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2015年10月29日木曜日

終了:10月の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演

2015年10月28日、夜。
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースにて、ほぼ毎月恒例で開催している「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演をおこなった。

このところ、この公演のために新作テキストを書きおろすことがつづいている。
今回も公演日の二日前に新作テキスト「待つ」が書きあがり、朗読の野々宮卯妙に渡すことができた。
いつもぎりぎりになって申し訳ないと思うが、これも朗読者への信頼があって成り立っていることだと思う。
あらためて感謝したい。

この日読まれた新作テキスト「待つ」は、「水色文庫」に公開したので、お読みいただければ幸いである。
こちらからどうぞ。

19時半開場、20時開演。
今回はギャラリースペースに作品展示がなく、壁面は真っ黒に塗られたコンクリート打ちっ放しという、いつもの雰囲気といえばそうなのだが、ギャラリー空間としてはかなり異質なものである。
まさにこの公演のためにあるような空間で——というより、この空間があってこの公演内容が決まったといってもいいようなものだ。
ピアノがあって、鳴らせば音響空間としても非常に特異であることがすぐにわかる。

この公演も今回で8回めとなったが、私はこの音響特性に苦労しつつ、楽しみながら、演奏法を工夫してきた。
いわばじゃじゃ馬のようなこの空間を、ようやくすこし乗りこなせるようになった気がする。

今回も参加者は少人数で、とても静かに始まった。
野々宮の朗読に、私はなるべく音数を減らしてからみ、ぎりぎりの緊迫したコミュニケーションを試みる。
前半の終わりで朗読が沈黙に向かい、最後に完全に沈黙がおとずれたとき、いつもなら頭で計算して沈黙を長く引っぱるのだが、今回は私の身体が音を聴きたがっていた。

割合短めの沈黙のあと、私はピアノを再開し、後半の音楽瞑想へとはいっていったのだが、出てきたのはマイナーキーではじまる演奏だった。
私にしてはとてもめずらしい。
メジャーキー、もしくはどちらとも取れないペントニックからスタートすることが多いのだが、マイナーキーで音楽瞑想にはいったのは初めてのような気がする。

自分がどこに行くのか、なにが出てくるのかわからないまま、深くて濃いマインドフルネスとフローの世界にはいった。
覚えのある感覚だが、時間の進み方が独特になり、音の聴こえ方や身体の感覚が変わる。
コンデンスミルクのなかを泳ぎ歩いているようなねっとりした感覚がつづく。

どのくらい時間がたったのかわからないが、なんとなく必然的な流れで演奏が収束に向かったとき、なぜだかいつもより演奏時間が短いような気がした。
実際にはいつもより3分ほど短い演奏となった。

今回もおもしろい体験だった。
このような体験の場を成立させ、共有してくれたご来場の皆さんと、ホールの早川くん、工藤くんには感謝したい。

次回はどうなるのか。
やはり新作テキストを書きおろして臨みたいと思っている。
次回のこの公演は、11月はお休みで、12月11日(金)夜の開催となります。
詳細と申し込みはこちらからどうぞ。

水色文庫新作「待つ」

水色文庫の新作「待つ」を登録しました。

このテキストは2015年10月、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでほぼ毎月1回のペースでおこなっている「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演のために書きおろした作品です。

2015年10月27日火曜日

【YouTube】7月の沈黙瞑想、後半の演奏部分の抜粋

2015年7月27日。
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の後半部分、音楽瞑想の演奏を一部抜粋しました。
水城ゆうによる完全な暗闇のなかでの音楽瞑想、ピアノによる即興演奏です。

映像はこちら(画像をクリックしてください)。

2015年10月25日日曜日

羽根木Beesのピンチ!

羽根木Beesのことで私にとってはかなりショックな状況があって、なかなか報告できなかった(筆が重くて報告が遅くなった、申し訳ない)。

9月の中ごろからみつばちの活動が活発ではなくなってきて、巣穴を出入りする姿も急に少なくなってきた。
蜜源植物の少なくなる季節なので、それもやむをえないかと思いながら観察していた。
内検のときに撤去した無駄巣から採れた蜂蜜がいくらかあったので、それを水で薄めて給餌してやったりしていた。

アカリンダニが猛威をふるっているという情報があふれ、その対策としてメントールをセットした。
これはスムシなどの害虫にも効果があるという説があって、それを信じていた。

10月にはいってからの内検で、3段ある巣箱の一番下を調べたとき、かなりごっそりとスムシにやられているのを発見した。
すぐにスムシにやられた巣枠を取りだし、新しい巣枠を補充した。
が、みつばちの活動はいっこうに元気にならない。
巣穴を出入りする蜂が目に見えて少なくなっている。

何度めかの内検で、女王蜂を確認。
かなりほっとした。
女王蜂は元気そうだった。
しかし、働き蜂はかなり減っている。
思いきって、スムシにやられた巣枠を全部撤去して、3段あった巣箱を2段に縮小した。

先日、後藤さんに来てもらって、見てもらった。
女王蜂は元気だったが、卵と幼虫がまったくいない。
つまり、産卵していないのだ。
原因はわからない。
私はスムシにやられたせいだと思っていて、それがなくなったいま、また産卵を再開してくれるのではないかと、希望的に想像しているのだが、どうなるかわからない。
このまま産卵せずに新しい働き蜂が生まれなければ、女王蜂を世話する蜂もいなくなり、冬越しできない、という。
どうなるか、見守るしかないのが現状だ。

あれだけ元気で蜂蜜をガンガン集めて、働き蜂も次々と生まれていた群が、なぜ急激に弱ってしまったのか。
強い群はスムシくらいでやられないと聞いた。
つまり、スムシにやられて弱くなったのではなく、弱くなったせいでスムシにやられたのではないか、と思える。
弱くなった原因はわからないが、すぐ近くで庭木や果樹につく害虫を「駆除」している、という話は聞いている。
それによって群が弱ったということはありうるかもしれない。
となると、非常に残念なことだが、羽根木の家の環境は現時点でミツバチに適していない、ということになる。

ともあれ、いまできることは、スムシに食い荒らされた巣枠をきれいに掃除して、たくさん残っている蜂蜜といっしょに巣箱にもどし、女王蜂がふたたび機嫌よく卵を産んだり、働き蜂がまた働きはじめてくれることを祈ることしかない。
ほかになにができるだろう。
いろんな人の知恵をお借りしたり、みんなでかんがえて、都市養蜂の可能性を探りつづけていきたい。

未知の自分にダイブする方法としての朗読

昨日の朗読表現基礎ゼミには、体験参加の方がふたりいらした。
内ひとりは二度めの参加だったのだが、昨日は速攻でゼミ生になってくれたのでうれしい。

初めて来られた方は、多くの方がそうであるように、ネットで「朗読」と検索して、現代朗読協会を見つけてとのこと。
そういう方には最初におことわりしておく。

現代朗読とは「表現アート」のひとつであり、そういう意味では音楽やダンスなどのパフォーミングアートと同じ位置づけてあること。
朗読することによって「自分を表現する/伝える」ことが現代朗読の主眼であり、テキストの「伝達」が目的ではないこと。
朗読はダンスなどと同様の身体表現であり、「いまここ」の表現者の身体性が表現のクオリティを大きく左右するとかんがえていること。

そんなことをお伝えする。
この時点で「あてがはずれた」という顔になる方もおられる。
幸いなことに、昨日の方は「朗読にそんなアプローチがあるんだ」とおもしろがってもらえたようだった。

ゼミでも体験でもいつもいっていることだが、リアルタイムにおこなわれるパフォーミングアートである以上、いまこの瞬間の自分自身のありようがもっとも重要になる。
いかに自分自身を繊細にとらえ、いかに注意深く表現に向かえるかどうかが問われる。
現代朗読では、そのための感受性と身体性を整える練習を、厳しくおこなう。

昨日もゼミなので、いつもゼミでやっている基礎トレーニングを実際に体験してもらった。
昨日の方々に限らず、多くの人がそうなのだが、実際にやってみると、いかに自分が動けず、感じとることでできないのか、ぼろぼろと気づきが生まれる。
その「自分の足りない部分」が、稽古の余地となるわけだ。

なにか自分の外側に目標を設置して(上手に読める人とかカッコよく読める人とか憧れの人など)、それに向かってなにかを加える練習をするのではなく、自分の中で足りない部分を埋めていく練習をする。
したがって、だれかと比較するといったような外側の評価基準はない。
自分のことは自分にしかわからず、その評価基準は常に自分のなかにある。
そして自分とは、いまなにができてなにができないのか、まったく未知の存在であり、すべては実際にやってみるしかないのだ。

現代朗読協会に朗読を学びにやってくる人が多いが、ここでやっているのは朗読行為という表現ツールを使って、自分自身を知ったり高めたりする試みをやっているといえる。

現代朗読協会ではゼミや講座など、どなたでも気楽に体験参加ができるように窓を開いています。
11月の体験参加可能なイベントは、こちらをご覧ください。

2015年10月24日土曜日

終了:羽根木の家共感カフェ

昨日・10月23日(金)夜は、毎月一回開催している羽根木の家での共感カフェだった。
共感的コミュニケーションに初めて触れる人が二人に、NVCコアメンバーの栗山のぞみさんも参加してくれて、豊かな時間を持つことができた。
参加してくれた皆さんに感謝。

初めて参加した人の、日常的にもやもやしていることについて、最初に話を聞く。
彼女の感情、そしてニーズについて聞きつづけ、最後に彼女がなにを大切にしていて、そのもやもやがどこから来ているのかについて教えてもらうことができた。

聞き終わったら、
「すごく聞き上手で、聞いてもらった感があります」
といわれた。なので私も、
「いま私があなたを聞いていたその方法が、共感的コミュニケーションそのものですよ」
と教えた。

共感的コミュニケーションの基本原理はとてもシンプルで、明解なのだが、その応用範囲はじつに多様だ。
人の話を聞く方法。
自分自身につながる方法。
対立する二人の関係を修復する方法。
チームのモチベーションを高めクリエイティブにものごとを進めていく方法。
集団の合意を形成する方法。
さまざまなアプローチがある。

この回では「自己共感」に的を絞って、そのプロセスを試してみた。
いつものことながら、涙あり、笑いありの、楽しいばかりではない創造的な会になったように思う。
共感的コミュニケーションのスキルは、ある程度継続的な練習が必要だ。
今回の参加者も、私のところでなくてもいいので、継続的に勉強会に参加して身につけてくれるといいなあ、と思っている。

次回の私がファシリテートする共感的コミュニケーションの勉強会は、下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉で11月2日(月)夜に開催します。
だれでも参加できるオープンな雰囲気の勉強会なので、気楽にご参加ください。
詳細と申し込みはこちら

2015年10月23日金曜日

外房総のパーマカルチャー農園AWA訪問

献ちゃんからずっと誘われていた、南房総市にあるフィルのパーマカルチャー農園〈AWA〉への訪問が、やっと実現した。
NVCの仲間何人かで、はるのさんの車に便乗して、外房総まで出かけた。
世田谷からは意外に近く、アクアラインを通れば2時間くらいで着いてしまう。

私はアクアラインに乗るのはたぶん初めてで、途中で立ちよった海ほたるも初めて。
海が好きなので、東京湾内だけど海風にあたって大満足。
フィルの農園も海のすぐ近くで、すばらしい立地だ。

広い敷地に野菜、果樹、鶏、ハーブなどが計画的に配置されていて、開放的な建物がある。
オープンキッチン、テーブル、ロフト、薪ストーブとオンドル式の寝床もある。
デッキにはハンモック、その上には葡萄の木。
別棟に薪で焚く煉瓦のピザ窯。
作物や植物、生き物のいる野外と、人の暮らしが無理なく調和していて、本当に気持ちがいい。

電気やガスなどのエネルギー自給にはまだ手をつけていないとのことだったが、雨水利用の工夫がしてある。
山から引いた生活用水もある。
作物の肥料はコンポストや鶏の堆肥で完全自給。
鶏は雄鶏が1羽、雌鶏が5羽いて、毎日3、4個の卵が採れる。

着いたのが昼時だったので、近くの食堂まで食事に出たあと、和田漁港や海岸を散歩。
毎日、こんな海べりを散歩できたらいいなあ、なんて思う。

たっぷり遊んだあと、この日の一番の目的であるピザ焼きの準備に取りかかる。
まずは薪割り。
薪なんか割ったことのない者ばかりで、わいわいいいながら楽しんだ。
みんなが材料を買出しに行くあいだに、私はピザ窯に薪をくべてどんどん温度をあげる。

ピザ生地の発酵にすこし時間をかけるあいだ、ビールやワインをあける。
ほどよく夜がふけていくなかで、みんなでピザの生地作りを窯の横でフィルに教わる。
生地ができたら、上に材料を乗せ、片っぱしから焼いていく。
ピザ窯の中はかなり温度が高く、ピザもものの数分でほどよい加減に焼きあがってしまう。
それは切りわけて、次々とかぶりつく。

6人がかりだが、全部で20枚くらい食べたんじゃないだろうか。
外で食べるピザはおいしくて、いくらでも食べられる。
献ちゃんが何度も誘ってくれたわけがよくわかった。

夜はすっかりふけ、空には半月と星がたくさん見えた。
いつもは早寝するというフィルもずっと付き合ってくれて、我々がAWA農園をあとにしたのは午後11時近くだった。
ありがとう、フィル。
また遊びに行くよ。

2015年10月22日木曜日

朗読表現におけるガニ股問題

標題はおおまじめです。
いいすぎました、比較的まじめです。

今朝の現代朗読ゼミの基礎トレーニングで、ゼミ生のOくんの足の開きが気になった。
立っているとき、両足の爪先がかなり外側に開いている、いわゆるガニ股に近い立ちかたをしている。
以前から気になっていたことで、何度か指摘して、なおしてもらったことがある。
そのときは、なおしたあとにどんな感じがするのか、とくには聞かなかったのだが、今日は爪先を平行に近く内側にもどしたとき、朗読する身体にどんな変化が起きるのか、注目してもらった。

Oくんだけではなく、ほかの参加者にもやってもらったのだが、おもしろい感想が出てきた。
最初は、
「窮屈な感じがする」
というのが出てきたのだが、よくよく聞くとそれは身体があるていどまとまった状態であり、身体全体の連動が生まれ、朗読する声と身体もつながってひとつの流れになるような感じがある、というものが出てきた。
興味深い現象だ。

姿勢や手足の状態は、身体のまとまり、連動、そして朗読表現における声と身体のつながり、流れの一体化と相当関連性があることが、このところの現代朗読のエチュードのなかでわかってきている。
すでに明白なエビデンスも得られているので、朗読だけでなく、声の表現をおこなっている人には役立つかもしれないと思っている。
この方面の研究、さらに深めてみたい。

朗読表現基礎ゼミ(10.24)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。10月24日(土)のテーマは「日本語発音の決まりごと/表現での決まりごとの扱いかた」。単発参加も可。


終了:第7回(たぶん)四茶げろきょオープンマイク

2015年10月20日、火曜日夜。
三軒茶屋のライブカフェ&バー〈四軒茶屋〉で、恒例のげろきょ(現代朗読協会)オープンマイクを開催した。

ちょうどこの日、毎回、進行のアシスタントをつとめてくれているナレーターの森沢幸の誕生日だというので、みぞれちゃんに頼んでバースデイケーキを買ってきてもらって、サプライズをやろうということになっていた。
ところが、そもそも幸さんはこの日、来れないことになっていて、アシスタントはすでに川崎満里菜に頼んであるということが判明した(というより私が忘れていた)。

あわてて幸さんに連絡を取ってみたところ、誕生日は家族といっしょにすごすので来れないのだという。
そのあといろいろやりとりがあったのだが、結局、5歳のお嬢ちゃんといっしょに来てくれることになった。
お嬢ちゃんもママのマイク前の姿を見れて、そして大人の店に夜に連れてきてもらえて、大喜び。
結果オーライであった。

今回の出演リスト。

 川崎満里菜(と山田みぞれ) 朗読
 野々宮卯妙 朗読
 蝉 朗読
 山田みぞれ 朗読
 照井数男 朗読
 ラム山田 コント
 高遠波名 ピアノ弾き語り
 黒坂瑞穂 オートハープ弾き語り
 西口千草 朗読
 ふくおかかつひこ ポエトリーリーディング

今回は朗読が多かったが、初参加の人も来てくれたりして、バラエティ豊かな内容だった。
いつも使うチェックシートを持っていくのをすっかり忘れていて、困った。
代わりに、現代朗読のワークでよくやっている「共感的に受け取る練習」としての「ある食事をしているときの感覚にたとえると?」という連想ゲームのようなことをおこなった。

ちなみに、照井数男は来月から数学の研究留学でパリに2年間行ってしまうので、たぶんこれが最後のパフォーマンスだった。
かなり初期によく読んでいた宮沢賢治の作品を朗読してくれたのだが、堪能させてもらった。

次回は11月18日(水)夜の開催です。
詳細と申し込みはこちらから。

2015年10月19日月曜日

終了:小春食堂共感カフェとオープンマイク

昨日は昼ごろからずっと小春食堂にいた(感じがする)。
萩岡真美さんが主催してくれる東松原〈小春食堂〉の共感カフェの2回めだった。
ランチタイムからランチをいただきながら共感的コミュニケーションの勉強会がはじまって、小春食堂のみーちゃんこと黒坂瑞穂さん手作りのスイーツをいただきながらのティータイム、そしてセルフフェイシャルマッサージタイム(これは私は参加しなかったけど)という、とてもお得なイベントだった。

開始時間に参加者がそろわなかったので、ゆるりと自己紹介からはじまったのだが、それがまたおもしろく、制限時間のない「自分を人に伝えるための表現としての自己紹介」をお互いに共感的に聴くという、豊かな時間となった。
そこそこ知っているように思っていた人でも、じっくり聴くと思いがけない側面や事実が判明したりして、びっくりする。
人と人はつながりの質を深め、じっくりと理解しあうことが本当に大切なのだと感じる。

私がいまテーマとしているところの「親密な関係」に問題をかかえていたり、過去の経験に痛みを持っている人がたくさんいて、ここには先日羽根木で合宿をおこなったジム&ジョリのミディエーション(調停・仲裁)のスキルがいっぱい寄与できると感じている。
とくに私の場合、音読療法士で共感的コミュニケーションの勉強会のファシリテーターでもある野々宮卯妙と組むことが可能で、親密な関係へのミディエーションは男女のペアのミディエーターが臨むことが有効だ。
ジム&ジョリもそうだったし、合宿のオーガナイザーである後藤剛&ゆうこ夫妻もそうだった。
もしパートナーとのあいだに問題があり、ミディエーションが必要だと感じている方は、遠慮なく私か野々宮に相談してみてほしい。

共感カフェの後半では、自己共感の練習をしたいというリクエストがあったので、私が考案した「5 steps circle」を使ってみんなで練習してみた。
いろいろと発見があり、おもしろかった。

夜はそのまま小春食堂のオープンマイクに参加。
あいかわらず盛況で、弾き語りの人が多かったが、私は野々宮の朗読と即興ピアノで共演した。
また、真美ちゃんと博子さんの歌の伴奏をした。
ともに知らない曲だったので緊張したが、それも楽しんでやらせてもらった。

共感カフェは今週の金曜日、羽根木の家でも開催する。
興味がある方はこちらをどうぞ。

2015年10月17日土曜日

終了:10月の親密な関係の勉強会

昨夜は「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会を東京世田谷の〈羽根木の家〉でおこなった。
直前まで2、3名の参加申し込みだったので、少人数での開催になると思っていたのだが、当日になって急に何人かの申し込みがはいってきて、キャンセルが出たりもしたのだが、結局全員で8名の勉強会となった。
それでも定員までには余裕があったので、じっくりとやれたのではないかと思う。

共感的コミュニケーションやNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の講座は、いまとても注目されている。
海外から招聘したトレーナーのワークショップなどは、定員50名くらいでもすぐに満席になってしまう。
トレーナーでなくても、知名度のある人の会は20人、30人という規模で開催されることが多い。

いっぽう、私の会は数人から、多くても10人までというものが多い(人気がないというわけではない、と思いたい)。
じっくり個別の問題にも向きあうことができて、私自身はこのくらいの規模の会が気にいっている。
そのために定員もすくなめに設定している。
明日おこなう東松原の〈小春食堂〉の共感カフェも、参加定員を6名に限定している。

昨日の会はひさしぶりのリピーターがひとり、最近リピートして来てくれている人がふたりのほかは、全員私とは初対面の方ばかりだった。
ほかでNVCをまなびはじめた方がいて、熱心に質問してくれた。
その方が感じる疑問は、私にも身の覚えのある当然のもので、できるだけ丁寧に答えさせてもらった。
参加者ひとりひとりへの対応や配慮ができるのも、少人数開催のいいところだ。

ほかに、ご夫婦で来られた方もいらして、うれしかった。
はじめて共感的コミュニケーションに触れる方もいて、前半は共感的コミュニケーションの原理や考え方、事例などをレクチャー。
後半は親密な関係のワークをグループに分かれておこなった。

いつもそうなのだが、親密な関係というのはやはり特別な関係性で、そこでお互いに満たそうとしている、あるいは満たされているニーズはじつに多様で、豊かであり、それゆえにささいなことで齟齬が起こりがちだということに気づかされる。
永続的な関係が安心かもしれないが、実際には関係性は変化しつづけ、そのなかでケアしつづけることが大切だ。
齟齬が起こったときこそ、つながりの質を向上させ、あらたなステージに進むよい機会なのだ。

勉強会の最後は、いったんしめたあとに、先週のジム&ジョリの合宿で学んだミディエーション(調停)のプロセスについて、すこし紹介させてもらった。
みなさん、興味を持って、最後まで残ってくれた。

次回の「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会は、11月13日(金)の夜を予定している。
詳細と参加申し込みはこちら

2015年10月15日木曜日

実家帰省中の写真シリーズ

iPhoneでもきれいに撮れるもんだねえ。
黄金蟹のバラバラ死体。
うまし。

夜明け前の交差点。

廃墟萌えの方へ、どうぞ。

こちらは廃墟ではない。
いまも稼働中の繊維工場。

ホトトギス。

緊縛されたイヌツゲ。
ほんとは雪吊りだけど、早くねえか?

秋の空。
雲。
今日はこれから用事をひとつすませてから、小松空港に移動。
羽田に飛んで、午後は羽根木戻り。
夜はオーディオブック収録製作コースの7回め。

2015年10月14日水曜日

NVCミディエーション合宿の5日間

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)センター国際公認インストラクターであるジム&ジョリ・マンスキー夫妻からNVCミディエーション(調停)を学ぶための5日間の合宿が、羽根木の家とその周辺の施設を利用して開催された。
オーガナイザーは後藤剛&ゆうこ夫妻で、彼らはハワイのジム&ジョリ夫妻宅の隣に住んで彼らから日々学びつづけている熱いNVC実践者だ。
日本のコアメンバーがスタッフとして協力し、私もすこしだけお手伝いした。

合宿は10月7日(木)夜からスタートし、12日(月)昼までおこなわれた(私は最終日は不参加)。
合宿の後半は、ミディエーションスキルを身につけるためのフライトシミュレーターと呼ばれる練習法を参加者全員でみっちりと学んだが、前半はそれをおこなうための素地作りともいうべきNVCについての深い学びにたっぷりと時間がついやされた。

最初は一瞬「いまさら」と思ったのだが、はじまってみると逆に、NVCについて自分の「歯抜け」になっている部分に気づかされ、「いまさら」ながらジム&ジョリの緻密で深いNVCへの理解と教えに感嘆させられた。
それに気づいてからは、一瞬たりとも彼らから目を離せないスリリングで濃厚な時間が積み重なっていった。

だれかとのつながりの質を作るための「共感」のレベルはさまざまな段階があるが、ジムとジョリはそのレベルの深さとその認識・調整の緻密さにおいて、マーシャル・ローゼンバーグとの直接の交流も含めた長年の経験と理解がものをいっている。
それはとても私などにはおよびもつかないような深さと緻密さだ。
しかし、めざしたい方向性はおなじだし、それがはっきりと見えたのは今回の大きな収穫だった。

共感のレベルは、共感的コミュニケーションをまだ習ったばかりの人でも、ある程度の深さまでたっすることはできる。
私も共感カフェや勉強会でそれを推奨していて、とにかくまずはやってみる、使ってみることが大事だと思っている。
その上で、共感のレベルには深さがあり、その深みにたっするには練習と経験による練磨と、自分自身についての理解と共感が必要であることが、ジムとジョリを見ているとよくわかる。
これはやってみる価値のあることだ。

NVC・共感的コミュニケーションの世界では、ひとりひとりが大切にされ、だれひとりとして他人から断罪されたり、命令されたり、非難されることがない、お互いが尊重しあえる関係性をめざす。
だれもが安心して行動し、また表現できる世界をめざす。
そこでは競争も、比較も、上下関係もない。
性差も年齢差も地位も、それが関係性にパワーとして働くことはない。
ジムとジョリのふたりはそのことをまさに「体現」している。
彼らとともにいることが、どれだけみんなに安心をもたらすことだろう。
そのことは合宿参加者の多くが実感していたように思う。

合宿の後半では、フライトシミュレーターの練習がみっちりとおこなわれた。
これはジョン・キニヨンとアイク・ラセターが考案したミディエーションの練習方法で、ある型がある。
その型を練習することで、ミディエーションが身につくすぐれたもので、それをジムとジョリはすこしアレンジしている。

ミディエーション=調停は、対立が起こっているふたりの人間(もしくはふたつのグループ)のあいだに立ち、NVCを使ってもう一度彼らのつながりを取りもどすことを目的としている。
つながりが生まれた時点でミディエーションは終了となる。
まずは調停の場に対立しているふたりを立たせることが必要だが、うまくやれば、調停していることに気づかせないまま対立しているふたりのつながりを取りもどす手伝いをすることも可能ではないか、と私は思っている。
コロンビア人のトレーナー、ホルヘ・ルビオがいうところの「秘密のミッション」だ。
彼はNVCを使っていることを気づかれないままNVCを用いることを提唱している。
私はそのかんがえが気にいっている。

フライトシミュレーターの練習は、途中で1日だけの参加者もまじえて念入りにおこなわれた。
何度も練習できたので、私はおなじグループの参加者の協力をもらって、日常的でフランクな態度でおこなうミディエーションにチャレンジしてみた。
これはなかなかおもしろかったし、思ったよりうまくいった。
可能性も感じた。
ミディエーションはその型も重要だが、それを踏みはずすことなく自分の言葉や身体性に落としこんでいくことも大事だと感じていて、私はそちらの方面に研究と練習を進めていくつもりだ。

この合宿で学んだことの一部は、今後の共感カフェや勉強会でシェアしていけたらと思っている。
まずは明後日・10月16日(金)夜に羽根木の家で開催する「親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会」でシェアしたい。
興味がある方は気楽にご参加ください。
詳細と申し込みはこちら

2015年10月8日木曜日

羽根木NVCミディエーション合宿が始まった

今日から羽根木の家と、その周辺施設を利用しての、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を用いたミディエーション(調停)スキルを身につけるための合宿が始まった。
講師はハワイ在住の国際公認トレーナー、ジム&ジョリ・マンスキー夫妻。
通訳にマーシャル・ローゼンバーグの著書『NVC』の日本語監訳者である安納献をはじめ、長年の経験者が複数人つくという贅沢な布陣で、コーディネーターはやはり夫婦で公認トレーナーをめざしていてハワイのジム&ジョリ宅の隣家に住んでいる後藤夫妻だ。

今日は初日だったが、とても濃密な学びの時間が始まった実感と予感がひしひしとしている。
参加者のNVC経験の深度にはかなりばらつきがあるが、ジム&ジョリの「共感的ありよう」がすべての参加者を深く結びつける磁力になっている。

白状すれば、私は「合宿」のような集団で学ぶ場に自分を置くのがとても苦手で、すぐに逃げだしたくなってしまうのだが、今回は伝えられていること、あるいは経験していることの密度と深さに目を離すことができないでいる。
本当はこれまでのすべてのリトリートやワークショップがそうだったのかもしれないが、私にそれを受けとる能力とスペースがなかったのだろう。

共感スキルについていえば、ジム&ジョリがなんという高みにいることだろう、またこの合宿をサポートしているスタッフ仲間もなんと深い洞察と気づきを持っていることだろう、それに引きかえ、私自身はなんと至らないことだろう、残念な場所で甘んじていたことだろうと、大きな痛みを味わっている。
その痛みは輝かしくもあり、逆に闇につながっているような喪失感もある。

ミディエーション。
調停。
このスキルを身につけられれば、自分の置きざりにしているさまざまなニーズの面倒を見られるかもしれないし、いくらか人のお役に立てるかもしれない。
また、自分の面倒をようやく見られるようになれるかもしれない。

今日やったことのひとつに「激しさの練習」のワークがあった。
自分が聞きづらいことを、あえて練習相手からいってもらい、自分の変化を観察し、自己共感の練習をするというものだ。
たくさんの気づきがあった。

このブログのように、ネットで自己表現をしていると、「つまらない」「嘘っぽい」「ニセモノだよね」といったさまざまなジャッジを投げつけられることがある。
そのとき、私のなかで起こるエモーションにたいする気づきが繊細であれば、自分がなにを大切にしていて、なにが必要なのかが見えてくる。

丁寧に、繊細に、注意深く、そして無防備に進んでいくことが、生きる時間を豊かにしてくれるということを学ばせてくれるチャンスがここにあることに感謝。
明日はあらたに、丁寧に、繊細に、注意深く、そして無防備に、場に臨みたい。
この合宿は月曜日までつづく。

2015年10月2日金曜日

だれになって読むのか/いまここの自分自身で読む

昨日のオーディオブック収録製作コース第6回のテーマは「セリフの扱い/キャラクターと自分自身」だった。
このテーマは現代朗読においても重要で、主要テーマのひとつといってもいい。
端的にいって、
「朗読者は朗読するとき、だれになって読むのか」
という問題だ。

自分に決まってるでしょ、とみなさん思うかもしれない。
本当にそうだろうか。
注意深く観察してみるといい。
夏目漱石の小説を読むとき、あなたは「夏目漱石の小説を読む人」になっていないだろうか。それらしく詠もうとしていないだろうか。
芥川龍之介の『羅生門』を読むとき、「羅生門を読む人」になっていないだろうか。
小説のなかの老婆のセリフに出くわしたとき、「登場人物の老婆」になろうとしていないだろうか。
そもそも、「朗読をする人っぽい自分」になっていないだろうか。
そのとき、あなたは、いまその瞬間の生きて存在しているあなた自身は、自分がその瞬間に感じていること、生きてそこにある感じから遠く離れてしまっていないだろうか。

昨日はちょっとしたエチュードでそのことを参加者たちと検討してみた。
今期のオーディオブックコースで取りあげているテキストは、夏目漱石の『永日小品』のなかの短編「懸物《かけもの》」だ。
その冒頭部分をいろいろに読んでみる。

 1. だれか明確にイメージして、その人物になりきって読んでみる。

小説のなかの登場人物になって読んだ人もいれば、意地悪な老婆になりきって読んだ人もいる。
いずれにしても、そのとき自分がなにをおこなっているのか、どんなことをしようとしてしまっているのかを、できるだけ客観的に観察してみる。
メタ認知能力が必要になる。

 2. 家族など自分のごく身近にいる人をリアルにイメージして、その人になりきって読んでみる。

父親、兄などよく知っている人になって読んでもらった。

 3. いつも朗読している自分の感じになりきって読んでみる。

自分っていつもこんな感じで読んでいるよね、というイメージを再現しながら読んでみる。

これらをやってみてすぐに気づくのは、みなさんそれぞれ、なにかイメージを作ったとき、「そういう身体つき」になっている、ということだ。
ほとんど無意識に身体性を変化させている。
たとえば身体を縮こまらせ、喉をしめ、筋肉を震わせると、老婆になる。

いずれもこういったイメージはすべて「頭のなか」で作りあげた「自分の外側」にあるイメージだということだ。
そこにとらわれているかぎり、自分自身の存在そのものを声に乗せたリッチで複雑な表現はできない。

さて、これらを経て最後にやったのは、いつも基礎トレーニングで練習している「体認」しながら読むという試みだ。
「いま、この瞬間の自分の身体の感じ、自分が受け取っているものを、緻密に注意深く見ながら、たくらみを捨ててただ読む。身体に任せて読む」
そして、ちょってびっくりするようなことが起こった。

たとえば、前期のオーディオブックコースから参加し、今期からゼミ生になった森田くんは、彼が本来持っている繊細で、複雑で、弱さも強さも持ったニュアンスのある声が出てきて、社会性のあるふるまいのなかでは見えてこないような彼の本質的な存在の感触まで伝わってくるような感じがあって、深く感動してしまった。
この感動の瞬間に立ちあえたのは、現代朗読の主宰として本当にしあわせなことだ。
これまでやってきてよかったと思える瞬間だった。
森田くん、ありがとう。
そしてほかの参加者のみなさんもありがとう。

このエチュードはとても有効なプロセスだと思うので、またやってみたい。
このプロセスでまずスタートラインに立ち、そこからクオリティの高い表現者へと深く進入していってほしい。

ハイクオリティのオーディオブック(朗読本)を収録・製作・配信するためのノウハウを学び、トレーニングできる全10回のコースが11月5日(木)夜にスタートします。

2015年10月1日木曜日

市民薄明(常用薄明/第三薄明)

8月末に早起きをすると決めて、9月はだいたい早起き生活に成功した。
目覚ましのアラームを鳴らすのは市民薄明の時間。

私も知らなかったのだが、夜明け前の地平線(もしくは水平線)の下にある太陽の角度がマイナス6度から夜明けまでの時間を「市民薄明」という。
世田谷の私が住んでいる場所のいまの市民薄明は、午前5時9分からだ。
日の出の時刻は5時34分。
日の出までの25分くらいが市民薄明の時間ということだ。

太陽はまだ出ていないが、空が十分に明るく、照明がなくても戸外で活動できる時間帯、という定義だ。
常用薄明、第三薄明ともいう。
これは夕方にもあって、日の入からやはり25分間くらいだ。

市民薄明のほかにも航海薄明(第二薄明)、天文薄明(第一薄明)というのもある。
それぞれさらに6度ずつ太陽が下がった位置になる。

航海薄明は空と水平線の境界が確認でき、かつ、天文航法に必要な星も見える暗さだ。
だから「航海」薄明というらしい。
星が見えても水平線が見えなければ、天文航法は不可能だ。

天文薄明はわずかに太陽光の輻射があるが、空はほぼ完全に暗く、6等星まで見える。
天文薄明より前、あるいは後になると、空は完全に暗く、星明かりだけとなる。

私は市民薄明の、今日なら5時9分に目覚ましのアラームで起床し、夜明けをはさんで1時間くらいを、自分のもっとも大切なアウトプットの時間にあてている。
暗い空がゆっくりと明るくなっていき、やがては(晴れていれば)太陽が顔を出す。
世の中はまだほとんど眠っていて、カラスの鳴き声と新聞配達のバイクの音くらいしか聞こえてこない。
この時間が、私にはもっとも生産性が高いらしい。

9月の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演感想

9月18日に明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉でおこなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の感想を参加のみなさんからいただいたので、一部をご紹介します。

◎まず、久々に聞く「生の音」の力を感じました。響き、というのは、立体的なもので、録音されたものとは全く体験がちがうということ。
水に波紋が広がるように、体の水に響きがありました。コンテンポラリーダンスが好きなのですが、音をきいていると、踊りたいという欲求が動き、ピアノ、声にあわせておどりたくなります。

◎ストーリーをおわなくなると、音にのまれて時間の感覚が消えていきました。もっと長く音にのまれていたかったです。朗読は、自由と意味のあいだを行き来するものだと感じられました。色々な朗読を、きいてみたくなりました。荒れた海、凪いだ海も水平線の海と空の境がきえていて、遠くには弱い光が、光っている星のかんじがしました。

◎今日はありがとうございました。朗読×生演奏の体験は初めてでした。何とゆうか……全てが一体でとても自然に在る、relaxした緊張感が知っている……心地の良さでした。自分の呼吸、感覚がとぎすまされているのにムリのない安心、安定な感覚。。。ステキな瞬間が続く幸せで、もっと、もっと、と思ってしまいました笑。そして、声は音ですね……体液にひびいている感覚を味わっていたいです。

◎卯妙さんの真面目で真摯な生き方を感じる事が出来、深く感動しました。毎日多忙に暮らしている中、ゆったりと感じたり考えたりする時間が持てて良かったです。

◎I want to film the sculptures and light, out of focus, while i listen to piano and voice. I understand Los Angeles and Milky Way.
The last 10 min. my thoughts go dreaming. is she also gonna look at me and touch me, while she does with the sculptures, when she reads up?!
Japanese is only sound to me, no meaning of words!

◎今日は、元々動いてみるように言われていたので積極的に歩き回り音の響きの違いを確かめてみました。その音の違いが非常に面白かったです。聞いていて沸いたイメージは、まず沢山の船がきれいな青い波の少ない海を進んで行くイメージでした。それが段々と暗い闇の中のイメージに代わり、そこに同じように船(タンカーの船団でも艦隊でも漁船でもありません)が進んで行き、段々と星が輝き初め、天の川の中を進んで行くイメージに変わりました。そこに、会場にあった彫刻達も現れ、その後は色々な物が現れました。そのイメージは、死や絶望のイメージではなく希望に溢れるイメージでした。朗読も音楽も身体全体と言うより細胞を揺らす感じでした。
後半の音楽は(会場にいないと分からないけど)「あまつっこ(はねる)」がそこら中跳ね回るイメージでした。「あまつっこ(はねる)」が跳ね回り、新しい平和で希望に満ちた世界を作る希望に溢れるイメージで終わりました。