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2013年9月30日月曜日

2級ボイスセラピスト講座、テレクラスどんどんやるよ

今日は朝から夕方まで、一日、2級ボイスセラピスト講座だった。
今日は奈良からはるばる来た朋美さんと、1級ボイスセラピスト仮取得の知子さん、そして音読療法士の野々宮卯妙。
少人数で楽しくやらせてもらった。

朋美さんは朗読活動もやっていて、私は行けなかったけれど先日の法然院の野々宮と琵琶の片山旭星さんのライブにも来てくれた。
その感想などあらためて聞かせてもらってうれしかった。

音読療法の柱は「呼吸法」「音読」「共感的コミュニケーション」のみっつなのだが、午後最初にやった共感的コミュニケーションは興味をひかれたとのこと。

終わってから、せっかく遠方から来たのだからと、現代朗読のエチュードもいくつかいっしょに体験してもらった。
体認のエチュードをやったり、ピアノの即興と朗読セッションをやったり。
エチュード本にあった「雨ニモ負ケズ」をたまたま読んだのだが、音楽にちゃんと反応してイキイキと読んでくれた。
おもしろかったので、音楽の雰囲気を変えて2度めのセッションに挑戦すると、またまったく違った表現が出てきて、楽しかった。

朋美さんも現代朗読の核の部分に触れて、びっくりしながらもおもしろがってもらえたようだった。
奈良、京都、大阪、神戸、滋賀といった関西でも現代朗読のワークショップやライブ・公演をやりたいね、という話になり、朋美さんにも協力してもらえるとありがたいなと思う。
もちろん音読療法の展開も。

このように、いま東京でしか学んだり触れる機会がない現代朗読も、ネットを通じて地方や自宅にいながらにして学べる方法がある。
テレクラスはゼミや講座も受けることができる。
もちろん隔靴掻痒の感はあるのだが、それを補完すべく現地でワークショップなどを実施してこちらから出張することも可能だ。
まずはテレクラスをおおいに利用してもらいたいと思う。
この利用が進めば、私のほうも東京不在のときも、全世界のどこからでもみなさんとつながることができる。
そのために、私もテレクラスの内容や、受けやすいような工夫をしていきたいと思っている。

現代朗読オンラインクラス(テレクラス)の詳細はこちら

朗読とはなにか

大上段な問いをあえて立ててみたい。
朗読とはなにか。
朗読という行為の目的はなにか。
朗読することによってなにが起こるのか。

このごろ現代朗読協会での講座やワークショップで私がよく話しているのは、朗読には大きくいってふたつの側面がある、ということだ。

ひとつは「伝達」の側面。
人が声を出してテキストを読みあげるとき、そのテキストに書かれている内容が伝わる。
物語であったり情報であったり、言葉であったり、イメージであったり。

もうひとつは「表現」の側面。
大きくいえばこれも伝達の一部なのかもしれないが、伝わるものはテキストの中身ではなく、朗読者そのものについての情報だ。
声音、息使い、緊張やリラックス、リズム、身体の使い方、雰囲気、におい、目配せ、その他さまざまな膨大な情報が聴き手に伝わっている。
これはまさに、朗読者が自分自身を聴き手に伝えている、つまり表現しているということになるだろう。

朗読という行為によってなにを伝えるのか。
テキストの内容なのか、作者の思いなのか、テーマなのか、自分がそのテキストから受け取った(と思いこんでいる)感動なのか。
それとも、いまこの瞬間の自分自身の存在そのものなのか。

現代朗読では、自分の外側にあるものを伝えることではなく、自分の内側と自分そのものを伝えることを大切にしている。
自分の外側にあるものを表現行為に利用はするが、それは取り替え可能である。
後生大事に「作者の思い」だの「テーマ」だのをかんがえすぎないようにする。
結局、朗読すればテキストは伝わるのだし、その解釈は聴き手が勝手にやるだろうし、また聴き手の解釈をこちらが操作することもむずかしい。
ならば、もっとも確かであること、つまり自分自身のいまここにある存在そのものを伝えることに注目し、集中したい、というのが現代朗読のかんがえかたである。

10月の現代朗読体験講座は10月5日(土)14:00から17:00の開催です。
詳細と申し込みはこちら

2013年9月29日日曜日

ソーラー女子の明るい電力自給生活

昨日の夜は羽根木の家で「ソーラー女子の明るい電力自給生活」というイベントが開催された。
主催はGQパワーという市民電力会社の設立をめざしてさまざまな活動をおこなっている団体だ。
トランジション世田谷・茶沢会ともつながっている。
ゲストスピーカーは国立市在住の染織作家の藤井智佳子さんで、公団住宅住まいながら、なんと去年から東京電力との契約を打ち切り、一切電気を買わない生活を送られているという方だ。

どのような経緯で東電との契約を打ち切ることになり、どのような工夫をして生活しているのか、もうおもしろいのなんのって。
まったく悲壮感がないところがいい。
ベランダにソーラーパネルを設置しているほか、節電の工夫のさまざまや自転車式の自力発電などの話をうかがった。

冷蔵庫がないので、食生活にも工夫がいる。
まず肉や魚はほとんど食べないそうだ。
野菜は冷蔵庫にいれなくても、冷暗所に置いて保存する工夫をしている。
また、素焼きの壷を利用した自然冷却装置も使っている。
夜は太陽電池を使った蓄電ランタンなど、室内は暗いが、夜なので暗いのは当然だし、そういう生活にすぐ慣れたという。
簡単な手作りのソーラークッカーでお湯や干し芋を作ったりもしていて、実際に作った干し芋を私もいただいた。

梅雨時は太陽光があまりなくて発電が充分でなかったので、洗濯機をまわすのに自転車式発電機をまわしたそうだ。
また、お仕事の染織で使うアイロンは、昔の人が使っていた炭式のアイロンを使っている。
ミシンは足踏み式。
こういった工夫をどれも楽しんでやっておられているのが愉快だった。
節電のキーワードは「楽しむ」だなと思った。

ほかに参加者として来ていた人のなかにもすごいことをやっている人たちがいて、びっくりするような話がいくつか聞けた。
原発事故におびえながら一見便利な電気をじゃんじゃん使う都市型生活を送るより、楽しみながら節電して東電になるべくお金を払わないですます生活のほうが、よほど楽しそうではないか。
節電によって自分の生活そのものを楽しむことすらできるようになりそうな予感がする。

現代朗読基礎コースが始まった

全10回シリーズの現代朗読基礎コースが、昨日からスタートした。
土曜日の午前10時半から2時間、12月に最終となる約3か月で、現代朗読の基礎を網羅しようというプログラムだ。

初回の昨日は現代朗読と従来朗読の違い、日本における朗読の歴史、表現アートの歴史とコンテンポラリーアートの成立過程、コンテンポラリーアートと伝統的表現の違い、現代朗読がめざすものなどについて、系統的に解説をこころみた。
現代朗読は「放送技術」に辺倒せず、情報伝達ではなく、自分自身を表現し人に伝える手段として朗読行為をとらえている。
そのために表現の原理を朗読行為にあてはめてかんがえ、さらに各自のオリジナリティを保証する手段として身体性にたいする意識を緻密に高めていくことをする。

このために、いろいろなエチュードが用意されている。
エチュードをやりながら、自分の身体と呼吸と声を感受し、それらが連動して働く意識を持つ。
この目的は、表現を「あらかじめ準備され、たくらみや思いこみで作られた」ものではなく、「いまここ」の自分の身体とこころに正直に誠実に沿うことで、まっすぐにオーディエンスにとどきコミュニケートできるものにすることにある。
このことはまた、自分自身に深くアクセスすることでもあり、朗読の練習をする過程で普段の生活も大きく変わったり、日常の風景がちがって見えたりする。

昨日は最初のガイダンスやお互いの紹介、朗読表現の歴史や現代朗読の考え方の確認などに時間がかかったので、エチュードの時間は短めになった。
呼吸法、ハミング発声と身体の震動の確認、体認のエチュードをふたつだけ。
これらはどれも大切な基礎エチュードなので、毎回かならずやることになるだろうし、参加者には家でも毎日やってもらいたいとリクエストしておいた。

基礎コースは10回あり、定員にすこし余裕があるので、昨日の初回に参加できなかった人も2回め以降から参加可能です。
初回の記録音声や映像もありますので、どうぞ。
詳細と申し込みはこちら

2013年9月28日土曜日

沈黙の朗読「記憶が光速を超えるとき」抜粋映像

2013年9月23日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で上演された「沈黙の朗読」の2本立て公演のうちの1本「記憶が光速を超えるとき」の抜粋映像です。
朗読出演は榊原忠美と野々宮卯妙。
作・演出・演奏は水城ゆう。
照明、早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)。
音楽はすべて即興。

2013年9月27日金曜日

表現のクオリティを左右するもの

明日から現代朗読基礎コースがスタートする。
現代朗読という表現方法へのアプローチがギュッと凝縮され、そして表現力を大きく飛躍させるための訓練カリキュラムがギュッとつまったプログラムを用意している。

朗読というと、日本語の発音発声のルールを練習したり、難解な文学作品の読解方法をたたきこまれたり、それにそった厳密なリズムや音程、間合い、呼吸などのコントロールをやらなければならなかったり、といった、とにかく「むずかしい」「とっつきにくい」というイメージを持ってしまっている人が多い。
本来、朗読表現というのは、そこに書いてある文字を読みあげるだけの、だれにでもできるものであるはずだ。
そして実際、現代朗読にはまったく初心者がやってきて、のびのびイキイキと表現を楽しんでいる。

アプローチがちがうのだ。
表現のクオリティを左右するのは、ルールや技術をおぼえることではない。
決まりきった型や、だれかうまい読み手の読み方をなぞることでもない。
自分自身のオリジナリティにもとづいて、いまこの瞬間の自分自身の生命力を最大限に発露することができるかどうかにかかっている。
そのためにもっとも重要なのは、思いこみを捨てて自分の身体に向き合う、ということだ。

朗読はとても敷居が低く、だれにでも取りくめる表現だ。
しかし、その奥行きはとても深い。
初心者は初心者なりにおもしろい表現が可能だし、経験者はさらなる奥行きをめざすことができる。
いずれにしても、向かい合うのは自分自身の身体。
身体というのは、精神や感受性もふくまれている。

現代人はなにかをするときに、自分の身体を意識するということがとても苦手になってしまっている。
朗読という行為は、自分の声と呼吸を用いるものだが、それが自分の身体からもたらされるということを忘れがちになる。
そのことをしっかりと思いだし、身体性を意識し、声と呼吸と全身のはたらきを密にしていくことで生命の輝きそのものを表現する、それが現代朗読のめざすところだ。

明日から基礎コースがスタートするが、定員に多少余裕があるので、明日は来れないという人も次回以降の合流参加も可能です。
詳細はこちら

ママカフェ、共感的コミュニケーションの勉強会

昨日の午前中はママカフェこと「お母さんのための音読カフェ」が羽根木の家で開催された。
私は横っちょで仕事しながら、耳だけ参加。
今回もKAT手作りのケーキをいただきながら(私もお相伴にあずかる)のお茶会もあって、なごやかで安心できる場になっていた。

終わってから、藤沢さんと、午後の共感的コミュニケーションの勉強会にも出ることになった尾間さんと、三人で東松原でランチ。
ママカフェからはもうひとり、午後の勉強会にも出てくれることになった。

共感的コミュニケーションの勉強会・昼の部を午後3時からやる。
遅刻された方が多く、そのことを共感的コミュニケーションでどのように扱うのか、実例として取りあげたりした。
また、本当は自分のやりたいことがあるのに、人と約束があったり人の目や評価や社会的なしきたり・ルールを気にして遠慮したり、自分を押し殺してしまう習性について、どう対処していけばいいのかもかんがえたりした。

夜の部は午後7時から。
Hangoutでドイツからボイスセラピストの遠藤さん、そして大阪からやはりボイズラピスとの玻瑠さんが参加。
最初に、共感的コミュニケーションを身につけると毎日が平穏無事になる、と思っているかもしれないが、そうではない、平穏無事をめざすのではなく、さまざまな出来事が次々と起こる人生をイキイキと自分らしく、自分と相手を尊重しながら生きていく方法を身につけるのが共感的コミュニケーションなのだ、ということを話す。
夜の部も具体例にもとづいた実践的な共感的コミュニケーションのプロセスを解説したり、実際にやってもらったり、精査したり。
また、人は自分の感情を無視したり、押さえこんだり、また感情に気づかないふりをすることを身につけてしまっていることがある、ということについてもいっしょにかんがえてみた。

共感的コミュニケーションの来月10月の勉強会は31日に開催します。
詳細はこちら

2013年9月26日木曜日

オーディオブックリーダー個人セッション、韓氏意拳

昼すぎからオーディオブックリーダー養成講座の個人セッション。
今日来られた方はプロの声優とかナレーターではなく、それをめざして勉強中の方だったが、そのためにじつにさまざまな養成所や講座、個人レッスンを受けてこられたとのことだった。

個人セッションを受けに来る方にそういう人が多いが、アイ文庫では「表現作品としてのオーディオブック」の製作をおこなっている。
一方、養成所や講座などでおこなっているのは、「放送技術」としての日本語伝達技術がほとんどを占めている。
これが「表現」をいちじるしくさまたげるのだ。

技術はもちろん大切なのだが、技術偏重は個性=表現者のオリジナリティを大きく損なう。
その人がその人であるゆえんを見つづけ、オリジナリティを確固たるものにする身体性や絶え間ない自身の変化にいかに注目していけるか。
そのことをアイ文庫ではオーディオブックリーダーにお願いしている。

今日の方はその考え方を理解し、共感してくれたように思えた。
今後1か月くらい、現代朗読のゼミ生扱いとして朗読表現を学んでいただく過程で、どれだけ唯一無二の表現者としての道筋を確保していってもらえるか。
私も手抜きすることなく、全力で付き合っていくつもりだ。

私のおこなっている個人セッションに興味のある方は、こちらをご覧ください。


夜は中野まで行き、韓氏意拳の稽古。
下北沢から渋谷、新宿を経由して、中野へ。
たいした移動ではないが、夕方の退勤時間帯は人の流れがものすごく、かなり緊張する。

今日はいつもの形体訓練からスタートして、摩擦歩と技撃椿の一部を稽古した。
摩擦歩も技撃椿も私は初めてだった。
動作は違っていても、内容はおなじで、運動の条件が満ちる「状態」にはいっているか、身体がまとまる方向に向かっているか、全身が運動の状態に指先から足の裏まで通っているか、など、精査しながら稽古した。

ひとりで稽古していてもわからないことが、先生に軽く手をそえてもらうだけで自分がそれらの状態ができている、できていないというのがたちどころに明確化する。
私は音楽にしても小説にしても、ずっと独学でやってきたが、独学では進めないこともあるのだということを、いま実感している。
そして自分を導いてくれる人がいるということがどれだけありがたいことか、生まれて初めてといっていいほどいまさら実感している。

私がことあるごとに韓氏意拳のおもしろさをみんなに話しているので、羽根木の家で体験会をやれたらいいのではという流れになり、内田秀樹先生にお願いしてみたら、こころよく引きうけてくれた。
11月と12月に私の知り合いを中心に羽根木の家での体験講習会を開催してもらえることになった。
体験だけでなく、本格的な支部講習会が羽根木でできるようにしたいというのが、もっかの私の野望だ(笑)。

2013年9月25日水曜日

特別なことをやっているつもりはないが、現代朗読は

このところ体験講座や個人セッションなどでやってきた何人かから立て続けに、
「朗読ってむずかしい」
という固定観念を持ってしまっているという話を聞いた。
なぜむずかしいという思いこみを持ってしまったのか、よく聞いてみると、
「こう読まなければならない、こう読んではいけない、アクセント、滑舌、日本語の正しい発音などおぼえなきゃならないことが多い」
といった理由で、むずかしいと思いこんでいるようだった。

その方たちは養成所や朗読教室で朗読を習ったことがあるのだが、なにか読むたびに、
「そうではなくて、こう」
「それはだめ」
「こう読まねば」
といった指導をこまかく受けて、朗読はむずかしくて面倒なものだ、という印象を持ってしまったという。
なかには朗読をしようとすると緊張のあまり身体がこわばってしまう、という人までいた。
悲しいことだ。

現代朗読においては、「こうしなければならない」とか「こうしてはならない」というものは一切ない。
自分のやりたいようにやることが求められる。

これはしかし、好き放題やることとは違う。
自分がどうしたがっているのか、自分の身体がどう動きたがっているのか、いまこの瞬間自分はどのように読みたがっているのか、身体の声に耳をすまし、自分自身の深い部分から出てくるものにたいして誠実に、正直に、そして緻密に反応していく。
これはそう簡単なことではない。
しかし、むずかしい、という言葉とはちがう。
私たちは普段、たえず自分自身の身体の声を聞いているのだが、無意識にそれを押さえつけ、ねじまげる癖を身につけてしまっている。
そのことに気がつき、ただやめるだけだ。
自分自身を疎外している意図的な企みを捨てる。

そのように自分に正直になっていけたとき、そこには大きな自由と喜びがある。
朗読ってこんなに楽しい! と気づいてとたんに活気づいてくる。
こういうことは朗読にかぎらず、人の生きることのすべての基本であり、特別なことではないと私は思っているのだが、ちがうだろうか。
現代朗読以外の、従来の朗読のほうが、よほど特殊なことを強いているような気がしてならない。

現代朗読を気軽に体験できる体験講座の次回開催は10月5日(土)午後。
詳細と申し込みはこちら

水城ゆう音楽塾、10月の開催のお知らせ

しばらくお休みをいただいていた水城ゆうの音楽塾ですが、10月から再開いたします。
初めての方もリピーターも参加しやすい内容になるよう、工夫をしたいと思っています。
どなたも気楽にご参加ください。

音楽塾では学校で習う音楽でもなく、音大で習う音楽でもなく、ジャズスクールで習う即興でもなく、私なりにこれまでの音楽研究と活動を通じて独自に獲得してきた知見をもとに、音楽の本質そのものにズバリと切りこんでいきます。
同時に、特別な訓練を受けていない人も音楽を楽しんだり、オリジナルな即興演奏をできるようにする道筋を示します。

◎日時 2013年10月27日(日) 18:00〜20:00
◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    世田谷区羽根木1-20-17
◎定員 10名
◎参加費 2,000円(現代朗読ゼミ生は無料)

◎お申し込みはこちら

こんな方におすすめです。
・従来の反復練習をせずに自分なりに音楽演奏を楽しみたい。
・耳覚えのある好きな曲をすぐに弾けるようになりたい。
・歌の伴奏をその場でつけられるようになりたい。
・朗読と即興セッションをやりたい。
・アンサンブルを楽しみたい。
・知っている曲を自分なりにアレンジしてみたい。
・オリジナル曲を作ってみたい。
・音楽について理解を深めたい。

沈黙の朗読「特殊相対性の女」抜粋映像

2013年9月23日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で上演された「沈黙の朗読」の2本立て公演のうちの1本「特殊相対性の女」の抜粋映像です。
出演は野々宮卯妙の朗読と、群読が唐ひづる、KAT、山田みぞれ、高崎梓、町村千絵。
作・演出・演奏は水城ゆう。
音楽はすべて即興。

2013年9月24日火曜日

バラさん帰名、収録実習、沈黙映像編集

 昨日、「沈黙の朗読」公演の2本立てが終わって、今朝はなんとなく目覚める。
羽根木に泊まっているバラさんのために早めに羽根木に行って、コーヒーをゴリゴリひいて淹れ、ゆっくりいただく。
いろいろな反応があったけれど、あらためて私としては大きな挑戦だったと思うし、つぎのステップへと進む重要なイベントだったと感じる。
そのことについて静かに祝福しよう。

お昼には名古屋で仕事がはいっているバラさんを送り出す。
午前11時すぎ、オーディオブックリーダー養成講座を受講中の矢野さんの最終収録実習。
矢野さんは岐阜在住だが、昨日から上京されて、「沈黙の朗読」もご覧いただいた。
感謝。

収録実習では夏目漱石の「火事」という短編を使ったのだが、収録しながら聴いていて、私が提示した練習方法にとても真摯に取り組んでおられたことがわかった。
大変表現力を大きくのばしてこられて、ちょっとびっくりした。
なかなかこういう人はいない。
が、それはそれとして、スキルアップのために微細な欠点やテクニックについてのアドバイスをさせていただいた。

新幹線まで時間があるというので、野々宮もいっしょに下北沢まで歩いてランチに。
お店でも食事しながら、ゆっくり話ができた。
オーディオブックに限らず、朗読のライブ表現や、共感スキルのことなど、興味を持ってもらえてありがたかった。

羽根木にもどり、昨日の「沈黙の朗読」記録映像の、まずは「特殊相対性の女」から編集作業をする。
今回はカメラが3台、音声レコーダーが1台だったので、4トラックで作業をすすめた。
通常、数日かかる作業を、だいぶ慣れてきたのと、カメラ数が3台と少なかったのとで、がんばってなんとか夕方にはほぼ終了。
現在、レンダリング中(これが時間がかかる)。
これをさらに抜粋して、YouTubeにUPする予定。
明日にはやれるかな。

明日は昼にふたたびオーディオブックリーダーの個人セッション(初めての方)と、夜には韓氏意拳の稽古がある。

うひょーこりゃ便利「iPhoneの辞書機能」

みんなは知っているのだろうか、私は知らなかった。
iPhoneの辞書機能にこんなのがあった。
入力した特定の文字を範囲指定すると、メニューのなかに「辞書」という項目があらわれ、選ぶと英和/和英辞典や大辞林が立ちあがって、訳や意味を教えてくれる。
ひょっとして iOS 7 からの新機能?

とりあえず、英文を読んだり、英文のメールを書いたりするときに、かなり重宝しそう。

沈黙の朗読公演2本立て、終了

2013年9月23日、月曜日、秋分の日。
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて「沈黙の朗読」の2本立て公演が終わった。
午後3時から「記憶が光速を超えるとき」を、午後6時から「特殊相対性の女」を上演した。

「記憶が……」に出演の榊原忠美氏は名古屋から22日夜、東京入りして羽根木に宿泊。
23日の朝、世田谷代田の〈らくだ珈琲〉でいっしょにコーヒーを飲んでから、午前10時、会場入り。
「特殊……」に出演する野々宮やゼミ生、スタッフのてんちゃんも集合して、会場準備。
平台を積んでステージをセッティングしたり、客席をならべたり。
会場の早川くんがセッティングと照明をやってくれる(助かる!)。

すこしだけリハーサルをやってから、昼はそれぞれのんびり待機。
午後2時半、「記憶が……」の部、開場。
今回、三連休の最終日ということがあったのかなかったのか、集客に大変苦労したのだが、それでも初めての方を含むお客さん大勢においでいただいて感謝。

午後3時、開演。
「記憶が……」は榊原氏に野々宮卯妙がすこしからむ構成になったが、その段取りは当日になっておこなわれた。
榊原氏の朗読・演技はもちろん期待どおり、期待以上のものだったが、からみの部分もおもしろい化学変化を起こしていた。
私はステージと正対する位置にキーボードを置いて演奏。
一番楽しんでいたのは、たぶん私。

午後5時半、「特殊……」の部、開場。
2公演を通しで観ていただいた方が何人もいらして、感謝。
沈黙シリーズとはいえ、まったく内容のちがう演目をそれぞれ味わっていただいてたらよかったと思う。

この演目は最後に生卵を落下させるという段取りがあったのだが、それをどこに落とすかということが問題になった。
ホールの床にそのまま落とすわけにはいかず、平台の上にも落とせない。
そこで床にリノのシートを敷き、その上に落とすことになった。

午後6時、開演。
野々宮の朗読に現代朗読のゼミ生5人——唐ひづる、KAT、山田みぞれ、高崎梓、町村千絵が群読でからむ構成。
こういう形でやるのは私も初めてだった。
実験的な試みだったが、観てくれた方、そしてゼミ生たちの反応もさまざまで、おもしろかった。
私としてもいろいろ感じるところがあったが、いずれにしても私も出演者のひとりとして演奏するのをしっかりと楽しませてもらった。

ちなみに、いつもそうなのだが、演奏はすべて即興だというと驚かれる。
プロの音楽家もいらしていたのだが、やはり驚かれたようで、おもしろかった。
私にしてはめずらしく譜面立てを立てて演奏していたのたが、そこに置いてあるのは朗読台本なのだった。
楽譜は一切使っていない。

これら2公演は映像記録があるので、近いうちに編集してある程度様子がわかるようになんらかの形で公開したいと思う。
みなさんからいただいた、あるいはこれからいただくかもしれないさまざまな声、反応は、すべて私たちの糧としてさらなる研鑽を積んでいきたいと思う。
ご来場いただいた方、来れなかったけれど気にかけていただいた皆さん、どうもありがとうございました。

2013年9月23日月曜日

読むとき噛んでしまうことについて(2)

以下、「噛まない名人」の野々宮卯妙(たまには噛むけど)に確認しながら、噛まないための訓練についてまとめてみた。

「噛む」あるいは「読み間違える」ということが起こるとき、たいてい読み手は文章や言葉の「意味」にとらわれ、思いこみをしている。
「走ってる」と書かれているのに「走っている」と書いてあると思いこんでいて、その読もうとして、読む瞬間に読みまちがいに気づくのだが、訂正が間に合わず、噛んでしまう、というようなことが起こる。
あるいは間違っていることにすら気づかず、思いこみのまま読みすすめてしまう、ということもある。

人は「意味の動物」なので、文字面だけを正確に読みとろうとしても、意味にとらわれてまちがえてしまう。
読み間違えない訓練方法としては、意味にとらわれず文字面を正確に読みとる練習をすればいい。

野々宮がやっているのは、文章を逆から読む、というものだ。
「我が輩は猫である」を逆から読むと「るあで猫は輩が我」となる。
まったく意味をなさなくなる。
意味をなさない文章を、それでも正確に読みあげる練習をする。
意味ではなく、文字記号としての注意深さを養うのだ。

噛んだり読み間違えたりするのは、結局のところ集中力に欠如や不注意から起こる。
意味にとらわれてこう書かれているはずだ、と注意をおこたって読んでしまうのは、ようするに自分が読むという行為に効率を持ちこみ、楽をしようとしているからだ。
私たちは資本主義社会・効率主義社会で教育を受け、育ち、生活しているために、骨の髄までものごとを効率よく処理して自分は楽をしよう、という態度がしみついている。
そのことを朗読という表現行為に持ちこまないようにしたい。
表現が効率で支配されることほど貧しいことはない。
自分がなにをしようとしてしまっているのかに気づき、襟をただし、高度な集中と注意を向けて目の前のテキストに対峙する。
その姿勢を持つだけで、噛んだり読み間違えたりすることは格段に少なくなるだろう。

梅ヶ丘THE生エンタから沈黙の朗読へ

昨日は街の音楽祭〈梅ヶ丘THE生エンタ〉に出演してきた。
梅ヶ丘北口にあるレストラン〈GILLIA〉が会場。
去年オープンしたという新しい店で、私が梅丘に住んでいたころにはなかった。
こじんまりしたアットホームな店で、近いうちにイベントとは関係なしに行ってみよう。

午後2時すぎにげろきょメンバーと梅ヶ丘駅で待ち合わせて店に行くと、生エンタ主催者の真藤さんとスタッフの人たちが音響のセッティングをされていた。
かなり古いKORGの電子ピアノが持ちこまれている。
あまり弾き良いとはいえないが、自分で楽器をかつぎこまなくてすむのは助かる。

午後3時からファーストステージだが、お客さんが来ない。
ピアノを弾きながら朗読と遊んでいると、お客さんが来たので、そのまま野々宮とセッションをはじめる。
そしてそのままファーストステージ。

今回のセットリストはつぎのとおり。

1. 宮本菜穂子。夢野久作「田舎の事件」
2. 福豆々子。国木田独歩「武蔵野」から
3. 植森ケイ。吉田兼好「徒然草」から
4. 山田みぞれ。中谷宇吉郎「イグアノドン」
5. てんトコロ。中島敦「かめれおん日記」から
6. 野々宮卯妙。「日本国憲法」前文〜水城ゆう「鳥の歌」
7. 憲法九条〜全員参加「祈る人」

まあみんな自由すぎる(笑)。
私もびっくりするほど自由奔放だったり、しっとりだったり、深みがあったりと、お客さんが少なかったけれど、げろきょゼミ生の実力を存分に味わうことができた。
これからどのように深化していくのか、楽しみだ。

そして今日は「沈黙の朗読」の2本立て。
連休の最終日のせいか、これもまたお客さんが少ない。
赤字はやむをえないが、名古屋から昨夜上京している榊原忠美の「記憶が光速を超えるとき」と、野々宮卯妙とげろきょゼミ生による「特殊相対性の女」のどちらも、非常にスリリングな、現代朗読の、いや朗読表現の最高峰といえるパフォーマンスになること間違いないものを、多くの人にご覧いただけないのはちょっと残念。
ご都合のつく方はぜひ目撃しに来てください。
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて午後3時からと午後6時から、それぞれの演目が上演される。
詳細はこちら

2013年9月22日日曜日

読むとき噛んでしまうことについて(1)

オーディオブックリーダー養成講座を受講中の方からつぎのような質問が来た。
「意識しすぎるからなのか、まだまだトレーニングが足りないからなのか、その両方なのか、いざ自分で本番と決めて通し読みをすると、どうしても最後まで一度も噛まずに読めたことがありません。今やっている司会の仕事の方も、絶対噛んじゃいけないと意識していればしている時ほど噛んでしまいます。こういうのは、やはり練習なのでしょうか? 実際緊張をすごくするというわけでもないのですが、なかなか上手くいきません。何か対処方があれば知りたいです」

まずいいたいのは、私たちは人間であってロボットではないのだから、かならず間違ったりミスをおかすことがある、ということだ。
朗読にしても司会にしても、「間違ったらどうしよう、噛まないようにしなきゃ」とかんがえながら行なうのと、「間違えることもあるよね、噛むこともあるかもね」と自分がミスすることを受容しながら行なうのとでは、どうちがうだろうか。

いうまでもなく、前者の身体には不要な緊張が生じている。
「噛まないようにしようとすればするほど噛んでしまう」
という現象はそのために起こる、いわば必然といっていい。
後者には不要な緊張はない。
結果的に噛みにくくなる。
自分にミスすることを許せば、ミスは少なくなるのだ。

私たちは「ミスをしないように気をつける」という教育を受けてきた。
それはすべての場面において無効だとはいわないが、そのマインドが人の能力を低下させることがある以上、その考え方を手放すことも必要だ。
「人はミスをするもの。自分もミスをする。そのことを受け入れ、ミスしたときにどのように対処すればいいのか準備しておく」
オーディオブック収録のときに間違えたら、とめてとりなおせばいいのだ。
司会のときも間違えたら、そのことをごまかさず、とりつくろわず、正直にふるまえばいい。
正直な人を相手にするとき、たいていの人は相手を受け入れるものだ。

もっとも、噛まない、読み違いをしないための技術訓練方法がないわけではない。
それについては項をあらためる。

2013年9月21日土曜日

体験講座、ヨガお試し、特殊相対性最終稽古

今日は現代朗読の体験講座があった。
一般参加の方は少なかったのだが、オーディオブックリーダー養成講座の受講生やゼミ生が加わって、けっこうにぎやかな感じになった。

今日の体験講座はいつもとはすこしアプローチを変え、と
にかく自分の身体を緻密に感受することで読みがどのように変わるか、あるいはどのような感じがするのか、体感してもらうことを中心にしてみた。
参加者の話を最初に聞いたとき、朗読というのは「こうしなければならない、こうしてはならない」ということが多くてとても難しい、という印象を持ってしまっている人が多いのがわかった。
それはなぜだろう。
いま、おこなわれている朗読のほとんどが、放送技術を根拠とした「伝達」を目的としたものになってしまっているからだろう。
しかし、朗読は本来、「表現」のひとつの方法である。
「表現」である以上、なにをどのようにやってもいいはずだ。
自分はどうやりたいのか、どういうふうに読みたいのか、動きたいのか、沈黙したいのか。
それらはすべて完全に朗読者の自由であるはずだ。
最後は多少なりとも、朗読表現の楽しさを感じてもらえたらよかった。

体験講座のあとは、ヨガ・インストラクターでもあるフリーアナウンサーの植村さんによる、ヨガお試し講習。
すごくかさばる何枚ものヨガマットを持参していただいた。
それらを羽根木の家の畳の部屋に敷いて、ヨガ講習の始まり。
最初はかなりハードなポーズと動きで、全然ちゃんとできていない感があるのだが、とにかくやってみる。
滝のような汗をかく。
後半は動きが静まって、全身がリラックスしていく。

ヨガと朗読、あるいは音楽、瞑想、これらはとても親和性が高いように感じる。
いずれもマインドフルネスと、自分の身体性と向き合う作業だからだろう。
近いうちにヨガを取りいれたワークをやれるとおもしろいと思う。

そういえば、韓氏意拳の教練講習会を羽根木の家でやれるかもしれない。
韓氏意拳、ヨガ、フットセラピー、共感的コミュニケーション、アレクサンダーテクニーク、など、さまざまな身体運用技術が羽根木の家に結集してきて、おもしろい。

夜は「沈黙の朗読——特殊相対性の女」の最終稽古。
いいものになったと思う。
が、予定されているお客さんはとても少なくて残念。
いずれこの形であらためて再演できるといいのだが。

現代音楽と現代朗読の怪しい夜@中野〈Sweet Rain〉のお知らせ

中野のジャズライブバー〈Sweet Rain〉で現代音楽の作曲家、演奏家たちと、現代朗読パフォーマー野々宮卯妙および水城ゆうが出会う、スリリングな企画ライブをおこないます。

◎日時 2013年10月16日(水)20:00スタート
◎場所 中野〈Sweet Rain〉
◎料金 2,500円(飲食代別)

 予約先:Sweet Rain(03-6454-0817)または現代朗読協会

◎コーディネート 中村和枝
◎出演
 野々宮卯妙(現代朗読)
 村田厚生(トロンボーンほか)
 石塚潤一(ピアノほか)
 木下正道(作曲ほか)
 水城ゆう(ピアノ、作曲、テキスト)

この企画は現代朗読と交流があった現代音楽のピアニスト・中村和枝さんを軸に、おたがいの接点でなにかおもしろいことができないか、ということで決まりました。
今回、残念ながら中村さんは演奏には参加されませんが(ご自身のコンサートを控えているため)、音楽と朗読のコンテンポラリーの世界が初めて交点を結ぶスリリングな内容となるでしょう。
ここからなにが生まれるのか、だれも聴いたことのない音の世界をご期待ください。

自分の音楽、音を楽しむ

現代朗読協会を主宰している私自身は朗読しないのだが、公演やライブのときには音楽演奏で共演することが多い。
たいていはピアノを弾いたりシンセサイザー/キーボードを弾いたりする。
ピアノがなかったり、大型楽器を持ちこめなかったり、電源がなかったりするときは、鍵盤ハーモニカを吹くこともある。
いずれにしても、即興演奏で朗読と共演する。

演奏家が朗読といっしょにやるというと、ほとんどの場合「伴奏」になってしまうものだが、私は伴奏はしない。
あくまで共演者として朗読者と対等に音でコミュニケートする。
したがって、本番になるまでなにが起こるか、どんな音になるのか、まったく予想できない。

朗読と共演したあと、お客さんから訊かれて「全部即興ですよ」と答えると驚かれることが多い。
しかし事実なのだ。
楽譜に書いてあるメロディはひとつもないし、用意されたフレーズもない。
朗読者の発する声、そのリズム、音色、ときには言葉、そして観客、ライブ空間、外部から侵入してくる音、私自身の身体のなかで起こっている事件、そういったことに反応し、その場で音ができていく。

私の音はほとんどコントロールされていない。
自分の身体が「こう行きたい」という道すじをしめし、私はただその上をたどっていくだけだ。
その散歩(ときには駆け足であったり疾走であったりもする)はこの上なく楽しく、生きていることそのものであり、私がたどっている音の道すじは私の生命の発露そのものであるといっていい。

通常、音楽を学ぶ/練習するというと、ある一定の型をなぞり、繰り返し繰り返しそれを練習し、型とおりの音が出せるように反復訓練することを指す。
その方法はすでに19世紀以前のものであり、現代における音楽演奏の習得にはまったく別の方法があると私はかんがえている。
それは自分の音をさがし、自分のスタイルで演奏し、自分の生命力そのものを発露するための表現を鍛える方法だ。
従来の音楽教室や個人レッスンでおこなっている習得方法では、自分らしい、自由で豊かな生命力に満ちた演奏を身につけることはできない。

明日22日(日)は「梅ヶ丘THE生エンタ」で、明後日23日(月/秋分の日)は「沈黙の朗読」2本立て公演で、それぞれ朗読と共演することになっている。
自分のなかからどんな音が出てくるのか、共演者たちとどんな音空間を作れるのか、観客とどのようなものを共有できるのか、たぶん生まれるであろう豊かな空間と時間の体験を想像して、いまから楽しみでしかたがない。

2013年9月20日金曜日

全身が読むことに恊働したとき朗読表現は飛躍する

人が生きて表現することのクオリティを保証するものはなんだろう。
たとえば私たちだれもがやっている「歩く」という行為。

私たちはぶらぶら歩いたり、あるいはどこかに行くために急いで歩いたりするとき、その全身運動にたいしてほとんど意識していない。
なにかかんがえごとをしていたり、スマホをいじっていたり、きょろきょろしていたり、その間、自分の身体があることをすっかり忘れている。

それでもちゃんと歩けるのだから、身体はえらい。
運動機能をつかさどっている小脳や神経組織が、複雑なコントロールと情報収集、情報交換をすばやく、超並行処理でおこなってくれているおかげだ。
大脳はほとんどそのことを意識せずにほかのことをしていられる。
しかし、いったん「歩く」ということを意識したとき、人はどうなるだろうか。

よほど訓練された人でなければ、歩くことを意識し、意識的に歩こうとした瞬間、とたんにぎくしゃくと不自然な動きになるだろう。
たとえばあなたが大勢の観客のいるステージの上にあがって、ステージの端から端まで歩いてみせる、ということを想像してみたらいい。
ほとんどどうやって歩いていいかわからないくらい、ぎこちない運動になるだろう。
しかし、役者やダンサーやステージ慣れしている人は、ふだんのように、あるいは「歩くことを見せるための表現のクオリティとして」歩くことができる。
これはどうやっているのだろう。

いうまでもなく、歩くという運動にたいしてすみずみまで意識が行きとどき、自分がなにをどうやっているのかきちんと体認できているから、そうできるのだ。
しかし、それをコントロールしようという大脳皮質の傲慢さを許さないほうがいい。
それについては長くなるのでここでは書かないが、とにかく自分の身体がおこなっていることをただ見る、知る、意識する、任せる、邪魔しない、ということができるかどうかが問題だ。

朗読もそうだ。
朗読という表現行為はことばを発する。
口まわりや口中の筋肉・神経を精妙に使い、複雑な発音をしている。
どうじに声帯をふるわせ、呼吸を使い、姿勢も変化している。
そのような複雑で精妙な「運動」について、朗読者がどこまで体認できているか。
さらにいえば、読むという朗読行為に全身くまなく協力して参加し、最高のクオリティを発揮することにたいして、自分自身が邪魔をし損なっていないか。

自分の全体を緻密に体認し、声を発する、ものを読むという行為に全身を恊働させられるかどうか。
ここへの意識と方法を練っていくことで、朗読表現のクオリティは飛躍的に高まっていくことがわかっている。
この方法を伝える現代朗読の体験講座が、明日9月21日(土)14時から開催される。
興味があるかたはこちらからどうぞ。

2013年9月19日木曜日

この3連休は現代朗読で

あさってから世間は三連休らしい。
現代朗読協会は三日間とも予定が詰まっている。

土曜日、午後2時から朗読体験講座。
連休のせいか、参加者少数。
いまからでも参加歓迎。
詳細はこちら
午後6時から「沈黙の朗読」の最終稽古。

日曜日、午後3時からと4時からの2回、「梅ヶ丘THE生エンタ」に何人かで出演。
梅ヶ丘北口の〈GILLIA〉というレストランが会場らしい。
ピアノがないので主催者側が持ちこむらしいが、たぶん電子ピアノだろう。
詳細はこちら

月曜日はいよいよ「沈黙の朗読」の2本立て公演を明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて開催。
お客さんがまったく集まっていないのだが、まあなんとかなるだろう。
おいでいただけると歓喜。
詳細はこちら

今日はこれから夜ゼミ。
さっき、昼ゼミが終わってから外に出てみたら、みごとな中秋の名月が東の新宿の上あたりにくっきりとあがったところだった。

もうすぐ音楽祭「梅ヶ丘THE生エンタ」

ライブ・公演がつづいている。
次の日曜日は「梅ヶ丘THE生エンタ」、翌月曜日は「沈黙の朗読」の二本立て。

「梅ヶ丘THE生エンタ」は去年も出演した。
去年は梅ヶ丘駅南側にある〈テイク・ファイブ〉が会場だった。
今年は北口のほうのレストラン〈GILLIA〉が会場。
私たち現代朗読協会(げろきょ)は、22日(日)の15時と16時の2回、ライブ出演の機会をもらっている。

二日間にわたって地元で開催される梅丘の音楽祭で、1,500円のパスポートでどのライブも見放題。
げろきょは翌日「沈黙の朗読」公演があるので22日しか出られないが、23日も個性的なユニットがあれこれ出ているようで、興味のある方はぜひのぞいてみてほしい。
23日は梅丘から明大前に移動して、「沈黙の朗読」をぜひどうぞ。

出演者と演目紹介(現時点での予定)。
宮本菜穂子。夢野久作の「田舎の事件」からみじかいものを読む予定。
福豆々子。この人は地元民。国木田独歩の「武蔵野」から抜粋して読む予定。
植森ケイ。吉田兼好の「徒然草」から抜粋して読む予定。
山田みぞれ。中谷宇吉郎のエッセイ「イグアノドン」を読む予定。
てんトコロ。中島敦の「かめれおん日記」から抜粋して読む予定。
野々宮卯妙は「日本国憲法」の前文から水城ゆうの「鳥の歌」へとつづけて読む予定。
最後は野々宮による憲法の九条から、全員参加での「祈る人」を現代朗読のフリースタイルで読んで、これでおそらく時間いっぱい。

コミカルなものからシリアスなものまで、音楽ライブのように楽しめる現代朗読ライブを、気軽に観に来てください。
梅ヶ丘THE生エンタの詳細はこちら

2013年9月18日水曜日

オリジナルTシャツ、沈黙の朗読照明プラン、韓氏意拳

気持ちのいい初秋の一日、しかし朝からフェイスブックの知り合いの書きこみなどを読んでいたら、一昨日京都法然院に行けなかったことがまたまたじわじわと悔しくなってきて、落ちこむ。
がんばって自分に共感して、いま必要なことはなんだろうとかんがえる。
楽しみ、表現、ものづくりのニーズ。

昨日ちょっとやってみたオリジナルTシャツ作りのつづきをやってみる。
今日はげろきょTシャツと韓氏意拳Tシャツというのを作ってみた。
プリンターで出力したものを、熱したアイロンでTシャツに押しつけて転写するのだが、かなりの時間と力が必要。
説明書きには「全体重を乗せて押しつけよ」と書いてある。
しかも、何度も何度も紙の上を行ったりきたりさせなければならない。
こんなの何枚もできるもんじゃない。
すくなくとも手作業では。
それに、絵柄のまわりの余分なところはハサミで切りとっておかなければならないのに、それを忘れていて、ちょっと失敗。
まあしかし、すこし楽しかった。

やや元気が出たところで、キッド・アイラック・アート・ホールの早川くんに渡す「沈黙の朗読」の照明プラン作りに取りかかる。
これもまたかなり時間と力が必要な作業。
といっても、力は物理的な筋肉の力ではないけれど。
夕方までにおおむね仕上げることができた。

夜は中野へ韓氏意拳の教練講習会へ。
今日は形体訓練と基礎試力をみっちりとやる。
いつものように自分の身体の声を聴くことに集注する2時間半、終わったらかなりの疲労感(悪い感じではない)。
手を動かすときに、それが「身体と合う」ということについてほんのすこし観ることができるようになったような気がする。
左右試力において、重心や身体の軸、ひねり、状態の密度が動的に変化しているのを感じながら動くということが、おもしろく感じられた。

自分を悼む技術

なにか悲しかったりつらかったり、ものごとがうまくいかなかったとき、どのように対処したらいいだろうか。
身近な具体例があるので、それを紹介する。
つまり、私のことだが。

一昨日、私は、京都・法然院で琵琶奏者の片山旭星さん、現代朗読の野々宮卯妙とともに、ライブ演奏をおこなうはずだった。
そのために音源の仕込みや演奏機材の準備を万端ととのえ、京都に行くことを楽しみにしていた。
ところが、台風襲来で新幹線が止まり、野々宮はなんとかライブにすべりこんだものの、私は機材セッティングができないという判断で京都行きを断念した。

楽しみにしていた京都行き、ライブ演奏に参加できなかったことは非常に残念で、悲しい。
昨日一日しょんぼりしていた。
それだけでない。
演奏はできなかったが、京都行きを断念せずに同行し、すばらしいライブに参加すればよかった、という後悔も、参加した人のフェイスブックメッセージを読んで生まれてきた。
また、片山さんや法然院さんにご迷惑をおかけした、という申し訳ない気持ちもある。
そしてもちろん、このライブを楽しみにしていた方々とお会いできなかったという無念もある。
いろいろな気持ちが錯綜して、昨日一日しょんぼりすごしていた。

こういうとき、共感的コミュニケーションではどうするんだっけ?
そうそう、「自分を悼む」ということをするんだった。
しかしこれが私は苦手なのだ。
これまでもうまくできたためしがない。
今日は練習してみることにしよう。

まず、自分のなかにある残念、悲しい、申し訳ない、無念といった気持ちを無視することなく、きちんと受け入れる。
実はこの記事を書いている過程でそのプロセスはかなりきちんとおこなえているような気がしている。
書きだしてみることはとても有効だ。
もし共感的に話を聞いてくれる人が身近にいれば、その人に聞いてもらう、というのがとてもいいのだが、もし相手が非共感的な人だったりすると逆効果になるので、だれでもいいというわけではない。
そういう人がすぐに思いつかなかったり近くにいない場合は、自分で自分の面倒を見る。

それらの気持ち(感情)はいったい、私のどういう価値から来ているのか、ゆっくりとつながってみる。
ライブに参加したかった、参加者や来客とのつながりが楽しみだった、予定や約束を守る誠実さや信頼が大切だった、自分の能力や表現ができなかった……
こういった私の大事にしている価値観が満たされなくて、しょんぼりした気分になってしまった。
自分自身がなにを大切にしているのか、それはどうしたら満たすことができるのか、いまできることはなにかないか、じっくりとかんがえてみる。

とりあえず、法然院ライブについてはもう終わってしまったことだし、私にできることはもうなさそうだ。
つぎの機会があれば、きっと不測の事態に対処できるようにさらに万全の準備をしたい。
いまできるのは、法然院ライブとは別に、私の価値を満たすなにか別のことがないかどうか、さがしてみることだ。
楽しみなこと、能力を発揮すること、表現すること、こういった価値を満たすことは、今日ひとりでいてもできそうだ。
そこで私は、かねてからやってみたかった自分の絵(スケッチ)をTシャツにプリントしてみる、ということに時間を使うことにした。

ほんの数十分、自分を悼むために時間を使う。
私たちはこういう時間を自分に許すことを、なぜか後ろめたく感じてしまうように教育されている。
それに気づき、ほんのすこしだけ自分を丁寧に扱うように心がけることで、明日からまたあらためてイキイキと人生を楽しんでいけるだろう。

今月の共感的コミュニケーションの勉強会は9月26日に羽根木の家で開催します。
詳細はこちら

2013年9月17日火曜日

毎日書きつづけるコツ

私のブログは毎日300人から500人くらいの方に読まれている。
おなじ記事をフェイスブックにも流すことがあって、そちらでは100から300リーチくらいあるので、毎日だいたい500人前後の方に読んでいただいていることになる。
なんてすごいことなんだろう。
そしてありがたいことである。

商業出版で生きていたころは、刷り部数1万とか2万とか3万、5万といった数字の世界だったが、あまり実感の持てない数字であった。
そのうち、売れ残ったり、読まれなかったりしたものもずいぶんあったのだろうと思う。
しかもこちら「売る」ために書いているのであって、売れれば「勝ち」、売れなければ「負け」という世界だった。

いまはちがう。
売るために書いているのではなく、読んでもらうために書いているのだし、もっといえば書きたいから書いているのだ。
結果的におおぜいの人に読んでもらえればうれしいけれど、だれも読んでくれなくてもかまわない。
そりゃゼロアクセスだったら悲しいけれど、数百人が数人であったとしてもとくに書く内容が変わることはない。

よく、
「毎日、よくそんなに書くことがありますね」
とか、
「毎日書きつづけるコツってありますか?」
ということをいわれる。

書くことはいくらでもある。
すべての人がそうだと思うのだが、私にかぎらず人は書きたいこと、話したいことをたくさん持っている。
ただそれを身体の奥にしまいこむ癖を身につけてしまっているだけだ。
書きたいことがたくさんあるけれど、それをどのように言語化していいのかわからない、というならわかる。
自分のなかにあるものを言語化するには、ある程度の技術とその訓練は必要だろう。
しかし、いまの学校教育でおこなわれている「作文教育」では、書きたいことを書けるようにはならない。

毎日書きつづける「コツ」なんてものはないけれど、私の場合、自分が毎日書けるようになった理由があるとすれば、このひとつだけだ。
とにかく毎日書くこと。
一行でもいいから、毎日書く。
これを毎日つづける。
なんでもいいから、一行でいいから、一日も欠かさず書く。

一日一行なんて楽勝だと思うかもしれないし、実際に私にしてみれば楽勝なのだが、これをテキスト表現ゼミの参加者にいっても、そのとおり実行できる者は皆無に近い。
なので、きっとこれはおそろしくハードルが高いことなんだろう、とかんがえるようにしている。

一行が二行になり、複数行書けるようになってきたら、つぎの段階があるのだが、それはここでは書かない。
興味がある方はテキスト表現ゼミ(次世代作家養成塾)に来てみてください。
見学はいつでも自由です。

京都行き断念どたばた記

昨日はいろいろと大変であった。
法然院でのライブのため京都行きの予定だったのだが、台風18号直撃で新幹線が止まってしまった。
危機管理的にはまったく甘かったという思いがある。
台風直撃コースがわかった時点で、前日のうちに京都入りするなど、万全を期す方法があったのに、それをおこたってしまった。

朝、2時間くらい予定を繰り上げて東京駅に行ったのだが、すでに新幹線は運休になりはじめていた。
間もなく、新富士と静岡のあいだの富士川の水位が危険域にたっしたので、新幹線は三島までの往復で運行する旨がアナウンスされた。
この時点で、富士川の水位がさがるのを待つしかなくなったわけだが、台風はまさに愛知、静岡、長野あたりを通過していて、すぐに水位がさがるとは思えなかった。

午後1時くらいまで待って、私は京都行きを断念。
もし新幹線が動きはじめて法然院までたどりついたとしても、機材をセッティングしてライブに参加する時間はもうないと判断したためだ(実際そうなった)。
あちこちに連絡して、相談する。
片山旭星さんはひとりでも演奏する、と心強いことをいってくださった。
おかげで、朗読の野々宮は「とにかくあきらめずに行く」と決意。
さいわいゼミ生のみぞれちゃんも同行してくれているので、私は(くやしいけれど)安心して断念することにした。

とにかく三島まで行く、というふたりを見送って、ひとりでとぼとぼと帰宅。
家からはあちこちに連絡を取ったり、ふたりに情報を送るなどして、後方支援。
すると、15時ごろ、新幹線は富士川を越えられることになったようで、ふたりの乗った便は名古屋行きとなったらしい。
そのまま野々宮とみぞれちゃんは名古屋でのぞみに乗り換え、京都へ直行。
京都駅からタクシーを飛ばして、法然院のライブの後半に駆けこむことができたとのこと。

前半は片山さんが演奏してくれて、後半は野々宮が加わって朗読と琵琶のライブがおこなわれたようだ。
その様子を私はまだくわしく聞いていないが、行ってくれた方からは満足のコメントが寄せられていて、いまはほっとしている。

2013年9月15日日曜日

遠隔地ライブの機材準備なう

明日は法然院ライブのために京都に向かわなければならないのだが、絶賛台風接近中。
その影響で東京も朝から断続的な豪雨に見舞われている。
予想進路図を見たら、明日乗る予定の新幹線と台風の進路予想時間がどんぴしゃりでクロスしている。
予報どおりだと、私の乗る新幹線は豊川あたりで台風の目のなかにはいる。
新幹線が走っていれば、の話だが。

かなり危機的な状況になってきているわけだが、しかしここで準備をあきらめるわけにはいかない。
ましてや私は奇跡的(&非科学的)といえる晴れ男。
土砂降りだったのに、私が外に出ようとしたとたんパタッとやんで晴れ間が現れる、という経験は一度や二度ではない。
げんに今朝も、自宅から羽根木の家に向かおうと傘を持って出たら、あれほどの豪雨だったのにピタッとやんでいて、傘なしに羽根木の家まで歩いて行けた。
その後、晴れ間すらのぞいた。

今回の会場はお寺なので、機材はすべて持ちこみ。
私の音楽演奏機材、撮影・録音機材、そして音響機材。
さすがに照明機材まで持っていけないので、お寺にあるものを使わせてもらうことにする。

・コルグ X-50
 シンセサイザー。MacBookにつないでmidiキーボードコントローラーとしても使用。
・ZOOM R24
 簡易ミキサーとして使用。
・BOSE SoundLink Mini
 スピーカー。恐ろしいほど小さいのに、そこそこの音がする。室内ならこれで充分。
・MacBook Pro 15インチ
 これに MainStage3 を立ちあげて、音源として使う。

その他、ACアダプタ、電源ケーブル、音響ケーブル類、ごちゃごちゃ。
以上が演奏機材。
ほかに、ビデオカメラ2台、レコーダー、朗読で使うかもしれないマイク(SHURE 57)など。
荷物はそこそこ多いが、これだけで京都のお寺まで出かけて音楽演奏ができてしまうんだから、なんてまあ気楽なことよのお。
ピアニストとしてはかんがえられないような気楽さだ。

法然院ライブ当日パンフ原稿

東日本大震災から二年半、東京にいるとまだまだ震災の余韻や傷跡を色濃く感じることが多い。げんに事故原発は蓋をあけたままであり、放射性物質の問題も看過できない。京都にやってくるとおだやかな空気感にほっとするような気がする。
 私は学生時代をふくめ足かけ八年ばかり京都に住んでいたことがあり、まさに青春の地といっていい。住んでいたのもこの東山界隈を中心にずっと左京区内だった。ここから近くでは岡崎や出町柳、一乗寺にも住んでいたことがある。もちろん法然院界隈で遊んだり、歩きまわったりしたこともある。そんな思い出深い場所に、いま現在おこなっている現代朗読と即興音楽でふたたびつながることができるということに、かぎりない喜びを覚えている。
 今回、京都在住の琵琶奏者・片山旭星さんをお迎えすることができたことも喜びのひとつだ。そもそも、これまで何度も法然院で演奏の機会を持たれている旭星さんがいなければ、この公演も実現しなかっただろう。
 琵琶、現代朗読、そしてシンセサイザーという現代楽器によるセッション。即興性を重視しているユニットが、法然院という空間と、彼岸すぎの夕刻という時間と、おこしいただいたみなさんという関係性のなかで、どのような旅ができるのか。あるいはどのような風景を見ることができるのか。
 そしてどのような祈りをささげることができるのか。
 法然院という祈りの場所において、東北の被災地や、首都圏でおびえと悲しみを抱えて暮らす人々たちにたいし、ひとつの祈りの形として今回の公演をささげたいというのが私の個人的な思いだが、共演のふたりも、そしてみなさんも、たぶんそれを許してくれるのではないかと想像し、演奏をはじめることにする。


台風接近中ですが、ライブの時間には京都方面から遠ざかっているようです。
お近くの方はぜひいらしてください。
法然院ライブの詳細はこちら


作品
「夢十夜 第二夜」夏目漱石
「コップのなかのあなた」水城ゆう
「特殊相対性の女」同

出演
 朗読 野々宮卯妙
 琵琶 片山旭星
 シンセサイザー 水城ゆう

主催
 法然院サンガ
協力
 現代朗読協会

テキスト表現ゼミ生・奥田浩二の挑戦がはじまった

テキスト表現ゼミ(次世代作家養成塾)は月に3回開催していて、1回は羽根木の家に集まってもらっての「リアルゼミ」なのだが、あと2回はGoogle+のハングアウト(ビデオチャット機能)を利用してのオンラインゼミとなっている。
今夜は参加者が奥田くんひとりだった。
通常なら最低催行人数3名に達しないゼミは休講となるのだが、開催した。
というのも、前回、奥田くんが長編エンタテインメント小説の一部と思われる断片を提出してきて、それがなかなかのすぐれものだったので、いよいよ長編に挑戦してもらうことになったからだ。
今夜はそのとっかかりを確認する大事なチャンスだった。

長編小説に挑戦してもらうにあたって、私は条件を出した。
毎日、かならず書くこと。
分量は500字でよい。
一日も欠かさず書きつづけること。

このペースで書きつづけれられれば、半年で長編小説がひとつ書きあげられる。
とりあえず、そのクオリティは問わない。
基礎体力をつけるための条件だ。
しかし、ひょっとしてうまくすればクオリティもついてくるかもしれない。
自慢しているように聞かれたくないのだが、私は最初に書きあげた長編小説がデビュー作となった。
とにかくどのようなものでも、書きあげなければ形にはならない。
書きつづければ、そして書きあげてみれば、さまざまなことがわかる。

今日、奥田くんとオンラインで彼の書いたものを読んで聴かせてもらい(自分が書いたものを声に出して読みあげるのはとても大事)、いくつか欠点について指摘することはしたが、いま彼が書きはじめているものがとてもおもしろい世界観を持っているもので、オリジナリティに満ちたものであることを確認できた。
今日はまだ断片だったが、これが縫いあわされていってどのような世界を見せてくれるのか、とても楽しみだ。
おなじテキスト表現ゼミ生の荒川あい子さんの短編集『変身』が無事リリースされたこともあって、今日は祝福できる日として幸福を感じている。

テキスト表現ゼミ(次世代作家養成塾)に興味のある方は、こちらをご覧ください。

2013年9月14日土曜日

「沈黙の朗読」当日パンフの原稿

音が聞こえ、途切れる。また音がつづいて、ふたたび途切れる。音が聞こえ、そしてまた止まる。
音はリズムを持っている。それは速くなったり遅くなったり、たしかに生命の脈動を感じさせる。
一定のリズムが聞こえたかと思うと、また止まる。耳をすまして待っていると、またちがったリズムで音が聞こえはじめる。
その音はたしかに人の声だ。
どうやら言葉を発しているようだ。言葉を意味を持ち、文章を構成し、さらには物語を形作っているようだ。しかし、言葉が意味を持つ以前に、それは生きている人の身体から生まれた生命の脈動音そのものといっていい。そして音と音のあいだには休止、すなわち沈黙がある。
生命は歩き、走り、そして立ちどまる。じっと身をひそめる。そしてまた動きだす。

朗読という表現行為に接したとき、たいていの人はまずその意味を聞きとり、文章を頭のなかで再構成し、物語を理解しようとする。
声が音であり、リズムであり、生命現象の表現であることをそのまま受け取ってもらうことは、なかなかむずかしい。
ならば、意味を分断し、理解をわざと邪魔してみるとなにが起こるだろうか。
現代朗読ではさまざまなアプローチで、意味ではなく、朗読者の生命現象そのものを受け取ってもらう工夫を重ねているが、「沈黙の朗読」もそのひとつだ。
朗読にはかならず「沈黙」が存在する。言葉と言葉のあいだには、音楽でいうところの「休符」、音のない時間が存在する。その部分にスポットをあててみるとどうなるだろうか、という発想で2010年にスタートしたのが、沈黙の朗読のシリーズだ。

今回、沈黙の朗読の最初の作品である「記憶が光速を超えるとき」の初演朗読者であった榊原忠美を迎え、再演というよりあらたな構成でお届けすることになった。
「記憶が……」は何度か榊原と上演を重ねてきたが、その間にも現代朗読の野々宮卯妙と「槐多朗読」「特殊相対性の女」などの試みをつづけてきた。その集大成ともいえる今回の「沈黙の朗読」公演である。
「記憶が光速を超えるとき」の榊原忠美に野々宮卯妙がからみ、「特殊相対性の女」の野々宮卯妙に現代朗読の面々がからむという、多層構造になっている。
たった一回きりの公演だが、お楽しみいただければ幸いである。


沈黙の朗読

「記憶が光速を超えるとき」
 作・演出:水城ゆう
 朗読:榊原忠美、野々宮卯妙

「特殊相対性の女」
 作・演出:水城ゆう
 朗読:野々宮卯妙
 群読:山田みぞれ、高崎梓、KAT、唐ひづる、町村千絵

 演奏:水城ゆう
 音響・照明:早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)

 主催:現代朗読協会
 協力:キッド・アイラック・アート・ホール

詳細とご予約はこちら


沈黙の朗読のあゆみ

◆2010年3月
ライブスペース中野plan-Bにて「沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき」を上演。朗読は榊原忠美と菊地裕貴、演奏・水城ゆう。
◆2010年6月
名古屋市千種文化小劇場にて、朗読・榊原忠美、演奏・水城ゆうと坂野嘉彦で「初恋」を上演。
◆2010年9月
下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて、朗読・野々宮卯妙、演技・石村みか、演奏・水城ゆうで「特殊相対性の女」を上演。
◆2010年12月
愛知県芸術劇場小ホールにて、朗読・榊原忠美、演奏・水城ゆうと坂野嘉彦で「記憶が高速を超えるとき」を、朗読・野々宮卯妙、演技・石村みか、演奏・水城ゆうで「特殊相対性の女」を 上演。
◆2011年10月
名古屋〈あうん〉にて朗読・榊原忠美、演奏・水城ゆうと坂野嘉彦で「記憶が高速を超えるとき」を上演。
◆2011年12月
明大前ブックカフェ〈槐多〉にて、朗読・野々宮卯妙、演奏・水城ゆうで沈黙の朗読「槐多朗読」を上演。以後、現在までに全七回の上演回数を持つ。
◆2013年2月
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて、朗読・野々宮卯妙、ダンス・金宜伸、演奏・水城ゆうで沈黙の朗読「初恋」を上演。

2013年9月13日金曜日

荒川あい子『分身』短編集リリース

荒川あい子の処女短編小説集『分身』がリリースされた。
どの物語も、みじかいながら丁寧に描かれた、しかし不思議な味わいに満ちた絵のような印象を持っている。
あるものは非現実的で平面的であり、あるものはリアルでエロティックであったりする。
しかし、いずれもたしかにいえるのは、ごてごてと絵の具を重ねた油画とはちがった、さらりとしたアクリルか水彩を薄く塗りかさねたような透明な質感がある、ということだ。
しかし、下地はつるっとしたボードのようなものではなく、キャンバス地の手触りもある。

荒川あい子個人について、私はすこし語ることができる。
彼女は現代朗読協会の私のゼミ「テキスト表現ゼミ」もしくは「次世代作家養成塾」のゼミ生として、ここ数年、小説を書きつづけてきた。
初期のころは文章も稚拙だったが、しかし最初から上記のような独特の感触を描いていた。
私が留意したのは、その手触りをそこなうことなく、テキスト表現のクオリティをあげていってもらうことだった。
なにより小説を書くことが好きで、そのことが生きることのまんなかに存在している。
そのことが荒川あい子を強い、同時にもろい存在にしている。
その一点からにじみだしてくるオリジナルなテキストが、私を魅了する。

彼女はごく最近、お母さんになった。
それが彼女の書くものにどのような影響を与えるのか、あるいは与えないのか。
どうしてもそこのところに関心が向かってしまいがちだが、じつはそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。
彼女は彼女であり、どのような境遇に置かれようとも、たぶん不思議な味わいをうしなうことなく書きつづけるだろう。

荒川あい子短編集『分身』はこちらで読むことができます。
無料。

2013年9月12日木曜日

朝ゼミ、シモキタランチ、昼ゼミ、夜ゼミ

羽根木の家に Jim & Jori が滞在しているので、早めに行く。
すでに朝食をすませてくつろいでいた。
今日はオリンピックセンターでワークショップをやるということで、9時すぎには出発していった。
夜遅くまでみっちりあるということで、連日のハードワークを精力的にこなしているおふたりの姿には頭がさがる。

私は10時半から朝ゼミ。
昨日の Jim & Jori のNVCワークショップに参加された野々宮の同級生のせつこさんが、ゼミに見学参加。
もうおひとり、京都・法然院ライブで羽根木の家を留守にするあいだムイ猫の世話をしてくれる児玉ご夫妻のもえみさんも、猫の世話の説明のあとで残られてゼミに参加。
ひさしぶりに朝ゼミがちょっとにぎやかな感じになった。

初参加の方のために呼吸法や体認のエチュードをやったあと、それぞれの読みを聴かせてもらう。
オーディオブックリーダー養成講座受講中のともこさんが、人に聴いてもらったらあれこれいわれて、ちょっと見失ってしまったというので、人にあれこれいわれたときの対処法についてアドバイスする。
読み自体はまったく自分自身を見失っていない気持ちのいいもので、アドバイスすることもほんの少ししかない。
ほかに日榮さんのあるミッションについて、著作物と著作権者を尊重する方向からアドバイスをさせてもらった。

昼はみんなでぞろぞろと下北沢に行き、ランチ。
ついでにKATが手間をかけているサークル「おひさま」の活動のための助成金申請書類の確認作業もおこなう。
ヨガ・インストラクターをやっているともこさんに、来週の土曜日の体験講座のあとにお試しでヨガ指導をやってくれないか頼んでみたら、こころよく引き受けてくれた。

15時から昼ゼミ。
珪子さんとみぞれちゃんのふたりだけだったので、体認のエチュードや「ちょい瞑想」をやったり、それぞれの読みをゆっくり聴かせてもらったり、少人数のときにしかやれないことをじっくりやれた。

19時から夜ゼミ。
来週の「梅ヶ丘THE生エンタ」出演者の面々がそろって、それぞれの演目を聴かせてもらったり、選定しなおしたりする。
演劇にしても朗読にしても、出演者はすこしでも自分の出番や読み時間を多くしたい、という心理的傾向がある。
が、そのことが裏目に出てしまうことがある。
集中力がとぎれたり、観客に「長い」と一瞬でも感じさせたら不利になったり、といったことだ。
長く出たい/読みたい、という気持ちの底にあるニーズは、たぶん「より自分をしっかりと表現したい/伝えたい」という表現欲求だろう。
その表現欲求を満たすのに、つい「時間的な長さ/物理量」を確保しようとしてしまうのだが、ほかにもより効果的な方法があることを忘れないようにしたい。

現代朗読のゼミの見学は、いつでもどなたでも歓迎です。
ご希望の方は「info@roudoku.org」までメールでお問い合わせください。