2015年9月30日水曜日

ネットと非接続でマインドフルに仕事する(スマホ除く)

自分の能力を最大限に発揮して、仕事の質と効率をあげるには、マインドフルネスをこころがけることがもっとも有効だと感じている。
「いまここ」の自分自身につながり、その「ありよう」とまわりのこと(自分自身がまわりから受け取っていること)に気づきつづけている状態だ。

しかし、私たちの生活は、マインフルネスの邪魔をするものであふれている。
というより、文明の進展というのは、人をマインドフルネスから遠ざけるさまざまな発明の進展の歴史そのものといってもいいくらいだ。
その最たるものがコンピューターであり、スマートホンだ。

私も1日のかなり時間をコンピューターの前にすわってすごしている。
いながらにして世界とつながり、情報が得られ、コミュニケーションができる。
たとえばYouTubeを観ているとき、私の身体もこころも「ここ」にはない。

そのようなマインドレスでもすごせるのは、文明が築きあげた安全で、しかし人工的な環境のおかげだ。
屋根と壁と床があって、風雨や日差しを気にせず、座りごこちのいい椅子と机で長い時間、快適なままで自分の存在を忘れていられる。
飢えや渇きの心配もない。
水道をひねれば水が出るし、冷蔵庫には冷たい飲み物がはいっている。
すぐにお湯をわかしてお茶を飲むこともできれば、火をつけたり電子レンジを使ってすばやく食事の準備もできる。
いつでも風呂やシャワーで温まることもできる。
便利でありがたいことだが、そのおかげで私たちは自分自身の実感をうしなってしまっている。

前置きが長くなってしまったが、仕事をするときぐらい、とくにものを書くときぐらい、自分自身の実感とともに自分がおこなっていることに気づきつづけながらやりたいと思うのだ。
私の場合、ものを書くときのもっとも大きなノイズは、まさに向かっているコンピューターの画面に侵入してくる情報だ。

ネットにつないだまま仕事をしていると、メール着信、フェイブックやツイッターのメッセージやレスポンスの着信、その他さまざまなノーティフィケーションがポップアップやサウンドでやってくる。
かといって、ネットを完全に切断してしまう、バックアップや調べ物が不便になる。

私は書いているものはほとんどリアルタイムでクラウドサーバーに同期させ、いつなんどきローカルがクラッシュしてもすぐに復帰できるようにしてある。
これで何度助かったか、あるいはストレスから解放されたかわからないほどだ。

また、調べ物が瞬時にできるのも助かる。
ものを書くときの、調べ物に費やす時間ときたら、インターネットがなかったときには膨大なものだった。
ほんのちょっとした、たとえばある田舎町の地名の読み方を調べるのに、ほとんど1日費やしたりしていたこともある。

それがなくなったのは、生産性の観点からはかなり大きいし、調べ物が手短にすめば「いまここ」のクリエイティブな自分に立ちもどるのも早い。
効率ばかり優先しているとろくなことがないことはわかっているのだが、「いまは」効率的に仕事するための環境について書いていることをご承知いただきたい。

コンピューターのネット接続は欠かせないものとすると、できるのはメールソフトを立ちあげない、フェイスブックやツイッターなどのSNSも立ちあげない、ということだ。
画面は執筆用のエディターソフトだけにする。

ところが心配もある。
音声電話を使わないようにして(突然かかってくる電話も大きなノイズでありストレスとなる)、いろいろな連絡はほとんどメッセージやメールに移行してあるので、割合急を要する連絡がネット経由ではいることもあるのだ。
しかし、いちいちこれらを見にいっていては、集中が切れてしまう。
そこで、スマホだけは傍に置いておいて、その画面のポップアップだけを手のあいたときにチェックすることにした。
緊急の連絡はそれでチェックできるので、リアクションの必要があればそのときに対処すればいい。

この方式でしばらくやってみて、気づいたことがある。
自分宛にやってくるメールやメッセージやレスポンスのうち、緊急性のあるものなどほとんどない、ということだ。
こういうものにいちいち反応して、自分の集中をとぎらせていたのは、どれほどもったいないことだったのか。

そして、仕事の集中もそう長続きするものではない。
集中が切れたときにメッセージに返信すればいいし、それらはほどよい気分転換になる。

カウントダウンにはいりつつある残り人生を、有効に、生産的に使いたいというニーズがある私にとっては、この方式がいまのところ気にいっている。

げろきょオープンマイクは評価ではなく共感で運営

毎月一回、三軒茶屋のライブカフェ〈四軒茶屋〉で開催しているげろきょこと現代朗読協会のオープンマイクでは、出演者同士あるいは観客から出演者にたいしてユニークな方法でフィードバックをおこなっている。

ステージでだれかがなにかを表現したり発表したとき、私たちはかならずそれにたいして「評価」とか「批判」「批評」といった態度を取ってしまい、ときにはそれを口にしたり、当の相手にむかって伝えることがある。
経験がある人なら覚えがあると思うが、自分がおこなったことに対して批判されるのは、けっこう痛いものだ。
なにしろ、自分はそれなりに懸命におこなったわけだし、失敗したとしたらそれは自分がもっとも残念に感じていることだからだ。
さらに自分ではうまくいったと思っているのに、思いがけず批判されたり非難されたりするのは大変つらい。

そういった経験が重なって、せっかく楽しくはじめたことを途中で投げだしたり、あきらめたりする人がとても多い。
表現の舞台をつづけることをめざしてまじめに取りくんでいる人のなかには、それがもとで心の病にかかってしまうような人もいる。
そういう人を私はたくさん見てきた。
だから、現代朗読協会が主催するオープンマイクでは、そのようなことが起こらないようにしたいと思ったのだ。

表現の場においては、表現者がいまその瞬間の自分自身につながって、のびやかに、無防備にやれたときがもっとも能力が発揮されるし、また成長もいちじるしい、と私はかんがえている(実際にそういう人たちを見てきた)。
「ダメ出し」とか「反省」といった言葉が好きな人が多いが、そのようなものからはけっしてよいことは生まれないし、表現者の尊厳もそこなわれる。

そこでげろきょのオープンマイクでは、共感的コミュニケーションの考え方を取りいれている。
相手を評価したり分析したりラベリングするのではなく、ただ受け取り、自分のなかで起こったことを正直にただ伝える。

なにかを受け取ったとき、私たちの内側ではさまざまなことが起こる。
社会的なものさしや外部基準に照らしあわせてそれがいいとか悪いとかいう評価ではなく、ただ自分のなかで生まれた感情や味わい、動きといったものをつかまえて、相手に伝えるだけだ。
とはいえ、これはなかなかむずかしいことで、評価することに慣れている私たちにとってすぐにやれるものではない。
そこで、ちょっとした工夫をしている。

写真の紙はフィードバックシートと呼んでいるものだ。
幅5センチくらいの小さな紙で、そこに味覚のマトリックスが印刷されている。
表現を受け取った人は、自分の内側を見てぱっと直感的に「甘味は3くらい」「苦味は2くらい」と、チェックを入れて、出演者に返すのだ。
出演者はそれを見て、みんなに自分の表現がどのように受け取ってもらえたのか、なんとなくわかる、という仕組みだ。

その仕組みは、実際にどのような味覚としてとらえられたのかが重要なのではなく、そのフィードバックシートを書きこんでもらった全員に自分の表現が評価ではなくて受け取られたことが実感できる、ということだ。
実際にシートがみんなから返ってくると、なんともいえない暖かな気持ちになる。
これは経験してみなければわからないかもしれない。
また、シートを書く側も、すべての出演者にたいしてそれをおこなうわけだから、すべての人の表現を自分が受け取り、自分のなかを観察して、それを伝えるという、共感的なつながりの場がそこで生まれる体験をすることになる。

そのように「共感」というものを表現の場にいかに取りいれていくのか、あるいは音読療法のようなセラピーの場でもどのように生かすことができるのか、まだまだ工夫は足りないし、まだまだできると思っている。
みなさんにも体験してもらいたい。



10月20日(火)19時から、三軒茶屋のライブハウス〈四軒茶屋〉にて、毎回大好評のげろきょ(現代朗読協会)&四茶共催オープンマイクの第7回を開催します。評価や批判のない安心の場であなたも表現してみませんか? 朗読以外のパフォーマンスも歓迎。

新作音楽アルバム「Music Meditation Vol​​.​​10 grain full」リリース

音楽の新作アルバム「Music Meditation Vol​​.​​10 grain full」が完成し、配信スタートしました。
全曲試聴できるほか、ダウンロード購入もできます。
こちら

2015年1月1日からYouTubeでほぼ毎日配信している「音楽瞑想(music meditation)」を、日本の24節季ごとに切り出したアルバムするプロジェクト、その第9弾です。
Bandcampのアルバム用に音源はリマスタリングしてあります。
Vol.10は「小満(grain full)」です。

収録曲をリストしておきます。

 1. flag (3:25)
 2. tide (2:58)
 3. monastery (2:27)
 4. brook (2:27)
 5. copernicus (2:06)
 6. eye (2:52)
 7. baboon (2:10)
 8. screw (2:16)
 9. bouquet (2:31)
10. gap (2:02)
11. leaving (2:52)
12. flying (2:07)
13. dahlia (2:44)
14. suspicion (2:45)
15. feather (2:24)
16. progress (2:13)

2015年9月29日火曜日

【YouTube】いろいろな相手とつながりの質を作る(NVCをベースにした共感的コミュニケーション)

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースにした共感的コミュニケーションでは、苦手意識があったり、対立していたり、嘘つきだったりと、つながりにくい相手とどうつながるかについても学ぶことができます。
羽根木の家(毎月開催)でおこなった勉強会の模様からの抜粋です。

映像はこちら(画像をクリックしてください)。
横浜共感カフェ(10.2)
10月2日(金)夜、横浜の神奈川県民センターにて、共感的コミュニケーションをまなんでいる仲間が主催する共感カフェを開催します。どなたも参加できます。

カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(10.5)
10月5日(月)夜7時半から、恒例の三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーション・ワークショップを開催。朗読と音楽のミニライブ付き。参加費1,000円+ワンオーダー。

2015年9月28日月曜日

外部評価・自己評価と学び・成長

人が「学びたい」というモチベーションを発動させ、成長のきっかけになるものとして、2種類あると私はかんがえている。
ひとつはおなじみの方法で、これは私も長らく(人生のほとんどの時間をそれに費やして)やってきた。
自分がやりたいことでまだできないことがあると、そのお手本を探しもとめる。
見つかったら、それをお手本に、自分もできるようになるまでただひとすら、苦しい反復練習に取りくむ。

私の場合は、たとえばピアノ演奏だった。
子どものころはクラシック音楽を、大人になってからはジャズを、私は独学で身につけた。
すぐれた教師がいればもちろんその教えを請い、いわれたことを忠実に守ってひたからそのとおりに練習する。
なにしろ、その方法で先生はそのように弾けるようになったのだから、自分もその方法を実践すれば先生とおなじように弾けるようになるはずだ。

私にはとくに教師がいなかったので(田舎で育ったということもある)、レコードやラジオを聴いてそれをお手本にした。
あるいは有名な演奏のコピー譜を弾いてみたりした。

もちろんそれでどんどん上達するし、上手に弾けるようになる。
しかし問題がひとつあって、この方法ではお手本や先生を超えることはできない、ということだ。
逆にお手本に近づけば近づくほど、オリジナリティは失われていく。
お手本を練習しながら、どうじにオリジナリティを獲得していける表現者がいたとしたら、それは生まれつきの天才であろう。
そもそも彼にはお手本など必要ないにちがいない。
オリジナリティをもとめられる表現の世界では、この方法はかなり致命的だ。
その悪い例を、音楽の世界を見回してみると、いくらでも見つけることができる。

もうひとつの方法は、自分の外側にお手本を求めない、というものだ。
どうするのか。

人間は自分の可能性をまったくもって使いきれていない、ということに、3年前からはじめた韓氏意拳という中国拳法を練習する過程で私は気づいた。
そもそも韓氏意拳では、だれか達人の型や動きをなぞって反復練習するということはしない。
とても深く、緻密に自分自身の身体と向かいあい、その声を聞く。
一回一回、そのつどあたらしく、聞く。
とくに站椿《たんとう》という稽古では、自分の身体がどうなっているのか、どのような可能性があるのか、質の高い全体性を持った運動がどこから生じるのか、といったことを、そのつど注意深く見ていく。
その過程で多くの人が(すくなくと私は)、自分が自分の身体をまったく使いきれていない、能力の何割かも使えていないことに気づくのだ。

ピアノ演奏のように楽器などの道具を使う表現については、話はそう単純ではないかもしれないが、拳法や朗読、ダンスといった、自分の身体を直接使う運動や表現では、自分の能力がどこまで使えているのか、あるいはどのくらい使えていないのか、稽古のやりかたによってはかなりダイレクトに実感できる。
つまり、自分の至らなさが稽古によって浮き彫りになってくるのだ。
もともとすでに持っているすばらしい能力を、まったくもって使いきれていない、ということがわかってくる。

その「至らなさ」はだれかと比較してのものではない。
外部基準に照らしあわせてのものでもない。
あくまで自分基準の至らなさだ。
それに気づいたとき、学びが発動し、自分の伸びしろがくっきりと見えてくる。

現代朗読でもこのような稽古をおこなっている。
お手本がない、外側に基準がない、あくまでも自分自身と向かいあう稽古だ。
当然、ひとりひとり内容が異なる稽古となるし、あらわれてくるものもまったくちがったものになるだろう。
結果的にオリジナリティの高い表現をひとりひとりがめざすこととなる。
このようにして、現代朗読の表現者たちには多様性が生まれている。

従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。10月3日(土)のテーマは「ことば・声/呼吸/姿勢/身体/日常トレーニング」。単発参加も可。

身体性にアプローチするという斬新な手法でテキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するための講座。10月3日(土)夜のテーマは「テキスト表現におけるオリジナリティとはなにか/それを決定づけるもの」。単発参加も可。

表現におけるリアルな身体観とバーチャルな身体観

写真は朗読表現基礎ゼミのときに私が板書した落書きだが、「体」という漢字の変遷をさかのぼっている。
たしかに生活が近代化されるにつれ、現代生活はリアルな身体の感覚がいちじるしく希薄になったように思われる。

これは韓氏意拳の教学においてしばしば指摘されていることで、たとえばおなじような拳法の型や練習方法をやったとしても、それが100年以上前におこなわれていたものだとしたら、現代人である我々とその当時の武術家がおこなっていた稽古の質はまるでちがっているのではないか、という指摘だ。
私はこれにおおいに同意している。

幸いなことに(といえると思うのだが)、私は昭和32年に、北陸の片田舎(というより大田舎)に生まれた。
まだテレビも掃除機も電気洗濯機も電気炊飯器も車も(家には)なかった。
母親は毎日、割烹着を着て、川の共同炊事場で料理のしたくをしたり洗い物をしていた。
もちろん掃除は雑巾がけだし、洗濯も手洗いだった。
その姿をおぼろげながらおぼえている。

子どもの私はといえば、遊ぶのはもっぱら野山をかけずりまわること。
近所のさまざまな年齢の子どもたちが集まって、そこいらで鬼ごっこやら、虫捕りやら、川遊びをしていた。
蜂にも刺されたし、ムカデにも噛まれた。

このような生活が大きく変化したのは、小学二年から三年のころだと思う。
急に道端の用水路がコンクリートでかためられ、やがては暗渠になっていく。
田んぼには農薬がまかれるようになる。
家の庭でも夏になると飛んでいた蛍が飛ばなくなる。
カブトムシやクワガタが貴重昆虫になる。

いまから思えば、これは東京オリンピックの開催を機に日本が高度経済成長時代に突入した時期だった。
家にはテレビがはいり、電話が敷かれ、電気洗濯機や電気炊飯器、電気掃除機、自家用車がやってきた。
こういった、身体を楽させてくれる現代製品の普及はさらに加速していき、我々はどんどん日常生活で身体を使わなくなっていく。
それは、自分のリアルな身体がしだいに見えなくなっていくことだった。
そのことを私は自分自身の「体感覚」として理解できるように思う。

イメージとしては「自分の身体はこんな感じ」というものがある。
医学的知識が増えると、内臓や骨格のようすなども「知識としては」増えていく。
しかし逆にリアルな身体感覚からはどんどん遠ざかっていく。
バーチャルな身体を思考で動かしておこなう行為の質はどうなるだろうか。

私はピアノ演奏という音楽表現をやっているし、また現代朗読という表現にかかわっている。
バーチャルな身体でおこなわれた表現と、リアルな身体でおこなわれた表現とでは、その質がまるで別物であるかのような差異がある。

(もっとも、とくに日本においてはバーチャルな身体でおこなわれるリアリティや情報量の希薄な、いわばデザイン化された表現が好まれる傾向があり、それはそれで立派なマーケットを形成している。このことを忘れてはならない)

私たちの現代朗読は、たとえばアニメ声優ファンといったデザイン化されたマーケットになにかを売るための活動をしているわけではない。
現代朗読では、朗読表現を通して自分自身をリアルに見つめる、知る、そしてその可能性をいかんなる発揮する、そのための方法を模索しつつ実践している。
そのためには、マインドフルに、いまここにある自分自身のありようと、絶えざる変化に、しっかりと付き合っていきたいのだ。

朗読表現基礎ゼミ(10.3)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。10月3日(土)のテーマは「ことば・声/呼吸/姿勢/身体/日常トレーニング」。単発参加も可。

羽根木の家で韓氏意拳初級講習会(10.4)
内田秀樹準教練による韓氏意拳の体験&初級講習会@羽根木の家を10月4日(日)に開催します。自分の未知の身体に出会えるユニークで注目の武術です。どなたでもご参加いただけます。

2015年9月27日日曜日

音読療法の可能性の大きさ、あらためて

わざわざいうまでもないが、超高齢化社会を迎えてさまざまな問題が山積している。
が、いまはここで、いちいちそれら社会問題をあげつらうつもりはない。
まずは自分自身の問題としてとらえてみたい。

私はいま58歳で、組織に属したり会社に勤めているわけではないのであまりピンとこないが、たまに同級生や同年代の者と話しているときに、「もうすぐ定年」とか、「定年になって余裕ができたので」といった言葉を聞くことがあって、ちょっとハッとする。
そうか、そういう年齢になったのか、とあらためて思うのだ。
つまり、初老であり、自分も老齢に差しかかっているということに、あらためて気づく。

若いころは想像もしなかったし、想像もできなかったけれど、自分がどのように歳を取り、どんな老人になり、どのように死を迎えるのか、という問題が目の前に迫ってきている。
30代、40代の若い人も、自分の親がそのような年齢に差しかかっていて、ときにそのようなことが頭をよぎるかもしれない。

音読療法協会では「いきいき音読ケア」として老人ホームなどを訪問することがあるが、そのときにお会いするお年寄りたちを見て、自分もこのようになるのかな、と思ってみるが、どうしてもその姿に重ならないいまの自分がいる。
施設に入らなかったり、介護を受けずとも、死ぬまで元気に畑に出たり、絵を描いたり、レジャーに打ちこんだりする人たちもいる。
どうすればそのように元気なまま老いることができるだろうか。

「介護予防」ということばがある。
ネットで検索してみると、このところ非常に多く記事になっていて、ニュースリリースなどでもしょっちゅう検索に引っかかってくるが、一般人にはまだほとんど知られていない。
「介護を予防する」つまり「要介護者にならないように健康維持をはかる」という概念で、いま、各自治体がこぞって力を入れはじめている。

それには非常に明確な理由がある。
冒頭に述べたように、超高齢社会に突入しつつある日本では、高齢者医療や介護保健の費用が爆発的にふくれあがっている。
それを各自治体が税収、介護保険料、地方交付金などでまかなっているわけだが、それが財政をいちじるしく圧迫して不健全な状況が進展している。
そのために、すこしでも要介護者を減らそう、あるいはその増加率を抑えようと、介護予防運動に力を入れはじめているというわけだ。

各自治体は独自にさまざまな介護予防運動の手を打ちだしているが、まだまだ足りない面があると私はかんじている。
音読療法協会のオーガナイザーとして、いろいろな現場を見てきた私としては、介護予防にはいくつかの要件があるとかんがえている。

(1) 健康維持のための無理のない運動
(2) 知的好奇心を刺激する内容
(3) 豊かなコミュニケーション

これらすべてを満たしているのが音読療法だ。
(1)の運動については、各自治体も手をかえ品をかえさまざまな内容を打ちだしているが、音読療法では呼吸法、発声、そして音読エチュードという、一見運動とはあまり関係がないような内容となっている。
しかし、実際におこなってみればわかるが、軽く汗ばむくらいにしっかりとした運動だ。
呼吸も音読もコアマッスルをしっかりと使うので、無理のない安全な運動だし、また体幹を整えることで高齢者特有のバランスを崩すことが原因の怪我や事故を防ぐことができる。
また、免疫力も向上するので、病気予防の効果も高い。

(2)と(3)も非常に重要だとかんがえていて、これらによって高齢者は人としての尊厳を保ちながらいきいきとした社会性を持ちつづけることができるだろう。
老人ホームに行くと、認知症の高齢者を相手にまるで幼稚園児のような扱いの「お遊戯」をさせている場面を見ることがあるが、音読療法では文学作品や唱歌の歌詞をテキストに使うことで、知的レベルを落とすことなくみなさんとプラクティスを進めていく。
そしてそこでは「共感的コミュニケーション」という、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースにしたお互いの価値を尊重しあう共感的なつながりを作るコミュニケーション・スキルが導入されている。

音読療法は高齢者対象だけでなく、さまざまな年齢、ケース、状況で役に立つものだが、とくに介護予防の分野で今後大きな役割をはたしていけるのではないかとかんがえている。
そのための音読トレーナーの育成や、自治体などに対する介護予防講座の提案を、音読療法協会では急ピッチで進めているところだ。
近いうちに職業音読トレーナーや職業音読療法士をまとまった数で世に出す計画も進んでいる。
私自身も音読療法を実践することで、自分の介護予防運動を促進したい。

ボイスセラピー講座(10.25)
10月25日(日)13:00-17:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

自分の存在の複雑さに耳をかたむける

2015年9月18日夜、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の当日パンフレットに書いた文章を紹介させていただきます。

——————
 ものごとにあるルールやアルゴリズムが与えられると、それが勝手に動きはじめ、どんどん増殖していくことがある。
 たとえば、自分を複製するプログラムを与えられたロボットは、材料さえ供給されれば、どんどん無限に増殖していく。たとえば、無限成長というプログラムを内在した経済は、資源をむさぼりつくすまで無限に成長しつづけようとする。こういうものを「システム」という。
 自然界にもシステムはたくさん存在し、さまざまな生命活動そのものがシステムといえるかもしれないが、自然界のシステムは人の理解がとてもおよばないほど複雑な構造を持ち、しばしば自浄作用がそこに働く。一方、ヒトがかんがえだしたシステムは単純で、自浄作用がそこに働かない場合、爆発的に、とめどなく暴走する。
 私たちはいま、そういうものに取りこまれている、と理解している。
 私たちがヒトそのものであり、みずからが作りだしたシステムに内包される存在であるとき、私たちにはなにができるのだろうか。システムから下車し、本来みずからも自然界の複雑系の一部である複雑で豊かな個々の存在に立ちかえることはできるのだろうか。
 もう一度、自分自身の存在の複雑さに耳をかたむけ、他者と世界の複雑さにも敬意をはらい、どのような個々のありかたがあるのか、浅知恵ではなく、深い気づきの沈黙と瞑想のなかにはいっていく必要があるように思う。
                        (みずきゆう)

お教室ではない/情報発信/市民薄明

写真:ずっとタネをつないで作っているカスピ海ヨーグルト。羽根木の家の玄関横、茶室の前の金木犀のけっこう大きな木。

朗読にしても音楽にしても、共感的コミュニケーションにしても、私が伝えようとしているものはいわゆる「習いごと」方式ではなく、いっしょにかんがえ、やってみて、それぞれの参加者が自分なりに発見したり身につけたりしてもらいたい、というやりかただ。

昨日の朗読表現基礎などのゼミや次世代作家養成塾も、そういうやりかたでやっていて、「お教室」ではけっしてない。
昨日初めて参加してくれた方は、現代朗読協会のウェブサイトを見て、それに共感して来たという。
うれしいことだ。

しかし、これまでの経験では、最初から受け身で、なにがしかの料金を払ったんだからそれに見合うだけの教育サービスをしてほしい、という態度の方もいないわけではない。
私も現代朗読協会も情報発信を心がけているつもりだが、そういうものを理解しないままやってきて、勝手に憤慨して去っていく人がいるのは残念なことだ。
まだまだこちらの声がきちんと届いていないということなのだろう。

このところずっとつづいていた過密スケジュールがようやくひと段落して、今週はかなりゆとりのあるスケジュールだ。
この時間を使って、しっかりと情報発信をしていきたいと思う。

今月にはいってからずっとつづけていた早起きの習慣は、ちゃんとつづいている。
「ヒノデくん」というアプリを使うと、その日の日の出、日の入、日照時間、南中時刻などがわかる。
知らなかったのだが「市民薄明」「航海薄明」「天文薄明」ということばと時刻があるらしく、おもしろい。
私はこのうち、市民薄明の時刻に目覚ましをかけることにしていて、日の出前の薄明の時刻を楽しんでいる。
今日の世田谷・羽根木の市民薄明は午前5時6分で、日の出は5時31分だった。

2015年9月26日土曜日

単発参加ができるようになった基礎ゼミ

今日の午前中は、ゼミ生でなくても単発参加ができるようなった現代朗読の朗読表現基礎ゼミを開催した。
これまでは基礎コースとして全10回のシリーズだったものを、毎回テーマを設定してどの回でも参加できるようにした。
さっそく、今日はおひとり、ゼミ生以外に外部からの参加があった。

今日の基礎ゼミのテーマは「朗読という表現行為/表現とはなにか/自分自身を表現するということ」。
基礎トレーニング(呼吸法、発声、体認のエチュード)のあと、座学。
朗読を含む「表現行為」とは、そもそもなにをどうすることなのか。
なにを表現するのか。
なにを伝えるのか。

いろいろなかんがえや方法があるが、現代朗読においては「いまこの瞬間の変化しつづける自分自身のありよう、いきいきとした生命活動や自身の存在そのものを表し伝える」ことを表現と呼んでいる。
しかし、表現はほかにも、テキスト(物語)の内容を伝えるとか、作者の思いを伝えるとか、お客さんに満足してもらったり賞讃されるようなテクニックを見せるとか、さまざまな立場がある。
それらを否定するものではないが、現代朗読では自分の外側にあるものではなく、マインドフルにいまこの瞬間の自分自身に起こっていることを、誠実に、正直に、無防備に、のびやかに表現することに集中する。

端的にいってしまえば、感じるまま好き勝手にやればいいのだが、それがなかなかにむずかしい。
非常に多くのとらわれや思いこみに縛られているのが、私たちの普通の状態なのだ。
自由にやることを「厳しく」問いつめてみるのが、現代朗読という試みだといえる。

朗読という表現行為はだれにでもできるがゆえに、自分自身の「社会的規定」への「寄りかかり」具合があぶり出されやすい。
ここからスタートして、厳しく自分自身の生命存在に注意を向けられるようになれば、朗読にかぎらずさまざまな表現行為に向かうことも可能だろうと私はかんがえている。
げんに私は朗読ではなく、音楽表現でそれをやっている。

午後は遠方からのオンライン参加のゼミ生もまじえた昼ゼミ、夜は次世代作家養成塾ことテキスト表現ゼミを開催。
表現研究三昧の一日だった。

次週・10月3日(土)の朗読表現基礎ゼミのテーマは「ことば・声/呼吸/姿勢/身体/日常トレーニング」。
興味のある方はこちらをどうぞ。

そしてその夜の次世代作家養成塾のテーマは「テキスト表現におけるオリジナリティとはなにか/それを決定づけるもの」。
こちらも単発参加ができるので、こちらをどうぞ。

2015年9月24日木曜日

9月の韓氏意拳世田谷羽根木講習会、終了

秋分の日の昨日は、朝から羽根木の家で韓氏意拳の初級講習会だった。
例によって内田秀樹先生に一日お世話になった(ありがとうございました)。

午前中は体験参加もできるショートクラス(1時間半)。
韓氏意拳初体験の方3人をまじえての稽古。
私もそうだったが、韓氏意拳の稽古に初めて触れる人は、なにをどうやればいいのか、なにをいわれているのか、雲をつかむような感じになるようで、そのようすに触れるのはこちらもあらためて初心を思いだして新鮮な心持ちがある。
もちろん、何度か稽古を重ねればなにをいわれているのか徐々にわかってくるし、年数を重ねればなにをやっているのか、そもそも韓氏意拳というのはどういう体系なのかというのも見えてきて、稽古も深まりを見せてくる。
じつに味わい深い教学なのだ。
しかし、つづけなければそういうこともわからない。
ちょっとだけやってみて、やめていってしまう人が多いのは、大変もったいないことだと個人的に感じるしだいだ。

午後は会員限定のレギュラークラス(2時間)が2コマ。
なじみの顔ぶれのほかに、愛媛から仕事の出張がてら参加された方がおられて、内容の濃い稽古となった。
私は世話人として、途中すこし抜けたりしたが、基本的に通して体系的に稽古ができてありがたかった。
基礎試力から摩擦歩、重心転換、そして基本拳法の一部。
それから、内田先生の工夫で、韓氏意拳の体系と形意拳の型(もどき?)を使った体感の比較は、気づきがたくさんあって興味深かった。
午前9時半から午後7時すぎまでの長時間にわたる稽古は、疲れたけれど、楽しい時間であった。

来月・10月の羽根木講習会は、日時が近いのでご注意を。
10月4日(日)の開催となっていて、詳細と参加申し込みはこちらからどうぞ。

新作音楽アルバム「Music Meditation Vol​​.​​9 start of summer」リリース

音楽の新作アルバム「Music Meditation Vol​​.​​9 start of rain」が完成し、配信スタートしました。
全曲試聴できるほか、ダウンロード購入もできます。
こちら

2015年1月1日からYouTubeでほぼ毎日配信している「音楽瞑想(music meditation)」を、日本の24節季ごとに切り出したアルバムするプロジェクト、その第9弾です。
Bandcampのアルバム用に音源はリマスタリングしてあります。
Vol.9は「立夏(start of summer)」です。

収録曲をリストしておきます。

 1. blast (2:03)
 2. breeze (2:00)
 3. pattern (1:41)
 4. bulbul (2:44)
 5. dugong (2:24)
 6. particle (2:11)
 7. cotton (2:31)
 8. moth (2:23)
 9. plane (2:23)
10. melancholy (2:33)
11. lean (2:35)
12. drain (2:08)
13. comet (2:07)
14. pupil (2:19)
15. road (2:33)

2015年9月21日月曜日

 ジムとジョリ来日によるNVCミディエーション羽根木合宿♫ (10/7-10/12 2015)

今年もジムとジョリが来日します♫
今年は、二人の専門分野NVCミディエーションの集中合宿です!
対立の場でつながりをつくる技術=NVCミディエーションを身につけよう!

** NVCミディエータ―養成合宿(通訳付き)**

ミディエーターとは、話し合いの調整役。
お互いがきちんと聞き合い、理解し合えることを、NVCミディエーション(仲裁・調停)技法を使って学んでいきます。

【日時】2015年10月7日18時〜12日15時

【こんな人に】
*NVCの学びをさらに深め、NVCで家庭や組織、社会に貢献したい人
*対立の間に立って、解消や仲直りを試みたけれどうまくいかなかった痛みのある人
*コーチングやファミリーカウンセリングを行っている人
*コミュニティやプロジェクトチームなど組織での調整に苦労している人
*実際に対立や軋轢を抱えている人は、当事者役として参加することもできます。
(NVC=Nonviolent Communicationを初めて学ぶ人でも、合宿全日に参加できるなら基礎から学べますので、歓迎です!)


【ミディエーションってなあに?】
仲立ちをするという意味。「仲裁」や「調停」とも翻訳されます。

【NVCに基づくミディエーション】では、対立の「解消」を急いだり、そのための「妥協点」を無理につくり出すことはしません。そのかわり「相手のニーズと自分のニーズを同じぐらい大切にする」こと、純粋に「共感によってつながりあう」ことを目指します。つながりができれば、双方が対話を通して解決を見出せるからです。

一般的な「調停」の合意形成では痛みを分かち合います。しかし、NVCに基づくミディエーションによる合意形成では、つながりが戻るため、お互いを思いやる解決策が創造的に生まれてきます。


【ミディエーションは、いつ、どんな場面で求められる?】
1) 自分の内側にある葛藤や対立に対処したいとき
2) 自分と他者の間に葛藤や対立があるとき
3) 他者同士の葛藤・対立に第三者として関わるとき

他者同士の例
A. カップル・ファミリーの対立
B. コミュニティの中での対立
C. 仕事場など組織内での対立


【なんで合宿なの?】

ジムとジョリ・マンスキー夫妻が通常行っているミディエーション・トレーニングは、基礎的なコースでも40時間に及びます。通訳を介して行うことを考えると60時間は必要となるため、集中して学べるよう合宿形式としました。

また、ミディエーションを身につけるには、学ぶことに加え、「具体的な事例」による「繰り返しの実践」が欠かせません。今回は、「フライト・シミュレーター」と呼ばれる“型”(空手の型やバレエの基本ポジションに近いイメージ)を主に用いて、小グループに分かれさまざまなレベル、場面でのミディエーションを体験します。講師からまたは参加者同士でフィードバックすることを繰り返し、ミディエーションの基本を確実に身につけ、本合宿後には、ミディエーターとして、自身のまた他者の葛藤・対立の仲立ちができるようになっていることを目指します。また、「フライト・シミュレーター」を用いてご自身のコミュニティでも、ミディエーション練習ができるようになるでしょう。


【講師・ジム&ジョリ・マンスキー夫妻について】
ハワイ・マウイ島在住のCNVC(センター・フォー・ノンバイオレントコミュニケーション)公認NVCトレーナー。1970年代から平和を生みだすための各種トレーニング、調停、ファシリテーション、組織開発を提供、またコンサルタント、メンター(助言者)として活躍。その働きは、ビジネスの現場、コミュニティグループ、行政、NGO、任意団体などさまざまな場に及ぶ。ジョリは2005~08年までCNVCの理事を務め、ジムは多数の国際的イベントを企画し2008~09年にはNVCの創始者マーシャル・ローゼンバーグと共に講師を務める。ミディエーターとしての活動は20年以上。13年、14年に来日してNVCの入門ワークショップを行い、日本でのNVCの周知拡散に寄与。また14年12月に清里で開催された日本初の国際集中合宿(IIT)にもトレーナーとして参加。今回は4度目の来日となる。


*主催者の想い『ミディエーションを文化して根づかせたい!』は追って掲載予定。乞うご期待!!

【NVC Japanにも掲載されています♫】


【開催要項】

【日程】2015年10月7日〜12日(合宿形式/希望者は通いも可能)

【会場】羽根木の家 (京王井の頭線新代田駅徒歩2分)+ 徒歩3分の一軒家+代田区民センター(京王井の頭線新代田駅隣)

【参加費】120,000円(6日間。宿泊費、食費別途)
参加費についてご相談があれば、「お問合せ連絡先」迄ご相談下さい。
※ 6日間通し参加の方を優先させていただきます。

※ 週末には、新代田駅周辺の施設で、単発参加可能な場を設ける予定です。ご希望の方は「お問合せ連絡先」からお問い合わせください。


【宿泊について】一人一泊3000円で10人迄用意できます(但し、部屋は共同になります)。近くの宿を自分で確保していただいても構いません。

【主催&コーディネート】パワーウィズコミュニケーション(後藤剛&ゆうこ)


【ミディエーションの練習とはどんなものか?】
「ミディエーション道場 9つのスキル」のビデオが日本語字幕付きであります♫



あと残席5名です。ピンと来たら、ぜひこの機会に♫

【YouTube】9月の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演、抜粋

2015年9月18日。
東京世田谷・明大前の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉ギャラリースペースでおこなわれた「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の映像記録から、抜粋してお送りします。
朗読は野々宮卯妙、ピアノ演奏は水城ゆう。テキストは水城ゆう作「コンテナ」です。

映像はこちら(画像をクリックしてください)。

体験講座、ボイスセラピー講座、音読トレーナー合宿

今月の現代朗読体験講座には、生後7ヶ月の赤ちゃんを連れた方が参加してくれた。
現代朗読の講座やゼミはどれも子連れ参加歓迎なのだが、ママカフェ以外では赤ちゃん参加はひさしぶりで、楽しかったなあ。
とってもいい子で、終始ニコニコと、ママが朗読したり、ほかの参加者が朗読するのを聴いて喜んでいた。

講座そのものは、例によって、朗読という表現行為の本質とはなにかをいっしょにかんがえ、基礎トレーニングを通して身体と声の関係確認したりした。
来月の体験講座は10月25日(日)夜の開催。
詳細と申し込みはこちら

ボイスセラピー講座には遠方からの参加者が来られた。
通信教育で心理関係の資格取得をめざしているのだが、東京でスクーリングがあるので、そのタイミングに合わせて講座に参加してくれたそうだ。
資格取得に役に立つかどうかはわからないが、音読療法ではつねに、最新の精神医学や心理学の所見を検証し、体系を更新している。
また、職業としてのボイスセラピーの可能性もさまざまに模索・提供している。
興味がある方は参加してみてほしい。
来月のボイスセラピー講座は10月25日(日)の開催。
詳細と申し込みはこちら

そして土曜日から今日・月曜日にかけて、音読トレーナー養成合宿を羽根木の家でおこなっている。
実践や共感的コミュニケーションの練習をふくめ、専門的な所見をがっつりと学んでいる。
音読療法ではセラピストやトレーナーの心身がいきいきとしていること、共感的であること、感性が柔軟であることを大切にしているので、そのありようについてたくさん学び、練習してもらっている。
今日もこれから羽根木公園まで行き、マインドフルネスの練習をかねた健身法をみんなでおこなってから、午前の学習にはいる予定。

2015年9月19日土曜日

水色文庫新作「コンテナ」

水色文庫の新作「コンテナ」を登録しました。

このテキストは2015年9月、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースで毎月おこなっている「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演のために書きおろした作品です。

2015年9月18日金曜日

【YouTube】窪田涼子が「袈裟と盛遠」に挑む

大阪のナレーター・朗読パフォーマーの窪田涼子と、羽根木の家でだらだらとトーク。
12月4日と5日の両日、大阪〈座・九条〉での3公演が決まっている名古屋の俳優・榊原忠美との「袈裟と盛遠」公演のことを中心に、プライベートな話もまじえ、たっぷりと話しました。
最後までどうぞ。

映像はこちら(画像をクリックしてください)。

親密な関係のコミュニケーションを親密に学ぶ

一昨日・9月16日(水)夜は、毎月恒例の羽根木の家での「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会を開催した。
いつも思うんだけど、この長ったらしい勉強会のタイトル、なにかコンパクトなものはないかね。
参加者はコンパクトで、つまり少人数で、初参加の方もまじえてとても親密な感じでおこなうことができた。

リピート参加の方はリラックスして、そして初参加の方は最初はやや緊張されていたようだったが、すぐに打ち解けてご自分の大切な問題について心を開いて話してくださり、そのことによって場はさらに親密で安心な雰囲気になった。
この安心で、お互いに信頼しあえる空気になったのは、リピート参加の方々のおかげだろうと思う、感謝したい。

「親密な関係」というと、とくに性的な関係をふくむパートナーとの問題をおもに扱うのだが、この夜は親子の関係のことが中心になった。
親子関係は、その親密さゆえに、また切っても切れない縁ゆえに、問題をかかえている人がとても多い。
しかしそれは、おたがいにたくさんのニーズを持ち、それがぶつかりあうがゆえに起こることであり、おたがいのニーズを聴きあい、尊重しあえる耳と口と関係ができれば、これほど豊かな関係はない。
参加のみなさんにはそのことに気づいていただけたようで(私も気づいたけれど)、とても暖かな場と時間となった。
ありがとう。

来月のこの勉強会は、おなじ16日の金曜夜の予定。
気軽においでください。
詳細と予約申し込みはこちら

2015年9月16日水曜日

みつばち、みつばち、みつばち

一昨日、月曜日の午後、新橋の社会福祉施設〈新橋はつらつ太陽〉に行って、10月7日に港区エコプラザで開催されるアースデイ大学の特別講義のための打ち合わせを、施設長の高槻さんとアースデイ大学の生姜塚さんとおこなってきた。
羽根木みつばち部からは写真パネルで参加することになっていて、その内容のすりあわせ。

打ち合わせのあと、ビルの屋上にある西洋みつばちの巣箱を見せてもらう。
羽根木とはずいぶん環境が違うのと、日本みつばちとはだいぶちがう西洋みつばちのようすが興味深かった。
それにしても、緑化されたビルの屋上はビオトープもあってなかなかの環境で、都市もこのような工夫で生き物と共生できる環境を整えることができるのだと思った。
高槻さんたちが思ったよりラフな感じ(わるい意味ではない)で養蜂をされているのも、ちょっと安心した。

昨日の朝はみつばち部の定例活動として、巣箱の内検と採蜜する予定だったが、風邪で休むという連絡がひとりあったほかはだれからも参加連絡がなかったので、休みにして、窪田涼子と半七捕物帳の収録のつづきをやっていたら、部員がおひとりやってきたので、収録が終わるまで待ってもらって、内検作業だけ手伝ってもらう。
採蜜は延期。
帰られたあとに、今度はみおぎさんがやってきたので、蜜蝋の精製作業をやってもらった。
これはなかなか工夫のいる作業で、案外難しい。

今朝はみつばち部の臨時活動として、昨日延期した採蜜作業をおこなうことになった。
午前10時すぎに直子さんといおぎさんが来てくれて、作業開始。
その前に、直子さんが来られてすぐ、巣箱の入口のところにスズメバチを見つけたので、私が捕虫網で捕獲。
果実酒用にとってあった焼酎の瓶に投入。南無。
種類はキイロスズメバチと思われる。

その後、巣箱をあけて、巣枠をいくつか取りだし、採蜜作業。
人力遠心分離を試みるも、蜂蜜の濃度がかなり高くて、全然分離できない。
やむなく、巣礎ごと2枚、丸ごともらって、たっぷりの蜂蜜をいただいた(2枚で700mlくらい)。
ほかにもかなり貯蜜がすすんでいる巣枠が何枚かあったが、全面的というわけではないので、もうしばらくようすを見ることにした。
蜜源が少ないこの時期、どのくらい貯蜜がすすむのか、観察したいところだ。

2015年9月14日月曜日

共感したり与えたりではなく、非共感の鎧を脱ぐだけ

私たち現代文明人は成長するにつれ、親から、親族から、教師から、学校から、社会から、職場から、あらゆる機会をつかまえては、非共感的な反応を身につけるように教育される。
子どもにそのような教育をほどこす親の、教師の、あるいは社会のニーズは、ひとえにこの競争・評価・効率を求められる現代文明社会のなかで自立し、うまく立ちまわり、生きのびていけるような人になってもらいたいがためであり、またそのことによって自分が安心できるからだ。

しかし、現代文明社会も急速に変質しつつあり、そのような戦略がかならずしも人を生きのびさせることに効果的だとはいえなくなっている。
いや、そもそも、非共感的なふるまいを身につける戦略は正しかったといえるのだろうか。
人が生きのびるためには、競争に打ち勝ち、人を打ち負かし、社会システムの中枢に食いこみも、富を囲いこむことが必要なのだろうか。

これはまるで、他国に侵略されないために恐怖におののいて武装を強化する戦略に似ているように思える。
武装を解き、無防備になり、心を開いて他国と交流しつながりを深めることこそが、最高の安全保障だというかんがえかたは、いまや非現実的であると打ち捨てることができなくなっている。
なぜなら、世界はそれほどお互いに接近し、また関係性も複雑になっているからだ。

人間も本来、それぞれが個性を持った複雑な存在であり、単一基準でだれかを評価したりラベリングすることはできない。
柔軟なコミュニケーションによってお互いを尊重しあい、それぞれが自立して生きる道を模索することはできるはずだ。
その方法を具体的にしめしているのが共感的コミュニケーションだ。

共感的コミュニケーションではお互いに共感しあい、お互いのニーズを尊重しあうコミュニケーションの方法を学び、練習するが、ときにそれがむずかしいと感じたり、あまりに現実的ではないと思えて挫折してしまったりする人も多い。
とくに家族や友人、恋人、パートナーといった身近な関係だと、コミュニケーションの方法がパターン化していて、共感的なコミュニケーションへと移行するのがむずかしく感じることがある。
また、そのパターン化したコミュニケーションの方法そのものに安心をおぼえるという心理も働いてしまう。

そこから抜けだし、関係の質をシフトさせていくには、自分がまず、身につけてしまっている非共感の鎧を脱ぎ、正直で無防備な素の身体になる必要がある。
それは本来、私たちがもともと持っているものだ。
「非共感の鎧」とは、人を決めつけ、評価し、判断し、分析し、避難し、アドバイスし、同情し、つまりこちらの思考で相手のことをあれこれかんがえてやってしまう反応のことだ。
「非共感の鎧を脱ぐ」というのは、ただそれらの思考・判断を捨て、「いまここ」の飾らない自分自身そのものに立ちもどり(マインドフル)、相手をただ受けとる、それだけのことだ。

おさない子どもはみんなそれができている。
おさない子どもをよく見ることで、彼らから学ぶこともできるだろう。
そうやって見えてくるのは、共感のキーワードは「マインドフルネス」だろうということだ。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(9.16)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を9月16日(水)夜におこないます。

2015年9月13日日曜日

絶品たまごご飯

子どものころからたまごかけご飯が大好きで、なにもないときでもたまごご飯さえあれば不満はない。
基本はあったかいご飯に生たまごを乗せ、醤油をひとまわしかけて、ぐじゅぐじゅとかきまわして食べる、というシンプルなものだが、ほかにもいくつかバリエーションがある。
たらこを乗せたり、海苔を乗せたり、バターをひとかたまり乗せたり、佃煮をそえたり。
工夫しだいでかなりバリエーションを楽しめる。
そういう本も出てたりする。

昨日は基本の食べ方を根底からくつがえす新基本パターンを試してみた。
まず、たまごの白身と黄身を分ける。
白身だけあったかいご飯に乗せる。
ぐじゅぐじゅとかきまわして、ほとんどホイップのようになるまでよく泡立てる。
そこに取りわけておいた黄身をポンと乗せる。
あとは醤油をひとまわしかけて、いつもどおりにいただく。

ネットで見かけて、一度やってみようと思っていたのだが、かなりいける。
あ、そうそう、醤油はぜひいいものを使ってください。

2015年9月10日木曜日

佐渡ピースキャンプの5日間(5)

10日・木曜日、佐渡ピースキャンプ、最終日。
三晩お世話になった旅館をあとにして、佐渡キリスト教会へ。
天候はいまいちだが、台風は日本海に抜けて熱帯低気圧に変化し、フェリーの運航には支障がなさそうだ。
が、関東方面では集中豪雨で被害が出ているという情報がはいってきていた。

朝食後の朝の礼拝は、神埼典子牧師の担当。
マリアとマルタのエピソードをまじえながら、ご自分の経験を話し、みんなで歌を歌う。
私はリードオルガンで伴奏させていただく。
佐渡教会にはリードオルガンが2台とピアノが1台あって、とてもぜいたく。
とくに、今回はあまり弾く機会がなかったけれど、礼拝堂のリードオルガンはとてもすばらしいものだ。

ピースキャンプ最後の振り返りの会。
参加者の学生や若い人たちからとても尊重されているのを感じて、私はありがたく幸せな気持ちになっていて、Facebookですでにフレンド申請をしてくれた人も何人かいた。

教会の前でみんなで記念撮影をしたあと、車に分乗して両津港のフェリー乗り場に向かう。
フェリーに乗りこみ、佐渡にお別れ。
思ったほど船は揺れず、快適。
海の風景をたっぷりと楽しむ。

新潟港に無事に到着。
バスで新潟駅に移動し、すぐに新幹線に乗ろうかと思ったが、直近の便が混んでいるようだったので、一本遅らせて、駅前で昼食。
そのあと、14時すぎの新幹線〈とき〉(初めて乗った)で東京にもどる。
茨城や栃木ではこの集中豪雨で甚大な被害が出ているもようだが、新幹線も地下鉄も支障なく動いていて、私は無事に、雨に降られることもなく、午後5時前には羽根木に帰着できた。

あらためて、今回ご一緒したみなさんに感謝すると同時に、この豊かな経験はかならず伝えていきたいという思いがふつふつとわいたので、共感的コミュニケーションの勉強会や著作などに生かしていこうと決意しているところだ。

佐渡ピースキャンプの5日間(4)

9日・水曜日。
あいかわらず天候は思わしくない。
台風が接近している、直撃コースという情報があって、10日に東京にもどる予定がやや不安になる。

午前中のワークは、非共感と共感をもちいて、各グループごとに寸劇を作る、というもの。
私のグループはあいあいと神埼典子牧師がいて(午後からゆうたくんが参加)、あいあいが音楽が好きで、ミュージカルを作ってみたいという望みを持っていたので、ミュージカル仕立てにすることを提案。
さらに典子さんがマリアとマルタのエピソードについて翌日の最終日の朝に話すために、よくかんがえてみたいというニーズをお持ちだったので、それを題材にミュージカル仕立ての寸劇を作ることになった。
あいあいがたくさんアイディアを出して、音楽フレーズも提案して、NVCミュージカルができていった。

昼前にこの日からピースキャンプに参加する最後の人たちが到着した。
フェリーはまだ運航しているようだが、かなりの揺れたとのこと。
昼食は三種のソースのスパゲティ(贅沢だ)。

昼食後は昨日とおなじくエンパシー・サークルをおこなう。
ホームグループとは違う組み合わせのメンバーで。
私のメンバーは川村さん、りさと、光だった。
非共感の鎧を脱いで、裸の共感体へ。

午後、NVCをテーマにした寸劇をチームごとに準備しているなか、晴間が出て、二重の虹が現れた。
みんなで歓声をあげて見る。

夕食前、5チームに分かれて、それぞれNVCをテーマにした寸劇を発表する。
工夫・苦労・連帯・創造性が見えて、それぞれいとおしく、楽しかった。
私たちも楽しく表現・発表できた。
ベスト・パフォーマンス賞を春野さんからいただく。

夕食後はお楽しみ会ということで、クイズ形式のゲーム。
かなり盛り上がって、寸劇の表彰式が終わったら午後10時近くになっていた。
みむぅに宿まで送ってもらってひと息ついてから、すとんと眠りについた。

佐渡ピースキャンプの5日間(3)

8日・火曜日。
午前6時半に旅館を出て、てくてくと歩いて佐渡教会に向かう。
曇っている。
海は静か。
ちょっと荒涼とした風景が、まるで自分の原風景のようにしっくりくる。

ピースキャンプは教会のイベントなので、まずは礼拝がある。
この日は新潟の教区で長らく北朝鮮への食糧支援活動をされていた川村さんのお話からはじまる。
知らなかったことをたくさん聞く。

のぞみさんの朝食。

朝食後、みむぅによるこのピースキャンプの経緯や成り立ち、支援組織についての説明を聞く。
つづいて、春野さんのファシリテーションによる午前のNVCワーク。
モデルを使って、まずは我々になじみのある非共感的な表現の確認と、それに対する共感的な表現とプロセスの確認と練習。

昼食後は休憩時間を利用して、ホームグループと呼ばれる固定メンバーでのエンパシーサークルをおこなう。
私はじっくりと聞き役に回った。
最近感じるのは、共感というのは「与え」たり、「共感する」のではなく、ただ非共感の鎧を脱ぎ共感体になるだけ、ということ。

午後のNVCワークはエンパシーサークルのシェアをしたり、春野さんの講義や質疑応答をおこなったり。

のぞみさんの夕食準備の手伝いをする。
私は集団行動が本当に苦手で、合宿は居心地が悪い思いをすることが多いのだが、そういうときの逃げ場としてもっともありがたいのがキッチン。
のぞみさんが忙しく立ち働く横で、私はキーマカレーを作った。
まずまずおいしくできた。

夕食後はキリスト教会らしく、聖書研究と称して、聖書のある一節を取りあげる。
私は知らなかったが、クリスチャンはよく知っているマリアとマルタのエピソードということで、何人かが登場人物の役割になりきり、ロールプレイをおこなった。
私もナレーター(記述者)の役をやらせてもらった。
そのあと、イエス・キリストに対して、昼間練習したエンパシーカードを使った共感を送る、ということを、みんなでやってみる。
聖書研究とNVCのエンパシーサークルが合体した歴史的な瞬間なのだそうだ。
ともかく、みんなで大いに楽しく盛り上がって、このような喜びのある学びの場というのはすばらしいと感じた。

街灯ひとつない真っ暗な夜道を、iPhoneの明かりを頼りにほとんど手探りで歩いて宿までもどり、風呂にはいってから、みむぅからもらった自分では買わない高いウイスキーを堪能しながら、ひと息ついた。

佐渡ピースキャンプの5日間(2)

7日・月曜日。
佐渡でもこのところいつもそうしているように、夜明け前に起きる。
みんなが寝ているあいだに、教会のまわりや海のほうを散歩する。
小さな教会、海、どんより曇った空、ちょっと荒れた風景、まるで自分の小説のなかの世界へやってきたみたいな気がする。
長編小説「親密な関係」の配信は、佐渡キャンプのあいだは休むことにした。

午前8時ごろ、みむぅ夫妻と先着したNVCチームメンバーで朝食。
いよいよキャンプの始まり。
キャンプリーダーは春野さん。

朝食後、4台の車で参加者たちをフェリー乗り場まで迎えに行く。
参加者は学生と、キャンプ参加経験のある若者、引率の牧師や先生で、全員がクリスチャン。
このピースキャンプの主催は「日本基督教団関東教区新潟地区宣教委員会」という組織なのだ。

佐渡教会にもどる前に、ドンデン山という山に登り、そこでNVCの最初のワークをおこなう。
あいにくの天気で、山頂は霧というか雲のなかで、見晴らしはまったくない。
それでも高原には山野草がたくさん咲いたり、実をつけたりしていて、目を楽しませてくれる(写真はウメバチソウ)。
そのなかで、「出会いと別れ」というワークをやる。
私は参加者のほぼ全員が初対面だ。

雨が強くなってきたので、撤収。
全員で佐渡教会にもどる。
その途中、先導のみむぅが停車したので、なにかと思ったら、刈り取りの終わった田んぼにトキが羽を休めていた。
餌を採っていたようすだったが、佐渡にはほんとにトキが、しかもけっこう間近で見られたのはびっくり。

もう一箇所、〈へっついの家〉という、みむぅたちがやっている福島の子どもたちの支援施設を立ちよる。
みむぅはここをいずれ、プレイパークにしたいんだという。
しかし、すでにツリーハウスができていたり、立派にプレイパークのようになっているし、日本みつばちの養蜂箱を置いたら楽しいだろうなあと思ったりした。
問題は、周辺の田んぼの農薬かな。
佐渡もコシヒカリ一色のように見えた。

佐渡教会にもどり、いよいよ参加者たちとともに夕食、そして礼拝。
まだ全員が揃っているわけではない。
初対面の者もたくさんいるので、まだまだ緊張がとけない感じがある。
私も非クリスチャンなので、みんながあたりまえのように賛美歌を歌ったり、お祈りしたり、といった共通儀礼で動いているなか、とまどうことが多い。
非クリスチャンどころか、北陸の山間部の田舎町に生まれ育って、キリスト教文化には大学に行くまでまったく接することがなかったので、まさに異文化と感じる。

この夜から私は、参加者たちとは別に、みむぅにとってもらった近所の旅館に泊まる。
簡素だが清潔な部屋で、快適。
すぐに休みたかったが、ラジオドラマのシナリオの締め切りを持ちこしてきていて、明日までに原稿用紙にして20枚くらい書きあげなければならないという状況だった。
この夜と、翌日の合間をみて、なんとか書きあげた。