするのに使っています。

Macにはいくつもの画面を用途に応じて設定できる機能があって、私のようなマルチタスク人間にとってはとても重宝する機能です。
私は通常、3画面を使っていて、場合によっては4画面使うこともあります。

1画面めは執筆用。
上記のように Scrivener という執筆用アプリと Evernote。

2画面めはネット関連。
SafariとMailとTweetbot。
Safariは複数タブを使って、Gmail、Googleフォト、Blogger、Facebookを開いています。
Tweetbotはツイッターアプリです。

3画面めはタスク関連。
カレンダーと、TODOアプリの Omni Focus を開いてあります。

4画面めはワークスペースとして確保してあって、音楽やオーディオブック編集のときは Logic Pro X を、映像編集のときは Final Cut Pro または Premiere Pro を、ほかにもネットミーティングや電子書籍の編集などにも使います。

このような設定のマルチデスクトップを行ったりきたりしながら、いくつものアプリを切り替えて、いくつもの作業を並行しておこなうというのが、私の好みのスタイルです。
ひとつの作業はたぶん、長くとどまっても10分とか15分くらいのみじかいものです。
でも、10分集中できれば、たとえば文字数でいえば500字くらいは余裕で書けます。
そして時々は立ちあがって歩きまわったり、コーヒーをいれたり、料理をしたり、意拳の稽古をしたり、養生功で身体を見たり、ピアノを弾いたり、いろいろします。
まるで多動性症候群みたいですね。
でも、これがいいんです、いまのところ。

「朗読生活のススメ」コース全10回、2016年7月スタート (7.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座が、7月からあらたにスタートします。単発の体験参加も歓迎です。

2016年5月17日火曜日

映画:スティーブ・ジョブス

2015年公開のアメリカ映画。
それにしても、日本版のポスターのキャッチコピーはずいぶんだと思いませんか。
こういうの。
「最低な男が、最高の未来を創った」

最低な男って……
ジョブス役をマイケル・ファスベンダーという男優が演じてます。
知らない名前だなあと思って調べてみたら、けっこういろんな映画に出ているみたいですね。
「プロメテウス」「ジェーン・エア」、そして「シェイム」では主演して数々の賞をなめているようです。
知らなかったな。

かなり工夫してジョブスを演じているけど、前かがみにひょこひょこ歩く姿はちょっとデフォルメしすぎてるんじゃない? と思います。

もぐりの学生をしていた時代から、初のパーソナルコンピューターである「アップル」をガレージで作りはじめる時代、会社が急成長し、役員たちの裏切りで追いだされてしまう失意の時代、そしてふたたび返り咲き、大成功をおさめる時代を、まんべんなく網羅していて、伝記映画としてはよくできているように感じます。
伝説的人物なだけに、エピソードの大部分は聞いたことがあるものですが、映像化されるとまたちがった感じになります。

ジョブス好き、伝記映画好き、サクセスストーリー好き、そしてアップル好きの人にはとても楽しめる映画でしょう。
とはいえ、そのジョブスはもうこの世にいない人なんですけどね。
私はどちらかというと、追悼の思いで観ていました。
これを書いている MacBook もまた、ジョブスがいなければこの世に存在しなかったものでしょう。

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演@明大前キッドギャラリー(6.18)
ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。14時からと18時からの2回公演。

2016年5月16日月曜日

ことばと頭と身体

一見、矛盾しているように思えますが、現代朗読ではパフォーマンスにおいて「たくらみ/思考を手放す」ことをトレーニングします。
「この部分はこう読もう」
「ここはこういう意味だから、こんなイメージで読もう」
「ここからシーンが変わるから、テンポとトーンを変える」
「練習どおりにやろう」
「アラが出ないようにうまく読もう」

これらはすべてたくらみ、もしくは思考であり、それらのことが「あたま」を占拠しているとき、身体パフォーマンスである朗読はいちじるしく「いまこの瞬間のいきいきさ」を損ないます。

現代朗読においてももちろん、あらかじめ読みこんだり、練習したりしますが、そのときに「こう読もう」などと決めたり、予定したり、たくらんだことを、いまこのライブの瞬間に持ちこもうとするのは、過去を現在に持ちこもうとすることであって、それは現在のいきいきさを損なうのです。
たくさん読みこみ、たくさん練習したとしても(もちろんそれらは必要なことですが)、ライブパフォーマンスのその瞬間にはそれらをすべて手放し、いまこの瞬間の自分自身の身体につながり、そのダイナミックな変化をとらえ、気づきつづけながら、いきいきと表現していきます。
「あたま」のたくらみから可能なかぎり自由になり、いきいきと「いま」を生きている身体全体で表現していきたいのです。

それは「いま」を生きている自分自身の生命現象の表現です。
ここに過去を持ちこみたくないのです。

しかし、「あたま」はそれを頑迷に拒否します。
なんとか過去の経験や記憶、イメージなどの思考に人を引きずりこもうとします。

朗読において、いまこの瞬間の自分自身で表現することがむずかしいのは、「ことば」を使った表現だということがあるからです。
たとえばダンスなら、思考をてばなし、身体の声だけを聞いて表現することは、ストレートな方法に思えます。
音楽もそのようなところがあります。
ところが、朗読はことば、文章、ストーリーという、人の思考が生みだした「記号」の集合体を、もう一度自分で読みとって、言語に変換し、発語するという過程を経ます。
どうしても「あたま」を通過する表現なのです。
それなのに、思考を手放すことが求められる。

これはいわば、ほとんど無意識・自動的に自転車を運転しながら、あれこれかんがえをめぐらしている状態の、まったく逆の状態です。
なにか必要な計算や思考をしながらも、自転車をこいでいる自分の身体に注目しているような状況です。
頭のごく一部の、文章を読んでそれを発語することに必要な部分のみを働かせて、それ以外の部分はすべて、自分の身体の現在に起こっていることに注目し気づきつづけることに使う、というような状態です。
これをトレーニングで養うのですが、そのむずかしさとおもしろさは実際にそのことを試み、集中して取りくんでみればわかるでしょう。

あたまと身体の関係において、朗読はとても複雑な表現行為としての構造を持っているといえますが、これを日常生活のなかで練習したり、生かすこともできます。
たとえば洗い物をするとき、その手順は決まっていて、思考のごく一部を食器を洗うという行為に割り当てておきながら、ほかの大部分は自分の身体を感受することに集中してみる、という練習です。
ほとんど自動的に洗い物をしている自分が、いまこの瞬間、どのような身体感覚があり、変化があるのか、という観察と注目を試みてみます。

洗い物にかぎらず、歩いているときでも、草むしりをしているときでも、食事をしているときでも、さまざまな機会をとらえて、頭――すなわち思考に奪われがちな自分の身体を取りもどす練習をすることができます。

四茶げろきょオープンマイク、ふたたび(5.24)
あらゆる“評価”から解放される表現の場である現代朗読協会の「朗読オープンマイク」が、ひさしぶりに帰ってきました。5月24日(火)夜、三軒茶屋のライブカフェ〈四軒茶屋〉にて開催。

2016年5月15日日曜日

映画:パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト

2013年公開のドイツ映画。
デイヴィッド・ギャレットという人が主演で、監督は別だけれど、製作総指揮と音楽も担当しています。
本物のバイオリニストで、モデル業もこなす人らしい。
ドイツ出身で、子どものころからコンクールで優勝したり、テレビに出たり、幼少のころから活躍していて、14歳のときにはドイツ・グラモフォンと専属契約を結んでいます。

17歳でニューヨークのジュリアード音楽院を受験して合格しますが、親から勘当されたために、学費を稼ぐためにモデル業をしていたとのことです。
まあ、大変な人ですね。
普通は学費が必要だからといって、モデルはできません。

映画は19世紀初頭に活躍した天才的バイオリニスト、パガニーニの人生を描いてますが、どの程度実話に忠実なのかはわかりません。
しかし、パガニーニ自身、相当破天荒な人物だったということは伝えられていて、映画も相当に波乱万丈のストーリーです。
いわゆる「破滅型の芸術家映画」ですね(私が勝手に名付けた分類ですが)。

ロンドンの指揮者が、客入りが悪くて破産しそうになっていて、イタリアで絶大な人気があってオペラハウスを連日満員にしているパガニーニをイギリスに招聘する、という話が主軸になっています。
指揮者の娘との恋などもストーリーの要素になっていますが、全体的になんとなく雑然とした印象があるんですよね。

見所はもちろん、音楽、バイオリン演奏、それから衣装、セット、当時の風俗。
ふんだんにお金と手間が注ぎこまれていて、好きな人には楽しめるでしょう。
女性のほうがきっと楽しんで観れるかもしれませんね(傾向として)。

それにしても、破滅型の芸術家のストーリーがこれほど量産されるというのは、世間にそういうニーズがあるということなのでしょうか。
それともほかになにか理由があるんでしょうか。
不思議だ。

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2016年5月14日土曜日

BEE's CAFEと草加Jugem共感カフェ

5月10日火曜日は、羽根木の家でみつばち部のBEE’s CAFEを開催。
都合がつく人が少なく、少人数での開催となりましたが、ランチタイムにお手製のご飯を持ちよってくれて、私もおかずを一品提供したりして、おいしくいただきました。

ランチ後には農文協のムックの付録の日本みつばちのDVDをみんなで鑑賞。
なかなか充実したDVDで、途中、全員がのけぞってしまうびっくりシーンもあったけれど、おもしろかったです。

そのあと、待ち受け用巣箱(重箱式)のキットの点検と説明をしたり、庭仕事(落とした枝の片付け)をしてもらったりしました。

草加Jugemの共感カフェに参加するため、私は午後5時すぎに羽根木を出て、草加に向かいました。
渋谷から急行南栗橋行きに乗ったら、座れたんですが、隣の女の子が疲れているらしく、完全にこちらにもたれかかって熟睡。
まあそれはいいんですが、ちょっと暑くてまいりました。

北千住でサラリーマンとOLさんたちがどっと乗りこんできました。
毎月草加に行ってるんですが、ちょうど帰宅の通勤ラッシュの時間(にはまだちょっと早いのかな?)なので、渋谷から乗るときはだいたい座れるんですが、途中からだんだん混んできて、北千住からは満員列車となって、みなさん大変だなあと思うのです。
草加では大勢の人が降ります。

共感カフェは初めて参加する人がひとりいらしたけれど、いつものようにこじんまりと、私をいれて4人での開催。
この4月から新社会人となった満里菜は、職場の研修の宿題があるとかで参加できず、傍でひたすらパソコンに向かって作業。

初めて参加した方の家庭の問題、常連メンバーになってきたみきさんの仕事への貢献のニーズのことなど、じっくり話を聞かせてもらうことができました。

最後にちょっと落ち着いたので、ひさしぶりにJugemに置いてあるデジタルピアノを弾かせてもらいました。
実雪さんと満里菜からご丁寧に誕生祝いをいただきました。ありがとう。
心使いがとってもうれしかった。

終わってからは、途中まで帰りがいっしょのみきさんと宮沢賢治の話などして、楽しかったです。
みきさんは職業的なつながりの人たちと共感的コミュニケーションの学びを深めたいニーズがあるようで、もしそんなチャンスがあれば私は喜んで駆けつけたいと思いました。

来月のJugem共感カフェは、6月10日(金)夜の開催予定です。

5月の羽根木の家(世田谷の古民家)での共感的コミュニケーションの勉強会・共感カフェは、5月27日(金)19~21時です。

2016年5月13日金曜日

「ブリジット&ルード」がやってきた

映画「テルマ&ルイーズ」を意識したみたいなタイトルになったのは、たぶん、数日前にリドリー・スコットの「オデッセイ」を観たせいです。
NVCジャパンは海外からNVCトレーナーをしばしば招聘して、国内でのワークショップをオーガナイズしていますが、来日したトレーナーたちは羽根木の家に滞在することが多いのです。
今回来日したブリジットとルードのトレーナーカップルもまた、羽根木の家に滞在しています。

ふたりは昨日・12日の午前中に羽根木の家に到着して、すでに滞在しています。
ふたりともこれが二度めの来日となります。

前回は2013年の5月でした。
私はブリジットから真正の共感というものを教えてもらいました。
ルードは尺八奏者であり、禅の修行者でもあって、音楽的交流をさせてもらった楽しさを忘れずにいました。
ふたりがふたたび来日したのは、本当にうれしいことです。お祝いです。

ブリジットはいつも微笑みをたやさない静かなたたずまいの女性で、NVCではダンスフロアという共感練習の方法を教えてくれます。
床に置いた色紙の上を移動しながら、自分の身体を使い、身体の声に耳をかたむけながら、思考ではなく身体的に気づき、自分自身につながる方法です。
初心者からベテランまでだれもが有効なすぐれた方法です。

前回の来日のとき、ブリジットとルードは自分たちのワークショップのほかに、私と野々宮の「槐多朗読」という小さな公演に来てくれて、そのときにブリジットが伝えてくれた共感的な受け取りのことばが私には忘れられないのです。

ルードはオランダ出身の大きな男性で、頼もしく、しかしやはりにこにこと笑顔をたやさない、ユーモアいっぱいの優しい人です。
今回も尺八らたずさえて来ているということで、楽しみでしかたがありません。

ふたりのワークショップは、明日と明後日の東京を皮切りに、名古屋、札幌、京都と、各地をまわります。
この絶好の機会を、NVC・共感的コミュニケーションを学ぶ方々はぜひのがさないようにお願いします。
ふたりの今回のツアーの情報は、こちらからどうぞ。

映画:オデッセイ

2015年のアメリカ映画。
長いです。たっぷり2時間以上あります。

「ゼロ・グラビティ」や「アポロ13」の系列にある映画といってもいいでしょう。
つまり、サバイバルもの宇宙SF映画。
次世代作家養成ゼミのメンバーの奥田くんが、原作、映画ともに絶賛していて、気になってはいたんですが、なにしろ奥田くん、いまはどうか知らないけれどけっこう純正の「おたく」族なので、その感性にちょっと不信を持っていたことはたしかです(奥田くんごめん)。
しかし、あまり期待せずに見はじめたら、これがはまりましたね。
私のSF映画のベスト10、いやベスト5にいれてもいいかも、と思うほどです。

うかつな話ですが、ノンストップで最後まで見終わって、エンドロールではじめて監督がリドリー・スコットだと知りました。
そりゃおもしろいわなー。

リドリー・スコットといえば、ほぼ私のベストフェバレット監督で、「エイリアン」「ブレードランナー」「ブラックレイン」「テルマ&ルイーズ」「ハンニバル」「ブラックホーク・ダウン」など、しびれる作品ばかりです。
まあなかには「プロメテウス」などのはずれもないことはないですが、まあたくさん作ってますから、そこはそれ。
2017年にはエイリアンの続編も公開されるとかで、楽しみでしかたがありません。

「オデッセイ」は火星にうっかりひとりで生き残ってしまったマット・デイモン演じる植物学者が、水も食料も、もちろん地球に帰る手段もない、というところからどうやって生きのび、そして地球への帰還をはたすのか、という壮絶なるサバイバルストーリーです。

壮絶なんだけど、マット・デイモンの演じるキャラクターがなかなかいい味を出してます。
シビアさのなかにユーモアあり、脳天気あり、希望ありで、観ていてつらすぎるということがありません。
とくに音楽がはたす役割が大きくて、これはリドリー・スコット監督の特徴でもあるんですが、じつにうまいんですね、音楽の使い方が。

この映画では、チームの女性キャプテンのパソコンのなかにあるのが唯一火星で聴ける音楽であり、しかしそれはひどい趣味で、なぜか1980年代のディスコ音楽ばかりなのです。
それが非常に厳しいサバイバル状況のなかで脳天気に流れてくる。
このミスマッチがおもしろいんだけど、だんだんそれがストーリーと画面を引きたてていくんですね。
最後には、この映画にはディスクミュージックしかありえないでしょう、という気分にまでなってしまう。

全体の映画音楽はハリー・グレッグソン=ウィリアムズが担当していて、これがまたすばらしい。
彼は「ナルニア国物語」の音楽で有名ですが、ほかにも「シュレック」「スパイ・ゲーム」「トータル・リコール」といったいい仕事もしてます。

「オデッセイ」は最初から手に汗にぎるストーリーですが、とくに後半、地球のチームがいかにして彼を連れもどすかと知恵をしぼったり、政治的駆け引きがからんできたりするあたりから、さらにおもしろくなっていきます。
最後はもう食料もつき、ガリガリにやせたマット・デイモンが映しだされますが、もちろん替え玉でしょう、後ろ姿だしね。
でも、よくできています。

SF映画が苦手、サスペンスフルな映画が苦手、という人も、ぜひ見てみてほしいです。
ぜったいにおもしろいから。

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げろきょネットライブ 2016.5.12

2016年5月12日。
現代朗読協会の活動拠点である〈羽根木の家〉で「げろきょネットライブ」がおこなわれ、Ustreamを通してネット配信されました。
その模様をほぼ全編、ノーカットでお送りします。
リアルタイムで見逃した方は、こちらでお楽しみください。

 朗読 山田みぞれ「ヒルミ夫人の冷蔵鞄」前半(海野十三作)
 演奏・司会進行 水城ゆう
映像はこちら(画像をクリックしてください)。

2016年5月11日水曜日

朗読生活、アフリカの話、意拳自主稽古

5月7日・土曜日は現代朗読協会の「朗読生活のススメ」コースの5回めでした。
このコース、けっこう人気で、ゼミ生以外にも通し参加の方が何人かいるほか、毎回体験参加の方が何人かいらして、にぎやかです。
問い合わせもちょくちょくあります。

毎回テーマが設定されていて、この日は「朗読とコミュニケーション/共感でつながる世界」でした。
朗読というだれでもすぐにはじめられる表現行為が日常生活にとても役に立つ、あるいはおもしろい影響をあたえると私はかんがえていて、かんがえるだけではなく実際に経験していることでもあります。
その知見、経験、提案を、この10回コースをとおして参加のみなさんといっしょに検証してみたい、と同時に、毎回みなさんにお渡ししているレジュメにそって執筆もすすめていて、一冊の本にまとめられたらとも思っています。

この日のテーマは共感的コミュニケーションが表現と生活にどのような変化をもたらしてくれるのか、いきいきと無防備に表現することで私たちの学びや人生がどれほど明るく成長するのか、といったことを解説し、実際にそのことを現代朗読のエチュードをとおして体験してみました、。

この日は体験参加の人がおふたり。
うちおひとりは、愛知県豊橋市にあるいるかビレッジからわざわざ来てくれた方でした。
いるかビレッジは現代朗読家であり、音読療法士でもある野々宮卯妙が、ここ数年、毎月共感的コミュニケーションを教えに行っていて、私も一度だけ、彼女の代役でおとずれたことがあります。
今回参加してくれた方もそうですが、ビレッジのスタッフの方が私のオンライン共感カフェに参加してくれています。

そして今回、とても素敵なことが起こりました。
私が不用意に発言した人をからかう冗談(私はときどき親しみをこめて不用意なジョークで自分を表現する悪癖があります)が参加者のひとりに不愉快な思いをさせてしまい、その反応を私に返してくれました。
まさに今回のテーマである「朗読とコミュニケーション/共感でつながる世界」の実践的事例がその場で起こり、私にもみなさんにとっても深い学びのチャンスとなったのは興味深く、またありがたいことでした。

午後は旅行作家の田中真知さんもいらして、午前から引きつづき残ったふたりも加えて韓氏意拳・養生功の自主稽古をおこないました。
もう暑いくらいの気候で、私は夏が好きなのでとてもうれしいんですが、ちょっと動いただけで汗ばむほどでした。

気持ちのいい時間をすごしたあと、本来の基礎ゼミの時間を変則的に真知さんのアフリカでの経験の話を聞かせてもらったりして、これもまた大変興味深かったのです。
真知さんはエジプトを中心にアフリカに長年在住していたことがあって、日本に伝わっているアフリカ像と実際の現実像がだいぶかけ離れていることを教えてくれました。
真知さんの最新の著書『たまたまザイール、またコンゴ』を読んでみようと思っています。

変則ゼミの最後に、ゼミ生KATがスティーブ・ジョブスの死の直前にのこした言葉を朗読してくれて、それも興味をそそられました。
そこで、みんなが帰ってから、映画「スティーブ・ジョブス」をひとりで観たのです。
この映画のレビューはあらためて書くことにします。

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演@明大前キッドギャラリー(6.18)
ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。14時からと18時からの2回公演。

2016年5月10日火曜日

映画:ゴッホ:天才の絵筆

2009年制作のフランス映画。
いまではだれも知らない人はいない天才ゴッホについては、さまざまな伝記、研究所、番組が作られていますが、この映画は高精細な映像を大画面で見ることができるということで話題になりました。
たしかに、コンピューターのモニター画面で見ても、絵のタッチが詳細に見える精密な映像で、興味深いのです。

カメラの被写界深度を極端に絞りこんでおいて、絵を斜めに置き、画面の奥から手前にかけてピントをすこしずつずらしてなめていく映像は、まるで本物の絵に顔を近づけ、じっくりとなめていくような臨場感があります。

映像そのものも興味深いですが、私はそれ以外のところにいろいろと気になりました。

まず、ゴッホ美術館の学芸員の女性が、頻繁に登場します。
この方がなにを語るということでもなく、地下室でゴッホの手紙を書き写したりチェックしている姿がただ頻繁に映るだけなんですが、まあ美人だからでしょうか。

ゴッホの映画を作っているという映画チームも登場します。
映画チームを映画チームが撮影しているわけですね。
映画チームはレールをしいた上にどでかい(旧式の)カメラを据えて、そのわきに初老の監督が貫禄いっぱいにかまえて、「スタート」「カット」などとやっています。
ゴッホが住んでいた家とか、援助者だった医者の家とかを撮影しています。
それをこちらがまた撮影しているわけです。
不思議な構図と構成です。

ゴッホのエピソードも語られます。
住んでいた土地や家、その風景なども、ゴッホの絵と重ねあわせて描写されています。
その部分はなかなか興味深いです。

それにしても、不思議な切り口の映画です。
さすがフランス、という感じもしないわけではありません。
私の個人的なジャッジですけど。

ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。14時からと18時からの2回公演。

2016年5月9日月曜日

楽しい朗読、再確認

現代朗読協会が法人として認可を受けてから満10年がたちました。
その前身である朗読研究会から数えると、約15年がたっています。

私の誇りは、この団体が完全にインディペンデントであり、現代朗読という手法を他のどの朗読団体の影響も受けずに進化/深化してきて、ここにいたっている、ということです。
数多くの実験と実践をかさねてきて、ほかのどの朗読団体にもない方法論を確立し、それはまだ進みつづけています。

しかし、反省もあります。
私は前を向きすぎているかもしれない、ということです。
初期・中期のころに現代朗読に参加した人たちは、その深化の過程をともに経験し、現在ここにいたっていることを体感したり理解しています。
しかし、いま参加する人は、過程も知らないし、方法論についてもあまりにも他の朗読団体とはかけはなれているために理解しづらいかもしれません。
私はそのことをすこし見なさすぎたのではないか、と気づいています。

発足当時がそうであったように、いま一度、間口を広くとって、だれもがまずは参加しやすい、敷居の低い団体にしてみようと思っています。
ただし、その方法は、やはり現代朗読の思想にのっとったものでなければおもしろくありません。
現代朗読の手法にのっとってはいるけれど、敷居が低く、間口が広い。

本来、朗読というものはそういうものなのです。
だれでもすぐに始められる表現であり、自由で楽しいものなのです。
そしてそれは奥行きがあり、その気になればどんどん深いところへ進入できる。
なかにはその気にならない人もいるでしょう。
自分は気楽に本を音読したり、子どもに読みきかせているだけでも楽しいのだ、という人もいるでしょう。
そういう人にも、最低限の現代朗読の考え方を理解してもらい、朗読表現の楽しさと可能性を保持した上で、そのような気楽なアプローチをしてもらいたい。

現代朗読には非常に気軽な地平からとても先鋭的なピークまでのグラデーションがあります。
そのことをもうすこし丁寧に発信していったり、とても気楽に参加できる機会を増やしていけたらいいかな、と思っています。

四茶げろきょオープンマイク、ふたたび(5.24)
あらゆる“評価”から解放される表現の場である現代朗読協会の「朗読オープンマイク」が、ひさしぶりに帰ってきました。5月24日(火)夜、三軒茶屋のライブカフェ〈四軒茶屋〉にて開催。

2016年5月8日日曜日

本:長編小説『秘密』(Kindle)発刊しました

かつてのケータイ公式サイト(いまもあるのかな?)「どこでも読書」で連載し、ご好評をいただいた長編小説『秘密』を、このたびあらためて発刊しました。

2000年代の東京のある街、地方から出てきて一軒家に暮らしはじめたひとりの中年ピアニストの生活。
街や音楽の世界のようす。
彼にまつわる女性と少女。
そんなことがこのお話に描かれています。
私はひょっとして、この小説のなかで、絵画のようにある空気感を描写することを試みていたのかもしれません。その空気感、雰囲気、ストーリーの感触といったものを楽しんでいただければ幸いです。

Kindle版のみの発売となります。
価格318円です。
こちらからどうぞ(画像をクリックしてもジャンプします)。


映画:ペイド・バック

2011年公開のアメリカ合衆国、イギリス、ハンガリーの共同制作映画。
監督はジョン・マッデン。
ほかにも「恋におちたシェイクスピア」「コレリ大尉のマンドリン」などを手がけています。

なんの先入観もなくなにげなく見はじめましたが、冒頭数分で「これはかなりクオリティが高い」ということを確信。
音楽でも小説でも映画でもダンスでも演劇でもそうですが、時間軸にそって展開される表現作品の場合、その冒頭だけ見てそれがすぐれているかどうかというのは、だいたいわかるものです。
というか、私はそういうことをかぎつける能力が高いと自負しています。
年の功もあるでしょうが、「作り手」の側からの視線で数多くの表現作品に接してきたからだろうと思います。

この映画は1965年ごろと1997年ごろの時間を行ったりきたりして進んでいきます。
おなじ登場人物が出てきますが、当然、それぞれ違う俳優が演じています。
が、うまくキャラクターの雰囲気がすりあわされていて、違和感はあまりありません。

主人公はイスラエルの諜報機関モサドの工作員・レイチェル。
若いレイチェルをジェシカ・チャスティン、初老の彼女をヘレン・ミレンが演じています。
ヘレン・ミレンは超ベテラン女優で「クィーン」でアカデミー賞をはじめ、各国の賞を総なめしています。
ジェシカ・チャスティンも「インターステラー」や「オデッセイ」などに出ていて、注目の女優ですね。

1997年に、レイチェルの娘が母レイチェルたち三人の活躍を書いた本を出版する、その出版パーティーのシーンが冒頭のほうにあります。
そのときのレイチェルの表情が、この物語の行くすえを暗示します。
娘の晴れがましいお祝いの席であり、かつ、自分たちのかつての輝かしい働きについて書かれた本の出版だというのに、どこか表情が陰っていて複雑なのです。

そのように、役者の演技、小道具、セリフ、エピソード、どれをとってもすべて意味があって、画面も考え抜かれて作られています。
カメラの、いわゆる長回しのシーンもいくつかあって、見ごたえがあります。
巧妙なパズルのように作られた映画といってもいいでしょう。

ベタ誉めですが、欠点がないわけではありません。
悲劇的なエンディングとか、語られていない作家であるレイチェルの娘のこととか。
しかしまあ、それについては逐一書くのはやめます。
それより、観て損はない映画だと、まずはいっておきましょう。

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2016年5月7日土曜日

新MacBookと MacBook Pro のキータッチ音

新MacBookを4か月使っていて、最近気づいたことがあります。
それは、キータッチの入力音が静かだ、ということです。

私は MacBook Pro 13インチをメインマシンとして使っていますが、USキー配列のキーボードをカナ入力の設定で、という、かなり特殊な入力方法をとっています。
カナ入力のほうがキータッチの回数が少ないので、ローマ字入力より圧倒的に早いし、思い浮かんだことば・文字をローマ字に変換することなく直接打てるので、思考のながれがさまたげられにくい(と感じている)のです。

もうひとつ特徴があって、ピアノ弾きなので、かなりの指先の圧力とスピードがあるらしく、興が乗ってくるとストロークが強く早くなり、カチャカチャパタパタとかなり大きな音を立ててしまいます。
なにしろ興が乗っているので本人は気づかないんですが、まわりからは「音がでかい」と迷惑がられることが時々あります。
人が多くいるような、そして静かさを求められるような場所――たとえば会議とかレクチャーとか――だと気を使います。

新MacBookはキーのストロークが浅く、ほとんどゼロに近いようなペタペタしたキータッチで、私はそこが不満だったんですが、慣れてくると自分の指圧を強制的に減衰させて静かな入力音になることに気づきました。
ためしに、いま、ビデオで録画しながら、音を確認してみることにしましょう。

おなじ文章をなにか選んで、新MacBookと MacBook Pro 13インチの両方で打ちこんでみます。
文章はこれ。

(寺田寅彦「花物語」より)
晴れ上がって急に暑くなった。朝から手紙を一通書いたばかりで何をする元気もない。なんべんも机の前へすわって見るが、じきに苦しくなってついねそべってしまう。時々涼しい風が来て軒のガラスの風鈴が鳴る。 床の前には幌蚊帳ほろがやの中に俊坊が顔をまっかにして枕まくらをはずしてうつむきに寝ている。

テスト映像はこちら

なるほど、という感じですね。
やはりまだ、使い慣れたProのほうがキー入力はスムースで、速いようです。
うるさいけど。
ということは、ひとりで仕事するときはPro、人がいるときは新MacBook、ということなんでしょうね、はい。

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2016年5月6日金曜日

通奏低音としての「悲しみ」を味わう

ゴールデンウィークの最後の日がその日なので、自分の誕生日を忘れることはあまりないんですが、今年もその日がやってきました。
あらためて年齢を確認すると気が遠くなりますが、この年齢に自分が到達したことについて、そうわるい感じはありません。

よくいわれることですが、年をとると、若いころにはできたことがだんだんできなくなっていく。
たとえば身体的なことです。
若いころのようには走れなくなった、疲れやすくなった、回復力がおとろえた、身体がかたくなった、というようなこと。
逆に、年をとることで、若いころにはできなかったことができるようになることもある。
経験値があがり、知識や技術も身についてくる。

数値化できるわけではありませんが、差し引きでいえば私は確実に、年を重ねて失ったものより、得たもののほうがはるかに大きく、充実した毎日をすごせているといえます。
それはとてもありがたいことで、多くの人とのつながりや協力があって成立していることだとも思います。

いまの私にとって大切なこと、いきいきしていることを、キーワードでならべてみると、こんな感じでしょうか。

 マインドフルネス
 フローとゾーン
 音楽と瞑想
 小説(テキスト表現)
 共感的コミュニケーション(NVC)
 現代朗読
 音読療法
 武術(韓氏意拳)
 日本みつばちと環境問題

30年以上つづけてきたこともあれば、数年前にはじめたばかりのものもあります。
いま現在の特徴は、これらのことがそれぞれつながりを持ち、お互いに補い合って、複雑なパズルが組みあがるように私のなかで整合性を持ちはじめた、ということでしょうか。
自分のなかで大きな統合が生まれ、それがパワーになっているのをまざまざと感じています。
しかし、それを十全に発揮するところまではまだ行っていません。
どうやって発揮するか、それがいまの課題です。

それとは別に、この年齢までやってくると、若いころには想像もできなかったある「喪失感」の陰のようなものが前方に見え隠れしています。
その先にはこの世における自分の「消失点」があります。
そこに向かって、私にかぎらずだれもがそうですが、なにごとかを喪失しつづける日々が加速していく予感が、具体的な実感に近づいてやってきています。
ある種の「怖さ」かもしれませんが、若いころに想像していたような恐怖ではなく、それは「諦め」をともなった独特の「悲しさ」の音響をともなっています。

朝めざめると、その音響が通奏低音のように私のなかにあることを感じます。
それはけっして悪い感じではありません。
喪失の予感ではありますが、一種の豊かさをともなってもいます。
この感じをうまく説明することはできませんが、その通奏低音があることで、私の感覚と活動が豊かになることを味わっています。
いま、私にしかできないこと、私にしか伝えられないことを、丁寧に表現していきたいという望みがふつふつとあるのです。

下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェ、夜開催は5月11日(水)20時から。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

2016年5月5日木曜日

映画:モンスターズ/地球外生命体

2010年製作のイギリス映画。
監督はギャレス・エドワーズ。

この映画で一番びっくりするのは、製作費が1万5千ドルだったということ。
150万円くらい?
え、それって、ありえないでしょ?

たしかにチープな部分はあるけど、それほどの低予算にはとても思えません。
それほど迫力のある映像が作られています。
監督のギャレス・エドワーズはこの映画のあと、ハリウッド映画の監督に抜擢されています。

監督についていろいろ調べてみると、どうやら、なにもかも自分ひとりでやってみたいワンマン製作者らしいのです。
もともとはテレビシリーズの特殊視覚効果の専門家で、2008年のBBC製作の大河ドラマ「ウォリアーズ」では、監督しながら250もの視覚効果をすべて自分ひとりでおこなったという、とんでもないハードワーカーのようです。
「モンスターズ」はそんな彼の初の長編監督作品で、とても150万円で作られたとは思えないようなクオリティがあります。

SF映画としては異例の低予算なので、当然、物足りない部分はありますが、よくこの予算内でこれだけのものを作ったな、という感嘆のほうが大きいのです。

舞台はメキシコで、宇宙から飛来した謎の巨大生物を封じこめるために、メキシコの大半が封鎖地帯になっています。
アメリカ空軍が飛来して、空爆をおこなっているため、宇宙生物のせいというより空爆で多くの民間人が犠牲になっています。

主人公はカメラマンで、スクープをねらって来ているんですが、その新聞社のオーナーの娘を安全地帯まで護送するハメになってしまいます。
飛行機に乗りそびれたため、危険な陸路を行くふたり。
極限の緊張とさまざまな危険が襲いかかってきます。

宇宙生物はわずかしか顔を出しません。
予算のせいでしょうね。
最後のほうでは全身を見せて暴れるシーンもありますが、はっきりいって陳腐です。
いまどきタコ型宇宙人って……
しかし、その陳腐さをおぎなってあまりある、よくできた映画です。

オーナーの娘・サマンサ役のホイットニー・エイブルが、なにげない女優でありながら、けっこうハマリ役というか、好感が持てます。
主役の男優も悪くないですね。
ただ、このふたりの中途半端なラブストーリー的な展開は、もうちょっと詰めようがあったんじゃないかな、と小説家としては思ってしまいますが。

ともあれ、拾いものの映画で、1時間半を楽しませていただきました。
あ、音楽もなかなかよかったです。
ジョン・ホプキンスという人で、エレクトロニカの人みたいですね。

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つい人の顔色をうかがってしまう

なにごとをするにも他人の顔色など気にならない、という人はこの項を読む必要はありません。
私もそうですが、自分ひとりではなく、だれか相手がいたり、あるいは何人かが集まっていたり、もっと多くの集団のなかにいたりするとき、つい人の顔色をうかがってしまうことがあります。
「この人の機嫌をそこなわないようにしよう」
「いまいったことで怒らせちゃったかな」
「この人は私のことを気にいってくれたみたいだ」

日本人はとくに他人の顔色をうかがう傾向が強いといわれています。
それはときに「空気が読めない」などという非難のことばをともなって、同調圧力となって私たちを窮屈にします。
みんなが楽しんでいるときには自分も楽しんでいるふりをする、みんなが怒っているときには自分も怒ってみせる。
集団でなくても、個人間でもそれは起こります。

ちいさな子どもは親の顔色をうかがいます。
顔色をうかがうというとことばの印象がわるいのですが、親にいまどんな感情があらわれているのか、こちらを気にしてくれているのか、あるいは気がつかずにいるのか、という情報を読む能力は、おさない子どもにとって生存を左右する重大事項です。
なので、人間は日本人にかぎらず、まずもっとも身近な存在である母親、父親の顔色を読む能力を身につけ、それをしだいに兄弟、親族、近隣の大人、子どもどうし、コミュニティ全体へと拡張していきます。
そしてたえず、その能力をみがきながら成長していきます。
それは、人間が社会的動物であり、社会性を身につけることで生存することを許される社会に生きているからです。

しかし、ときに過大な社会性は、自分のニーズを抑圧し、いきいきした行動を阻害することがあります。
なんらかの自分のニーズがあり、それを純粋に満たそうと行動するとき、
「ちょっと待て。いま、まわりはどんな感じなのか?」
と、行動を抑制することがあります。
さらに行動をつづけようとしても、相手や周囲の「期待」や「空気」にこたえようとして、自分の行動を変えたり、ゆがませることがあります。
そうなると、もう純粋にニーズにつながった行動とはいえなくなります。

人の顔色をうかがうあまり、自分ではなにもできなくなってしまう人もいます。
命令や指示がなければ動けない、動かない人もいます。
自分の意思やニーズでいきいきと行動している人には、ねたみややっかみが向けられることもあります。
すべての人がお互いの顔色をうかがい、おなじように窮屈にちまちまと行動している社会。
これを「同調圧力の強い社会」といいますが、いまの日本はその傾向が強くなっています。
そのような社会は楽しいでしょうか。

なにより子どもや若い世代の人たちがのびのびと成長できないのはかわいそうなばかりでなく、いずれ社会の衰退をまねくのは明らかです。
すべての人がいきいきと自分のニーズにつながって行動し、そのことが尊重され、対立やトラブルが起こったら懲罰を受けるのではなく「修復」を試みられる社会、それが共感的コミュニケーションもしくはNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)がめざしている社会です。
まずは身近なところからそれをはじめてみようとしている仲間が、私のまわりにはたくさんいます。

5月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(5.9/23/30)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は5月9(月)16時と20時、23(月)20時、30(月)20時です。

2016年5月4日水曜日

人には多様なニーズがあるということにあらためて気づく

共感的コミュニケーションもしくはNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の世界にいるとつい忘れてしまいがちですが、社会にはまだまだ前時代的な価値観にしばられて自分の人生を自由に生きていない人が多くいます。
たとえば、
「女は夫を支えて家庭を守り、子どもを産んで育てて、夫の両親の介護や看取りをするものだ」
というような価値観。
70代、80代の高齢者ならともかく、私よりずっと若い40代、50代の人にもそのような価値観をいまだに持ちつづけている人がいることに驚くことがあります。
しかも、それは女性ばかりではなく、男性のほうがむしろ多いように感じます。
彼らはその価値観を「嫁」である自分の愛する妻に押しつけているのです。

共感カフェにやってきた40代のひとりの女性は、その目的を、
「夫にいわれたんです。おまえは人の気持ちがわからない。おれがなにをしてほしいのか、どういうことをしてもらいたがっているのか、いちいちいわれなくても黙って察してすばやく行動すべきだ、と」
といいました。
あきらかに「共感」の意味を取りちがえています。

共感とは、人の気持ちやしてもらいたいと思っていることを「察する」ことではなく、相手がなにを大切にしているのかそのニーズを推測し、また実際に聞いて確認することで、相手とつながり、お互いに尊重しあうことです。
けっしていわれてもいないことを「察して」、先回りして相手の望みをかなえることではありません。

私は彼女の話を聞いたとき、最初は彼女のことがかわいそうになりました。
前時代的な価値観を夫や姑から押しつけられ、自分の行動の自由や選択肢を奪われ、まるで奴隷のような嫁の立場に閉じこめられているみじめな女性のように思えたからです。
実際に彼女の行動は制限を受けています。
勝手に仕事を求めて社会に出ることは許されていません。
子どもを作ることを押しつけられ、それがなかなかかなわないとなると不妊治療を命じられます。
夫や姑のいうことに逆らうことは許されません。

いまどきそんな家があるんだということに驚きますが、よくよく聞いてみると、彼女自身は自分のそのような立場に甘んじている部分がなきにしもあらず、というようすなのです。

彼女が夫や姑のいいなりになり、従っているのは、なんのニーズがあるからでしょうか。
彼女は夫や姑といさかいを起こしたくないのです。
彼女は家庭に争いがなく、平和であることが大切で、たとえそれが表面的であれ平和裡におたがいがつながっていることが大事です。
その自分のニーズを満たすために、彼らに逆らわないという戦略(ストラテジー)を採用しているのです。

私の価値観からしてみれば、もしそれが自分の生きていくための戦略だとしても、とても自分の人生を生きているとはいえず、かわいそうだ、と感じてしまいますが、しかし彼女には彼女の価値観があるのです。

時々、夫と仲が悪く、悪口ばかりいっている人がいて、そんなに旦那のことが嫌いならさっさと別れてしまえばいいのに、と思うような方に会いますが、そんな彼女もまた、自分が苦労することなく毎日好きなことをして気楽に生きていく手段として、結婚生活を維持するという戦略を採用しているのでしょう。

私はそのことを尊重したいと思います。
しかしやはり、そういった人もまた、自分のニーズに深くつながり、自分自身の人生を、たとえそれが波乱に満ちたものだとしても、生きてもらいたいなあと思います。
それもまた、私の個人的な価値観にはちがいないのですが。

5月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(5.9/23/30)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は5月9(月)16時と20時、23(月)20時、30(月)20時です。

2016年5月2日月曜日

音読療法の「現場」を見てもらう

先日、4月28日(木)の午後は、毎月訪問しているメディカルホームまどか富士見台(特別養護老人ホーム)にボランティアの「音読いきいきケア」というワークのために行ってきました。
ここはもう三年以上つづいているボランティアワークで、職員の方はもちろん、利用者のなかにもおなじみになった方が何人もいらっしゃって、私たちが行くのを楽しみにしてくれています。

今回は私と音読療法士の野々宮、音読トレーナーのけいこさん、そして見学の藤原夫妻の五人でうかがいました。
藤原夫妻は、通称トシちゃんとナオミーヌと呼んでいる、NVC(共感的コミュニケーション)の仲間で、今回、北海道は弟子屈町からはるばる東京にやってきたところを、見学に連れだしたわけです。
ふたりとも施設での音読ワークに興味しんしんのようすでした。

まどか富士見台にかぎらないことですが、特養ホームでのワークでは、参加のみなさんの身体状況はさまざまです。
ほとんどまったく寝たきりのような方から、自分できちんと立って歩ける方、補助器があれば歩行できる方、車椅子の方、車椅子でも押してもらわなければ移動できない方など、グラデーションがあります。
声を出すことについても、はっきりと発語・発声できる方から、不自由な方、ほとんど発語できない方までいろいろです。
音読療法はそういった状況でも、共感的コミュニケーションをベースに用いたスキルで対応していきます。

まずは雑談からはいって、ご挨拶――いわゆるMCというやつです。
おなじみの方が何人もいらしたので、私はリラックスして世間話からはいって、興味深い話を聞かせてもらったりしたので、うっかり自己紹介・メンバー紹介を失念してしまいました。

仕切り直しして、呼吸法、発音・発声のトレーニング、そして音読に進む段で音読療法士の野々宮に交代。
私が呼吸法を実施するあいだにけいこさんがホワイトボードに書いてくれた唱歌「花」の歌詞を使って、音読エチュードをやりました。

「花」はあらためて(歌うのではなく)読んでみると、ふるい日本語ではありながらとても美しい風景や情緒が語られていて、味わい深いのです。
それをみなさんといっしょに味わいます。

音読療法は、お年寄りのみなさんと、知的レベルを下げることなく、文学的な話ができるのが特徴です。
老人ホームでしばしば、お年寄りをまるで幼児のように扱うお遊戯的なワークがされているのを見かけますが、音読療法ではご高齢の皆さんに、たとえ認知症が進んでいたとしても敬意と尊重をもって接することを心がけています。

参加者のひとりが、しきりに、
「私はこの歌詞を全部おぼえているわよ。書いてあるのを見なくてもちゃんと歌えるのよ」
ということを訴えておられました。
おそらく、自分にはその能力があるのだということを理解してもらいたかったのかもしれません。
あるいは、自分の能力のことをだれかから否定されたり、つらいジャッジをされたりして、つらい思いをした記憶があるのかもしれません。
音読療法では、そこにあるニーズを美しいものとして見て、受け取り、共感を向けてつながります。

野々宮がいくつかの音読エチュードを、自分自身も汗だくになって熱意をもって進めていったあと、最後は私がピアノ伴奏をして、ようやくみなさんと「花」を歌いました。
いきなり「歌いましょう」というのと、音読療法のプロセスを経てから歌うのとでは、起こることがまったく違うのです。
そこには評価されたり否定されない安心のもとでの、のびやかな歌声が聞こえてきます。
そのとき、こちら側もとても幸せな気持ちになります。

ワークの最中、見学の藤原夫妻が食いいるように見てくれていたことがうれしかったです。
あとになって気づいたことですが、私は音読療法の現場と、そこで起きていることを、だれかに見てもらったり、知ってもらうことをとても望んでいたようです。
この現場を見ても「ふーん」とたいして感じてくれない人がいることもたしかですが、「これはすごいですね」と起きていることをちゃんと見てくれる人がいると、本当にむくわれるような気がします。
もっともっとたくさんの人に、音読療法の可能性や有効性について知ってもらったり、現場で起こっている本当にことを見てもらいたいと思っています。

ボイスセラピー講座(5.4)
5月4日(水/みどりの日)10:00-15:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。