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2013年6月28日金曜日

“小分けダイエット”よりも朝昼の“1日2食ダイエット”が断然効果的

photo credit: © 2006-2013 Pink Sherbet Photography via photopincc

タイトルの元ネタはこちら

さて、ここに書いてあることを読むと、調査結果は米シカゴで開催されたアメリカ糖尿病学会で発表されたものだという。
アメリカ糖尿病学会がどのくらい正当性のあるものなのか知らないが、ある客観的な評価はされている調査結果であろうと、とりあえずは推測しておく。
でないと話が始まらない。

ダイエットの食事法としてよく知られているのは「小分け食事ダイエット」で、一日に何度も小分けにして食事をとるというもの。
これは、お腹が減っているときに一度にドカ食いすると、一種の飢餓状態にある身体が栄養を全部吸収しよう/ためこもうとするため、太りやすくなる、というエビデンス(なのか?)にもとづいている。

ちなみに、相撲取りは一日二食で、あの巨体を作っている、といわれているが、実際には私たちのかんがえる「一日二食」とはほど遠い。
メインの食事は二食かもしれないが、頻繁に間食をしており、その間食たるや「ちょっとカツ丼」とか「カレーひと飲み」とか、まあそんな感じらしい。
一般人の感覚からいえば、一日七食くらいしているんじゃないか。

話をもどす。
調査結果によれば、小分けダイエットより、朝食と昼食のみを食べる食事法のほうがダイエット効果は高いと出た。
これはボディマス指数というものの数値で顕著な差が出た。
ボディマス指数というのは、平たくいえば「デブ度」だ。
それが朝食昼食ダイエットのほうがかなり大きくダイエットになるという数字が出たという。

ちなみにそれぞれのダイエット法には異なる利点がある。
朝食昼食ダイエットでは肝臓脂肪を減らすことができ、小分けダイエットではインスリン感受性を高めることができる、ということだ。

私はダイエットをしているわけではないが、いちおう身体の調子を日ごろから整えておきたいし、これから武道もちょっとまじめにやろうかなと思っているところなので、食事は朝食と昼食の二食しかとっていない。
夜は食べない。
ちょっと飲むけど。

2013年6月27日木曜日

共感的コミュニケーションとママカフェ

昨日の夜は三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉で共感的コミュニケーションのワークショップとミニライブをおこなった。
共感的コミュニケーションに初めて接する方が多く、ごく基本的な原理から説明してそのプロセスを体験してもらった。

平和教育に興味を持っていながら、身近な人間関係に違和感をおぼえている人。
彼女との厳しい関係性に悩んでいる若者。
自分がきつい性格でとくに年上の男性からうとまれていると感じている女性。
引っ込み思案で思うように自分を伝えることができないと悩んでいる女性。
ほかにもまわりとの関係性をよくしたいと思っている方が、興味を持ってきてくれたようだ。

共感的コミュニケーションの原理と、私たちが普段やってしまっている非共感的なふるまいの違いについて説明したり、自分に共感する/相手に共感するためのシンプルなプロセスについて解説したあと、ふたりずつのペアになってもらう。
実際にお互いの体験を聞き合うことからスタートして、共感的コミュニケーションのプロセスを実践してもらった。

最後に、やや時間を過ごすオーバーしてしまったが、野々宮卯妙による朗読を聞いてもらった。
これもまた「共感的に聴く」ということの練習として。


今日の午前中は音読療法協会恒例の「お母さんのための音読カフェ」通称「ママカフェ」。
KATがとてもおいしいスイーツを作ってきてくれた。
それをハス茶でいただく。
ゆったりした時間。
参加されたお母さんも、皆さんも、自分を大切にする時間をすごせたようだ。

終わってから皆さんとピピカレーに行って昼食。
最近これが続いているが、タコカレーを食べた。

午後は共感的コミュニケーションの勉強会。
駆けこみ参加が何人かあって、思ったより盛会となった。
共コミ初体験の人が何人かいたので、昨夜に引き続き今日も基本原理から説明する。
そのあとペアになってもらって、プロセスの体験をかねてお互いにニーズを聞きあう練習をした。
初めて参加してくれた人にもとても興味を持ってもらったようで、つづけてやってみたいといわれたのがうれしかった。

来月の共感的コミュニケーションの勉強会は、夜が7月19日(金)、昼が25日(木)の開催となる。

小学校というアウエイで自分を鍛える

先日、墨田区立外出小学校で朗読授業をおこなってきた。
対象は4年生1クラスで、2時限を使って身体と言葉をつなぐエチュードをおこなった。
現代朗読協会では墨田区の教育支援プログラムの協力団体として登録していて、時々お呼びがかかる。
これまで小梅小学校、業平小学校などでも出張授業をおこなっている。
中学校や高等学校にも何校か行ったこともある(公演以外に)。

子どもたちを相手にしていると、ときに「怖い」と感じることがある。
なにが怖いかというと、それはこちらの「正直さ」を見抜かれているような気がするからだ。
子どもたちは常にマインドフルで、自分のニーズに正直に生きている。
それは、一見大人になりかけて世の中をハスに構えて見ているように見える思春期の生徒たちもそうなのだ。

こちら側がなにかたくらんでいたり、計算していたり、うまいことやろうとしたり、こびようとしたりすると、すぐに見抜かれてしまう。
そしてつれない態度になる。
当然、授業もうまくいかない。

こちらが正直に自分の弱点も欠点も未熟さもさらけだして、いまここのありようで誠実に接したとき、子どもたちもそれにめいっぱい応えてくれる。
先日の外出小学校でも、私がそれを完全にできたかどうかはわからないけれど、できるかぎり誠実に、正直に、いまここの自分自身であろうとこころがけながら四年生たちに接してきた。
子どもたちも実にイキイキと反応し、こちらの提案にどんどんノってきて、最後は担任の先生や参観のお母さんがたが心配そうな顔になるほど大ノリで、ひとりひとりが個性爆発させていた。
うれしかったなあ。
そして楽しかった。

大人が子どもたちの場にはいりこんでいくというのは、一種のアウェイの場に行くような感じがする。
自分が試されるようなところがある。
とても鍛えられるし、多くのことに気づかされる。
こちらが授業をやっていながら、実はこちらが子どもたちから多くのことを教えてもらっている。

2013年6月26日水曜日

渋谷のオープンマイクイベント「開口一番」に参加してきた

2013年6月24日夜。
渋谷のライブハウス〈PLUG〉で開催されたオープンマイクのイベント「開口一番」に行ってきた。
音楽ではなくことば系のオープンマイクで、朗読詩人、ひとり芝居、ラップなど、ヴォイスパフォーマーの人たちがたくさん集まって、えらく盛り上がっていた。
もう10年くらいつづいているイベントとのことで、こちらの現在の特徴は音楽バンドがついて、朗読などに即興で音をつけてくれるということだろう。
私も朗読に即興で音をつけるが(ピアノ、シンセ、ピアニカなど)、バンドではない。

バンドはドラムス、マーチングドラム(エレクトロニックで初めて見た)、ギター2人、キーボードという編成。
音はロック、ラップミュージック、少しジャズやポップスも混じるもので、フリーインプロビゼーションではない。
リズムキープした上でワンコードで進行する、厳密には即興とはいえないものだが、パフォーマーはそれに乗ってがんがん、まあ叫ぶんだわ。

始まってしばらくして、これはちょっと場違いなところに来ちまったかな、やっちまったか、と思ったのだが、主催側のみなさんがとても気遣いのある方々で、我々も居心地の悪い思いをそんなにせずにすんだ(他の出演者はほとんどが常連らしくてみなさんでカタマっておられたが)。

我々、というのは、げろきょメンバーのみぞれちゃんと菜穂子さん。
みぞれちゃんはこの日、午前中におこなったオーディオブックリーダー養成講座に参加していたのだが、そこでこの夜のイベントに出るかも、ということを私は聞いた。
菜穂子さんも出るとのことで、みぞれちゃんは疲れたので出るのどうしよう、なんていってるのを聞いて、いやいや菜穂子さんひとりにするわけにはいかんでしょう、と、私も行くことにした。
みぞれちゃんもがんばって行く、という。

行ったら、げろきょメンバーのたけはるくんも来ていた。
出演はしなかったけど。

出演者はチェックインのときに申告して、5分くらいの枠をもらえる。
前半はバンド付きでがっつんがっつん進行し、私は聴覚をやられないか心配になったほどだが、後半はちょっと落ち着いた感じになり、我々の出番も来た。
まずみぞれちゃんが私の「Cat Plane」といういわく付きのテキストを読む。
私はそれに即興演奏でからむ。
ちょっとアダルトな内容のものだが、ノリのいい会場からはやんやの喝采。
みぞれちゃんもフリーダムを爆発させた。

つづいて菜穂子さんが私の「コップのなかのあなた」を読む。
こちらはちょっとしっとりめに出て、しだいに個性的に展開。
菜穂子さんとさしでセッションするのはこれがほとんど初めてだと思うが、楽しくやらせてもらった。
会場の人の多くも魅了されていたようだ。
我々の出番が終わってから進行役のひとりが、「げろきょやばい」といっていたのがうれしかった。

偶数月に開催しているとのことで、日程があえばまた参加してみよう。

2013年6月25日火曜日

明日とあさっては共感的コミュニケーション勉強会

毎月昼と夜の二回開催している共感的コミュニケーションの勉強会が、明日とあさって、開催します。
明日は三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉で、夜の開催となります。
19時半からワークショップ形式での勉強会です。

人間関係に難しさを感じていたり、自分に自信がもてなかったり、他人の目ばかり気になったり、ふあるいは職場やサークルなど組織運営に問題を抱えているような方におすすめです。
もちろんとくに問題を感じていないという方にも、より人生をイキイキとマインドフルにすごすための方法としてお役に立てると思います。

オハナでお好きな飲み物をいただきながら、人と人が共感しあえることのすばらしさ・心地よさを少しでも実感していただけたらと望んでいます。
勉強会の最後には現代朗読(野々宮卯妙)と音楽(水城)によるミニライブもあります。
楽しんでいただけたら幸いです。
詳細はこちら

また明後日は古民家「羽根木の家」の座敷で昼の勉強会を開催します。
午後2時から、お茶を飲みながらゆったりと共感について学びましょう。
夜・昼、ご都合のよいほうにおいでください。
お待ちしてます。
詳細はこちら

言明してしまうことで自分を規定してしまうこと

photo credit: Ed Yourdon via photopincc

私は文章を書くのが苦手だ。
というふうに、自分自身を規定してしまうと、そのことが事実になってしまう。本当はそうではないかもしれないのに。

なんとなく苦手だとか、あまりやりたくないと感じているとき、それをそう感じているだけならまだいいが、それを言語化してしまったとたんに本当に苦手になってしまったり、やりたくなくなってしまったりすることがある。
自分がそれが本当に苦手だったり、嫌いだったりするのかは、実際にやってみないとわからないことがある。

実際にやってみて、あらためて苦手なんだなとか、これは嫌いだと確信するのはやむをえないことだが、やってみたら案外すんなりやれたり、好きになったりすることも多い。
というより、そんなことはしょっちゅうある。
つまり、私たちはいかにかたよった思いこみで自分の行動に制約を課してしまっているか、ということだ。

苦手だと思っていることがあっても、まずはそれを「苦手だ」と言語化しないこと。
だれかにいったり、ブログやメールに書いたりしないこと。
言語化する前に一度ためしてみること。
一度ためして苦手だとわかっていても、時を経て挑戦してみること。
なぜなら、人は刻一刻、日一日と変化しつづける生き物だからだ。
昨日の苦手が今日の得手になっていることはよくある。

ともあれ、自分の思いこみを言語化したり、口にしたり、書くことによって自分の可能性を狭めてしまうことがある、ということをしっかりとおぼえておきたい。
これは実は、相手に対する「決めつけ」もおなじ作用があるのだが。

2013年6月21日金曜日

初めて韓氏意拳に触れる

韓氏意拳という武術があることは知っていた。
人が「気」で吹っ飛ぶとか、タレントがそれを体験した映像がYouTubeにあったりして、催眠術まがいの眉唾ものだと断定している人も多い。
私はオカルトや(悪い意味の)スピリチュアル系がとても苦手で、友人の徳久ウイリアムくんからの情報がなかったらまったく興味を持てなかっただろう。

ヴォイスパフォーマーの徳久くんが韓氏意拳にはまっているという話は、本人から直接聞いていた。
本も見せてもらった。
難解な哲学書みたいで、内容はさっぱり理解できなかった。
しかし、韓氏意拳という言葉は武術家の甲野善紀氏や内田樹氏のツイートにしばしば出現していて、気になっていた。

その教練講習会が中野で開催されているというので、参加してみることにした。
場所は新井区民センター。
講師は内田秀樹氏。

参加者は定員いっぱいの8名。
年齢や性別はまちまち。
私よりご高齢の方もいらっしゃった。

内田先生はごくごくきさくな、そしてたいそう若い、はつらつとした方で、意拳というものに対する勝手な先入観を持っていた私は「老師」という感じからはとてもかけ離れた印象に、一瞬「大丈夫か」と思ったことを正直に告白しておく。

そして講習はさらっとなにげなく始まった。
武術の講習会によくある「なにかよくわからない神様へのお祈り」とか準備運動とか、一切なし。
私はこれまでいくつかの武術を体験してきたが、空手にしてもなんにしても、まずは「礼」とか「武術の神様への礼拝」とか「呼吸法」とか、なんらかの準備儀式的なものから始まるものがほとんどで、そこがちょっと嫌だった。
今回はそんなものは一切なし。

ちなみに、講習を受けているときにふと疑問に思ったことを質問してみた。
それは、「呼吸はどうすればいいのか」ということだ。
自然にやればいい、という明確な答えだった。
こういう動きのときはこういう呼吸法、と決めてしまうとそれは型になってしまい、意拳の方法と反してしまう。
意拳はあくまで、型というより自分自身の身体との対話、思考を捨てたマインドフルネスにおける身体運用の高度な技術をめざす。
というのは、私のみじかい体験からの解釈だ。
まちがっているかもしれないので、引き続き何度か受けてみたいと思った。

教練の方法を教えてもらっただけなので、実践まではとても行かなかったが、時々かいま見ることができた内田先生の武術的な鋭くパワフルな動きは充分に魅力的なものであり、なおかつ私が知るほかの武道のどれとも違った奥深いものだと感じた。
催眠術だと断定している人がいたが、それは違うと思う。
韓氏意拳の有効性は、身体運用技術が物理的に合理的なものであり、人が吹っ飛んだりする現象も科学的に分析・説明できるものだろう。

そして語彙がすごかった。
身体運用についてのさまざまな語彙表現は、私にはまだ理解できないものがほとんどだったが、身体を使って実際にやってみせながら聞くうちに、たぶん理解できるようになっていくのではないか。
武術の方法を教えるのに「おおらかな身体つき」とか、「身体の様子を感じる」とか、非常に興味深い表現が次々と出てきて、おもしろかった。

この技術を私はもう少し身につけ、マインドフルネスと身体運用の技術として現代朗読にも応用できないかと、ちょっと欲を持ってしまっている。
韓氏意拳を参考にしながら、現代朗読における身体運用の意識をさらに緻密に高めるためのエチュードを作ることができそうだ。
先生からはしかられるかもしれないが、明日から始まる「朗読はライブだ!」ワークショップでも生かしてみたい。
ライブワークショップに興味ある方はこちらからどうぞ。

2013年6月20日木曜日

粗雑なものへの嫌悪がある

photo credit: GuySie via photopincc

100円ショップというものがいつからあるのか知らないが、昔から私はあそこが嫌いだ。
100円ショップで働いている人にはすまないと思うけれど、あの空間とあの商売システムが嫌いなのだ。
いま調べたら、100円ショップが全国的におおはやりになったのは、1990年代初頭らしい。

生理的に嫌悪感をもよおすのだが、その原因がなかなかわからなかった。
論理的にかんがえてあのシステムはよろしくない、とは思っていた。
製造業者から安い商品を大量に買いとり、それを大量に売りさばくことによって、結果的に大きな利益を得る。
それはいいのだが、買いたたかれる業者はどこかで利益を確保しなければならないから、その商品を作るための原料や作業工程を極限まで安くあげようとする。
結果的に原料の生産者や下請け労働者が買いたたかれることになる。
産地や発展途上国の原料生産者や労働者が先進国の商社などによって生活を圧迫され、ますます貧困率を高めてしまう場合があることはよく知られている。
私たちが「こんなものが100円で買えるの?」と驚くような品物を手にいれることができているのは、かならず我々の眼に見えないだれかの犠牲の上に成り立っているという事実をかみしめておきたい。

というような話とは別に、生理的に100円ショップが嫌いだ、という話だ。
私たち日本人はどうやら、粗雑に作られたものを嫌悪する生理を持っているのではないか、と思う。
私はこまごまと手を動かしてものを作るのが子どものころから好きで、小学生のころから模型をたくさん作ったし、ミニカーや鉄道模型が大好きだった。
精密に作られた腕時計や万年筆、ラジオといったものも大好きで、大人になってからもその傾向はつづいていた。
盆栽を愛でる趣味なども、日本人の精密好きから来ているのかもしれない。

逆に粗雑に作られたものにはなんとなく顔をしかめたくなる。
安いけれどいかにも安っぽい文庫本、CD、スマホのケーブル、電池、食器、調理器具、家具、その他あらゆるもの。
そういったものしかならんでいないのが100円ショップだ。
しかめつらの連続だ。

私は自分が買うにしても作るにしても、きちんと手をかけて作られたものがいい。
たとえば私はオーディオブックを作るが、世の中にはじつに手軽に作られたオーディオブックもたくさんある。
ナレーターが自宅でハンディレコーダーをぽんと前に置き、なにかの用事の合間に朗読録音され、マスタリングもなにもされていないオーディオブックがたくさんある。
そういうものがならんでいる販売サイトを見ると、100円ショップに足を踏みいれたときとおなじ気分になる。

私が関わっているアイ文庫オーディオブックは入念に手間ひまをかけて作られている。
作品選定から始まって、読み手とのディレクション(演出)、収録のときのディレクション、収録後の編集とマスタリング作業、これらに多大な時間をかけ、大切に世に送りだされる。
聴き手はそんなことはあまり気にしないのかもしれない。
聴き手はおなじ朗読本を買うなら、多少粗雑に作られていても安いほうがいいのかもしれない。
多くの人が100円ショップを重宝がっているように。
しかし「私は嫌」なのだ。
自分の生理を無視したくない。

粗雑なものを作りたくない、という思いで、アイ文庫ではオーディオブックの読み手から育てることをしている。
多くはないが、すでに育ち、よい作品を残しつつある人が何人も出ている。
大切に読まれ、大切に作られたこれらのコンテンツは、読み手の「作品」として長らくこの世に存在しつづけることだろう。

次回のオーディオブックリーダー養成講座は6月24日(月)の開催です。
詳細はこちら

2013年6月19日水曜日

現代朗読・徳島ワークショップ(2013.6.16)からの抜粋(Podcast on YouTube)

2013年6月16日に徳島市内でおこなわれ現代朗読のワークショップから、一部音声のみを抜粋してお送りします。
講師は現代朗読協会主宰の水城ゆう。

RadioU No.355 YouTubeで配信中


呼吸を忘れている現代人

photo credit: Zellaby via photopincc

ネイティブのハワイの人々の言葉に「オハナ(ohana)」というものがあって、これはいまは「家族」という意味で使われている。
語源は「ともに呼吸する人々」らしい。
ハワイに初めて欧米からのキリスト教の宣教師たちがやってきたとき、ネイティブ・ハワイアンは彼らを「バオレス(baoles)」と呼んだ。
これは「呼吸をしていない人々」という意味だ。
このエピソードを聞いて、私はハッと思った。
まさに我々現代人は、この「呼吸をしていない人々」なのではないか。

「していない」というのは大げさとしても、実際に多くの人が自分が呼吸をしていることを忘れているし、そのことに気づいていない。
いま、この瞬間、自分がどのような呼吸をしているのか。

ゆったりと深く落ち着いた呼吸をしているのか。
浅く落ち着きのないせわしない呼吸をしているのか。
なにかに驚いたり不安を感じて呼吸を止めたりしていないのか。
そのことに注意を向けている人はほとんどいない。

電車に乗ると多くの人がスマホの画面をのめりこむようにして見つめている。
その人たちを観察してみると、姿勢が前かがみに縮こまり、みぞおちのあたりはギュッと圧迫されている。
すなわち、横隔膜の上下動が圧迫され、浅い呼吸になっている。
呼吸が浅いため、酸素を取りいれようと肺は懸命に動き、早い呼吸を繰り返している。
浅くて早い呼吸は交感神経を昂進させ、体温を上昇させ、筋肉を緊張させ、血管を収縮させて血圧を上昇させ、鼓動を速め、消化器系を停止させ、おどおどと落ち着きのないマインドを作っている。

自分のその姿勢と呼吸に気づきさえすれば、それをやめることがいつでもできる。
姿勢を伸ばし、ゆっくりと深い呼吸法を試みる。
副交感神経が働きはじめ、身体と心は鎮静と回復モードにはいっていく。
集中力と持続力がもどってきて、さまざまなトラブルやストレスにも対処できるようになる。

これらのことは「自分の呼吸を思い出す」だけで実現できる。
さらに健康効果をあげたり、病気を予防するための呼吸法があるし、それを実践することによってマインドフルに生きることも可能になる。

音読療法ではこれらの呼吸法、マインドフルネスを得る方法、共感的にコミュニケートする方法などを身につけることができる。
ぜひとも多くの人に知ってもらいたいものだ。
なにより私自身がこれで人生が楽になり、またイキイキと毎日をすごせるようになったことを伝えたいと思っている。

次回の2級ボイスセラピスト講座は次の日曜日、6月23日の開催です。
詳細はこちら

2013年6月18日火曜日

はじめたことを継続させるコツ

人から見るとピアノとか文章書きとか演出とかスケッチとか料理とか、いろいろなことができて器用な人間に見えるらしいが、本当は私は器用なのではなく、ひとつのものごとをこつこつとつづけることが得意なだけだ。
ピアノにしても文章書きにしても、その他のことにしても、ずっと毎日、たとえ少しの時間でもかならず欠かさずつづけてきた結果、人より多少できるようになっている、というだけのことだ。

なにかひとつのことをこつこつとつづけるコツのひとつを紹介してみる。
たとえば文章。
私はテキスト表現ゼミというものを主宰していて、そこには小説家になりたい、あるいは魅力的なブログや詩歌を書けるようになりたい、といった人が参加している。
テキスト表現ゼミ以前にも、パソコン通信時代にニフティサーブの「本と雑誌フォーラム」というとこけで「小説工房」という小説家志望者の道場のようなことをやっていたこともあって、私はこれまでに何百人という書き手の、そして何万本というテキストを読んできた。

それだけの経験があると、何万本というワインを飲んできたソムリエが一口すすっただけでそのワインの質をいいあてられるように、私も数行読めばそのテキストのクオリティがわかる。
「小説家の才能」などといういいかたがあるが、「才能」を「資質」といいかえれば、すべての人にすぐれたテキスト表現者になる資質がそなわっている、と私はかんがえている。
表現というのは、ある方法をもちいて自分自身を他人に伝えることだ。
自分自身のなにを伝えるかといえばも、それはオリジナリティであり、自分と人とはこのようにちがうのだ、そして自分自身は数あまたある人々のなかにおいてこのようにユニークで貴重な存在であるのだ、ということを伝えるのが表現の目的だ。
だから、テキスト表現においても自分なりのユニークな方法を発見すればいいのだ。

ただし、書かなければ見つけられない。
書くというのは、ただ漫然と書いているのではなく、一定の質を確保した上で量を書きつづける、ということだ。
なにかを継続的におこなって質をあげるためには、量的な蓄積が有効かつ必要だと私は経験的に感じている。

テキスト表現ゼミでとてもよい資質を見つけて、その人にぜひともすばらしい書き手になってもらいたいと思い「毎日書いてね」とお願いすることがある。
しかし、たいていの人はそのお願いを聞き入れてくれることはない。
たぶん、自分が唯一無二の書き手になりたいという、真剣なニーズを持っていないのかもしれない。
小説家になりたい、と語っている人の多くは、小説を書いて人気者になったりたくさんの印税をもらって楽して生活したい、というニーズだったりする。
そのことと、クオリティの高い表現者になることとは、ほとんどなんの関係もない。

話をもどす。
毎日書きつづけるコツ。
書く時間を決めない、書くタイミングを決めない、どのくらい書くかを決めない。
何時になったら書くとか、朝食後に書くとか、毎日1,000字はかならず書く、などと決めてしまうと、だんだんいやになってつづかなくなってしまう。
そういったことを決めずに、ただ「毎日いつでもいいから一行でも書く」と決めておく。
一行でもいいのだから、電車を待っているあいだでも書ける。

最初の行が書ければつぎの行へとつづけるのはそうむずかしいことではない。
そうやってある程度の分量が書けたら、つぎの日に書く分の最初の一行だけ書いてから、その日の分をおしまいにする。
翌日は、最初の一行がすでに書けているので、そこからつづけるのは楽だ。
あるいは昨日に書いた一行が気にいらなくて捨てたくなるかもしれない。
それはそれでいいのだ。
書き直してあらたにはじめる。

そうやって一行、数行でも毎日書きつづける。
毎日、かならず書く。
その習慣が身につけば、書かない日があるとなんだか気持ち悪いし、物足りなくなる。
そうやって毎日少しでも書きつづける人と、たまに気の向いたときにしか書かない人のあいだに、ある一定の質と量の差が広がっていくのは自明のことといえるだろう。

2013年6月17日月曜日

徳島ツアー2日め(徳島満喫)

徳島ツアーから無事に帰還、20時半ごろ下北沢の自宅に帰った。
一泊二日の徳島ツアーだったが、もっと何日もいたかのような時間感覚があるみっちり詰まった時間だった。

二日目の今日は宿泊先のホテルを午前9時に出発。
たるとさんが平日にもかかわらず丸一日を我々のために割いて徳島を堪能させてくれた。
本当に感謝しても感謝しきれない、ありがとう。

ホテルを出てまず向かったのは、徳島市内のシンボルともいえる眉山。
前回は登れなかったので、今回は山頂まで行ってみた。
といっても車だけど。
市内にかなり大きくそびえたっている感がある眉山は、いったい標高何メートルあるのだろうという話になり、それぞれが推測してみる。
500メートルとか1000メートルとか、それぞれ出たが、さすがに1000メートルはないだろうということで、みぞれちゃんにiPhoneで調べてもらったら、なんと300メートルないのだった。
つまり東京タワーより低い。
そのことにたるとさんはちょっとショックを受けている。
気持ちはわかる。

ともあれ、てっぺんまで登ったらちょっと涼しくて、見晴らしは最高。
今日は梅雨のまっただ中にも関わらず、そこそこ晴れて、やや霞がかかっているが視界良好。
こうやって上から見ると、徳島は本当に川の多い街だということがわかる。

眉山を降りて、ひょうたん島クルーズへ。
徳島はその名のとおり、島が集まってできたような街で、川や水路が縦横にめぐっている。
その中心部にひょうたん島と呼ばれる一画があり、それをぐるりとめぐる遊覧コースがあるのだ。
河川の水をきれいにする目的でNPOがボランティアで運営しているクルーズで、料金は無料。
ただし、保険の200円が必要。

ちいさな舟で水路をぐるっとめぐるクルーズだが、パイロットの方の感じもよく、またゆったりした舟のスピードも心地よかった。
頭上ぎりぎりのたくさんの橋を、首をすくめながらくぐっていったのも楽しかった。
徳島市の橋は大江戸よりも数が多いらしい。

お昼時になったので、野々宮の「安全な魚をいろいろい食べたい」という無茶ぶりを受けて、たるとさんが苦労して選んでくれたのは、鳴門市の海辺にある〈びんび屋〉という魚定食の店。
「びんび」というのは阿波弁の子ども言葉で魚のことらしい。
大きな店で、しかも満席。
ひっきりなしに客が入れ替わって、店の入口には行列ができる人気の店だ。
私はそこで焼き魚定食(ハマチのカマ焼き)をいただいた。
味噌汁がまたおいしくて、魚のダシと新鮮なワカメがよくマッチしていた。

つづいて、鳴門海峡へ。
私は去年行ったのだが、みぞれちゃんは初めて。
そして私もまた行きたいと思っていたので、鳴門大橋に連れていってもらう。
去年行かなかった「うずの道」という、鳴門大橋の車道の下にある、渦潮を真上から見物できる施設にはいる。
ひゃひゃ、いろいろとスリリング。
自分の身体性や、視覚依存性や、マインドフルネスについて、ショック療法的に思い知らされた。

私とは1時間早い便に乗るKATを徳島空港に送っていく(たるとさんが運転して)。
時間が少しあまったので、月見ヶ岡海浜公園に行って、浜辺で遊ぶ。
KATは時間が来たので、たるとさんに空港まで送ってもらう。
私と野々宮とみぞれちゃんは浜でのんびり。
波打ち際に足をつけたり、貝殻を拾ったり、トンビを眺めたり。
これもまた気持ちのいい時間。
私にはきっと、日常的に海でのんびりする時間が必要なんだ、ということを実感する。

またたるとさんに空港まで送ってもらって、18時発のANA便で羽田に飛ぶ。
別れ際にたるとさんが寂しそうで、私も寂しくて、ちょっと切なかった。
またみなさんに会えるといいなあ。
徳島、大好き。

徳島ツアー1日め(現代朗読ワークショップ&ライブ)

2013年6月16日(日)。
去年につづいて二度目の徳島へ。
早朝、羽田空港に移動し、9時前のANA便で徳島空港へ。
10時すぎには徳島に到着してしまう。
徳島在住のげろきょ仲間・たるとさんが車で迎えに来てくれていた。
ありがたい。

前日は土砂降りだったという徳島はカラッと晴れて、暑いが気持ちいい。
海が近いので風があるし、湿度が低く、気温もバカみたいに高くなることはない。
海の近くは湿度が高いと思っている人が多いが、それは逆だ(単純な物理的現象による)。
ワークショップまで時間があるので、たるとさんが阿波踊り会館に連れていってくれた。

ここでは会館専属のプロ阿波踊りダンサーたちが常設ショーを毎日やっている。
40分くらいのショーだが、実に手慣れたもので、お客もそれなりに楽しめるようになっている。
もっとも、本物の阿波踊りの雰囲気はこんなものではない、とたるとさんは強調していた、ま、そうだろうな。
ショーの最後にお客もステージにあがっていっしょに踊るのだが、そのなかからユニークな人が3人ピックアップされて、首にレイをかけられ、あとで表彰されて記念品をもらった。
そのなかに同行のげろきょ野々宮が選ばれて、表彰状と手ぬぐいをもらっていた。
これには大笑い。

たるとさんの知り合いがやっている讃岐うどんの店〈やました〉に行く。
釜玉バターと天ぷらをもらう。
絶品。
追加で釜玉をもう一杯。

大満足のあとは、ワークショップ会場の〈ぶつだんのもり〉へ。
ここは去年のワークショップでも使わせてもらったところだ。
今回の参加者は少なめだったのだが、遠方からわざわざ来られた方が多かった。
京都、神戸、釜ヶ崎、奈良、高知の四万十川のほうからも。

現代朗読の考え方を確認しながら、群読エチュードをいくつかやる。
ひとつのテキストを回し読みするところからはじめて、複数で声を合わせて読むこと、お経みたいに読むこと、区切りで自由に参加したりしなかったりして読むこと、身体を動かしながら読むこと、より自由にみんなでひとつのテキストを読んで表現すること。
最初はぎくしゃくしていた人も、エチュードを重ねるにつれしだいに自由になっていき、最後は自分を開放して思いきり楽しんでおられた。
個別の疑問や悩みにもいくつか応えることができた。
みなさんからうれしい感想をたくさんいただいて、私もわざわざ徳島まで来たかいがあった。

会場を片付けてから、夜のライブ会場へ。
ここがまたびっくりするような素敵なレストランで、名前は〈花杏豆〉という。
広々とした店内は客席と、鉢植えやグッズがならんでいて、真ん中にはグランドピアノが置いてある。
なかなかよいピアノで、私もたっぷり弾かせてもらった。

まず食事してから、19時すぎから私がピアノを弾きはじめる。
ライブといっても、ステージがあるわけではなく、一般のお客さんも普通に食事に来られたりしていたので、いつものような雰囲気ではない。
なんとなく始めて、興味のあるお客さんには聴いてもらい、そうでない方は普通に食事をつづけてもらえばいい、という感じだった。
たるとさんが呼びかけてくれた方々はもちろんちゃんと聴いてくれたが、そうでない一般のお客さんたちもけっこう熱心に聴いてくれていた。

私がピアノでジャズのスタンダードナンバーや唱歌アレンジを弾いたりしたあと、野々宮、KAT、みぞれとげろきょメンバーでそれぞれ朗読。
たるとさんやワークショップ徳島メンバー数人に加わってもらって、自由に朗読。
高知から来られた小竹さんも朗読したり、踊ったりして参加。
とてもオープンな雰囲気のライブになって、魅力的な時間だった。

21時ごろ、ライブ終了。
みなさんから感想を聞かせてもらったり、追加で飲んだり、のんびりさせてもらった。

2013年6月15日土曜日

基礎講座6回終了

今日の午前中は現代朗読基礎講座6回シリーズの最終回。
基礎講座もライブワークショップも毎回そうなのだが、今回も印象深い6回となった。
参加者がじつにバラエティにとんでいて、ひとりひとりの資質やニーズがちがっている。
それなのに現代朗読という方法で臨機応変に、しかも整合性の取れた方法で進めていけたのが、私にとってもとてもうれしく自信にもなった。

基礎講座は現代朗読の考え方を示しながら、表現の本質について確認する座学と、呼吸法や身体作り、そしてエチュードを中心に自分なりの表現方法をさぐる手がかりを見つけてもらうことが目的だ。
最終回の今日はエチュードではなく、ひとりずつ順番に読んでもらって、ひとりひとりの気づきや問題点についてアドバイスをさせてもらった。
その過程で、聴く側には「共感的聴きかた」のエチュードを同時におこなってもらった。
この「共感的聴き方」を身につけることができると、朗読だけでなくあらゆる表現の場において、表現側と聴き手にゆたかな関係性をもたらすことができるようになる。
ぜひとも多くの人に身につけてもらいたい方法だ。

明日は徳島に飛んで、現代朗読のワークショップと、夜は徳島の皆さんもまじえて朗読ライブを楽しむ予定だ。
そして来週の土曜日からは「朗読はライブだ!」の第14期がスタートする。
いよいよ7月27日の「キッズ・イン・ザ・ダーク4」公演に向けて始動だ。

「朗読はライブだ!」の内容詳細はこちら

継続することのパワー

私は表向き、ピアニストであったり小説家であったり、現代朗読協会を主宰したり音読療法協会をオーガナイズしたり、絵を描いて個展を開いたりと、かなり器用な人間でなんでもこなせるように思われているフシがある。
実際、古い友人の榊原からは「きみはなんでもできるけど金儲けだけはできないんだね」としょっちゅういわれている。
私も自分のことを「器用なやつ」「器用貧乏」と思っていたことがある。
が、それは違うのではない、と最近は思いはじめている。

ピアノは小学校3年生のときからほぼ一日も欠かさず弾きつづけている。
文章は中学生のころから日記を含め、一日たりとも書かない日はなかった。
朗読とは、25歳くらいのときにラジオ番組の制作に関わるようになって以来、ずっと関わりつづけている。
音読も朗読と並行して社会との関わりのなかで試みつづけていて、とくに東日本大震災以降は普及に力を入れつづけている。
毎日、音読についてかんがえない日はないし、自分自身も呼吸法やマインドフルネス、共感的コミュニケーションを実践していて大いに役立っている。

とにかくピアノにしても小説にしても手を動かすことが好きで、スケッチも暇を見つけてはつづけている。

こうやって見てみると、いま現在私がいろいろおこなっていることは、昔から継続的におこなってきたことがいまだに続いている結果であり、途中でやめなかったからいろいろなことに手を広げているように見えてしまうだけなのだということがわかる。
だれでもわかることだが、ピアノの練習を一日に5分でもいいから毎日する人と、一週間に30分まとめてやる人とでは、大きな差が出る。

その差が眼に見えた形になっていくのは、数週間から数ヶ月かかるが、数年たったときにはもうその差は埋めがたいほど大きなものになっているだろう。
人生という数十年の長いスパンでとらえれば、なにごとかを継続することの重要性が浮かびあがってくる。

ピアノ演奏のような技術の面が多いものでなくても、呼吸法のようなものでも毎日やる人とやらない人とでは大きな差が出てくるのはまちがいない。
私は「器用な人間」ではなくて「なにかを持続することが得意な人間」なのだと思う。
では、なにごとかを継続的にしつこくやりつづけるにはどうしたらいいか。
これについては、項をあらためて書くことにする。

下北沢〈レディ・ジェーン〉朗読と即興音楽のライブ(ゲスト酒井俊さん)

下北沢の老舗ライブバー〈レディ・ジェーン〉で現代朗読パフォーマー野々宮卯妙の朗読ライブをおこないます。
ゲスト共演者として、凄腕ヴォーカルの酒井俊さんをお迎えします。ピアノは水城ゆうで、酒井さんも私もすべて即興で朗読とからみます。

◎日時 2013年7月14日(日)19:00開場/19:30開演
◎場所 下北沢〈レディ・ジェーン〉
◎料金 予約2700円/当日3000円+ドリンクオーダー

予約・問合せ
LADY JANE:03-3412-3947
BIGTORY:03-3419-6261
※「現代朗読協会からの案内で」とお伝えください。

レディ・ジェーンの大木さんから以下のようなエールをいただいてます。
「即興朗読を得てとするののと即興ディーバのしゅんの間に入ることは、前門の虎後門の狼な訳だから、みずは獅子奮迅す。」

夏の朝が好き

今朝、眼がさめて、窓をあけたとたん、夏の朝の空気を感じた。
一瞬にして「夏の朝」というクオリアに全身がつつまれる。
日の出はすぎているが、私の部屋からはまだ太陽は見えない。
この時間が私は一番好きだ。

この「夏の朝」は私のいろいろな場所と時間につながっている。
生まれ故郷の川べりの家の夏の朝の庭。
海辺の親戚の家で灯台まで歩いた夏の朝。
山のキャンプ場で鳥の声でめざめた夏の朝。
川のせせらぎ、カモメの声、漁船のエンジン音、カッコウ、風の音、蝉の鳴き声。

今日のこの瞬間は?
東京という都会のまんなかの夏の朝。
鳩の声が聞こえる。
近所の家から聞こえてくる朝のテレビニュースの音声。
窓から見える新宿方面はビル群は、もやがかかってかすんでいる。
梅雨時の雲がたれこめているが、晴れ間ものぞいている。
今日は暑くなりそうだ。

2013年6月14日金曜日

としのう「木とハーブわっくわく祭」に来ている

げろきょの面々と足立区の都市農業公園に来ている。
今日はあいにくの雨との予報だが、いまのところ降っていないし、空が明るいので降らない雰囲気だ。
降ってもたいしたことないだろう。

日榮さん、KAT、みぞれちゃん、菜穂子さん、てんちゃん、野々宮らといっしょに「木とハーブわっくわく祭」に参加するために来ている。
祭はほかにもいろいろな団体やバンドが参加していて、園内のあちこちで出店や演奏、ワークショップが開催されている。

私たちげろきょは園内の古民家をベースに朗読カフェをおこなっている。
みぞれちゃん、KAT、野々宮が焼いた菓子とお茶を希望者に100円でサービス、そのかたわらでみじかいテキストを読む。
そのほかに、園内の温室で朗読パフォーマンス「温室」をこれから挙行する。

いまのところ来園者がまだ少ないが、午後になればもうすこし人がやってくるだろうし、明日の土曜日はたくさんの人が来てくれるだろう。
荒川沿いのとても気持ちのいい公園なので、お近くの方はぶらりと立ちよっていただきたい。

2013年6月13日木曜日

テキスト表現ゼミの開催方式が変わった

現代朗読協会では朗読だけでなく、テキスト表現についても研究・実践する部会がある。
テキスト表現ゼミという名前で月に3回開催していて、ゼミ生だけでなく一般の人も参加できるようになっている。
一般向けには「次世代作家養成塾」という、いささかたいそうな名称になっているが、内容はおなじだ。
毎回、テーマが出題され、それにそって一定量のテキストを書いて提出する。

分量はすくない。
少量のテキスト量でとぎすまされた世界観と自分の存在を表現できるようになれば、いくらでも長いものは書ける、という事実にもとづいてこれは設定されている。
その逆はない。
長編を書ける者がすぐれた短編を書けるとはかぎらない。
長編を書けても短編を書くことはできない。
逆にすぐれた短編を書ける者はすぐれた長編を書くこともできる。

テキスト表現ゼミでは短いテキストを手を抜くことなく全力でどんどん書いていくことによって、書く力をつけると同時に表現のクオリティをあげていくことをめざしている。
どのような表現でも、まずは質、それから量、という順でトレーニングすることが望ましい。
その逆ではない。
集中力を欠いたものをいくら大量に書いたからといって、質が向上することはめったにない。

月に3回、羽根木の家で開催していたテキスト表現ゼミだが、今月から月に1回になった。
そのかわり、バーチャルゼミというか、ネットミーティングを利用したオンラインゼミを、ほかに2~3回、開催する。
もともとリアルゼミでもオンライン参加は可能だったのだが、さらにネットミーティングを積極的に活用しようという方向だ。
これなら全国、いや全世界どこからでも参加できる。
Google+のHangoutというネットミーティング機能を利用するので、無料で10名まで同時に参加できる。
興味がある方はまずは見学からどうぞ。
申し込み・お問い合わせはこちら

2013年6月12日水曜日

もうすぐ二回めの徳島ツアー

全国津々浦々すべからく訪ね歩いたというわけでもないけれど、日本のどこに住みたい、と訊かれたらその候補のかなり上位に徳島が来るだろうと思う。
四国はどこも気候が温暖で、寒いのが苦手な私にはどこも住みやすそうだが、瀬戸内側は水不足が心配だし、太平洋側は台風が心配だ。
しかし、徳島は瀬戸内ではないので水不足はなく、しかも微妙に黒潮が洗う太平洋から淡路島のほうに食いこんでいるので、高知県ほど台風の被害はないらしい。

海産物は豊かだし、農産物も豊富だ。
うどん県の香川も隣なので、私の大好きな讃岐うどんだって食べられる。
四国四十八カ所めぐりの始点でもあり、歴史や文化もある。

というようなことを、去年の夏、現代朗読のワークショップのために徳島をおとずれたとき、知った。
いやー、ほんとにすばらしい土地で、人々の性格も明るく楽しかった。
徳島にはげろきょゼミ生のたるとさんが住んでいて、五年くらい前からずっとオンラインで参加しているのだが、一度徳島まで直接ワークショップをやりに行きたいと思っていた。
それが去年、実現したのだ。

今年もうれしいことに、行けることになった。
やはり現代朗読のワークショップを昼間にやって、夜はレストランでライブをやる予定だ。
先日、京都で法然院の住職にお話をうかがったとき、住職の父上も徳島生まれとのことで、よく行かれるらしい。
京都から2時間ちょっとですよ、と聞いてびっくりした。
たるとさんからも聞いていたことだが、徳島は関西圏なのだった。
京都、大阪、奈良、和歌山、神戸などはまったくの近距離だし、もちろん香川、高知は隣県でもある。
淡路島なんかほんの鼻の先に見える。

というわけで、来たる6月16日(日)に東京から私をはじめ現代朗読協会の面々が徳島に行くので、お近くの方はぜひお会いしましょう!
あ、もう今週末だ。
徳島ワークショップの詳細はこちら

2013年6月11日火曜日

もうすぐライブワークショップ第14期

私が朗読者とのライブセッションを初めておこなったのは、1985年のことだった。
じつに28年前のことだびっくり。
名古屋在住の俳優で朗読者の榊原忠美と、福井の〈松木屋〉という楽器屋の上にあったミニホールというかレンタルスペースのようなところで、即興セッションをおこなったのがこの始まりだ。
私はピアノを弾いた。

その後、このユニットは造形作家や演奏家をゲストに迎えたり迎えなかったして、福井、名古屋、金沢、岐阜、豊橋、大阪、東京など、さまざまな場所でさまざまなことをやってきて、いまにいたる←現在進行形。

いろいろ経緯はあるのだが、2006年に現代朗読協会設立。
コンテンポラリー表現としての朗読を研究・発表する場が本格的にスタートした。
なかでも力をいれたのが、朗読は音楽やダンスと同様の「ライブ表現」であろう、そしてそれは人と人のあいだに起こること、すなわちコミュニケーションの一形態に違いなかろう、というかんがえのもとでの研究だった。
そして「朗読はライブだ!」という名称のワークショップが5年前にスタートした。

途中、やり方が変わったりしたこともあるが、基本的に週に1回3時間のワークショップを6回、それで完結して、最後は実際にお客さんを読んで朗読ライブを開催する、という形に落ちついた。
最初はたった6回でまったく朗読をやったことがない人や、ステージに立った経験のない人が、ひと前でライブ公演などやれるようになるのだろうか、という危惧があったし、それは私だけでなく参加する人もそうだったろうと思う。
実際には杞憂だった。

これまで13回開催してきたが、どのライブも印象深い。
初期のころは、豪徳寺にあった地下音楽スタジオで開催したり、幡ヶ谷の〈アスピア〉というレンタルスペースを借りたりしていた。
その後、げろきょの活動拠点が〈羽根木の家〉に移り、そこの座敷でもライブをやるようになった。
そして去年からは、明大前の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で最終公演を挙行するようになった。
去年の夏、暮れ、そして今年の4月と開催し、次は7月27日を予定している。

キッド・ホールでやるようになってから、公演はワークショップメンバーだけでなく、ゼミ生たちも加わって、いわばげろきょ公式公演としておこなうようになった。
ワークショップメンバーもゼミ生も一体となって朗読パフォーマンスを作りあげ、またお客さんとも一体となってライブ公演をおこなう。
非常に熱い表現の場が毎回あらわれる。
日本で唯一(ひょっとすると世界でも唯一?)、コンテンポラリー朗読表現が目撃できる場であり、それは毎回だれも見たこともないものだ。
私たち自身ですら見たことがないし、なにが起こるか予測できない。

まったく表現活動をしたことがない方も歓迎だ。
人は生きていく以上、かならずなんらかの形で表現したり、コミュニケートしている。
そのことの本質と、未知の自分自身のことを、この「朗読はライブだ!」ワークショップで発見できるだろう。
ただし、自分自身を変えたくない、このままで満足している、という方は参加をご遠慮いただきたい。

「朗読はライブだ!」ワークショップの詳細はこちら

ひさしぶりのFM福井

来月の福井県立病院でのピアノコンサートについて話をさせてくれるというので、FM福井まで行ってきた。
この局へはたぶん15年ぶりくらいの出演だが、あまりに変わっていなくてびっくりした。

私がFM福井の番組に初めて出たのは、1985年の年明けのことだったと記憶している。
ビーちゃんというドラマーとフリージャズセッションを美術館や街のイベントでやっていて、それを情報番組で紹介してくれるというので、ふたりでのこのこ出かけたのだ。
土曜日のたしか「情報パック」という番組だったと思う。
司会は局アナの黒原真理さんと黒川くんだった。
番組での私のしゃべりっぷりがおもしろかったらしく、当時ディレクターをやっていた杪谷さんからまた番組に出ないかと誘われて、番組制作にも関わるようになった。

省略するが、それがきっかけで朗読パフォーマンスと関わるようになり、いまの現代朗読協会があるといってもいい。
いわば私の音声表現の仕事の原点のような場所だ。

今日声をかけてくれたのはアナウンサーの飴田彩子だが、担当アナウンサーは藤田佳代という若手の人だった。
FMの局アナにはあまりいないタイプの、ちょっと芯のある深い声をしていたので、なにかスポーツをやっていたのかと尋ねてみたら、砲丸をやっていたという驚きの答え。
道理で。
コアマッスル(体幹)がたいへんしっかりしている声なのだった。

番組は15分くらいの枠で、現代朗読のことや、県立病院でおこなうピアノコンサートについて気持ちよく話させてもらった。
藤田さん、飴ちゃん、ありがとう。
オンエアは来週火曜日とのことだった。
何時なのかは聞き漏らした。
FM福井のタイムテーブルはこちら

2013年6月10日月曜日

福井県立病院・夏のピアノコンサートのお知らせ

ご好評をいただいている福井県立病院でのソロピアノ・ミニコンサートをまたおこないます。
前回は2013年4月に春にまつわる曲などを中心に、エントランスロビーに置いてあるグランドピアノを演奏しました。
今回はどなたもよくご存知の日本の夏の唱歌や童謡などの懐かしいメロディーを、私なりの自由なアレンジでお送りする予定です。

どなたも自由にお聴きいただけます。

◎日時 2013年7月8日(月)13:30〜14:30
◎場所 福井県立病院受付ロビー(エントランスホール)
    福井市四ツ井2-8-1
◎料金 無料

福井は私のふるさとですが、活動拠点を東京に移して以来、福井で演奏する機会はあまりありません。
今回も貴重な機会を大切にしつつ、みなさんとのトークを交えた気軽で楽しいコンサートにしたいと思っています。

ちなみに水城ゆう最新CDはこちらから聴けます。
ダウンロードしなくても全曲試聴可です。ダウンロードは有料となります。

『ストリーム』第四章1

  第四章 手乗り十姉妹



   1

 十姉妹《じゅうしまつ》の雛《ひな》が孵《かえ》ってちょうど一週間たった日、私は学校から帰るとさっそく雛を巣から取りあげた。
 初夏の梅雨前の時期だったと思う。寒さで雛がやられる心配がない季節だった。
  雛は全部で四匹いた。親鳥を巣から追いだし、まだ羽毛が生えそろっていない雛を一匹ずつ慎重につまみあげ、手元の「ふご」のなかへ移していった。
 四匹を全部ふごへと移しおえると、蓋を閉め、保温のためにそれを自分の勉強机の引き出しのなかにしまった。
 雛たちはおとなしく、ピイとも鳴かずにおとなしくしていた。親鳥はさすがにしばらく騒いでいた。雛がいなくなったせいで、バタバタと飛びまわり、しきりに警戒の声でさえずったり、巣を出たりはいったりした。が、それもほんの十分か二十分のことで、すぐにおとなしくなった。まるでそこにまだ雛がいるかのように番で巣にはいってしまった。
 翌日には親鳥たちは昨日まで雛を育てていた事実がなかったかのように、ごく普通に巣を出て餌をついばんだ。そのようすを見て「薄情だな」と思ったけれど、記憶も想像力もない小鳥のことだから当然だとも思った。彼らはただ、目の前の現実に対応して懸命に生きているだけなのだ、と。
 ふごに移した雛鳥の世話を、私は用意周到にはじめた。
 まずは餌やりだ。餌は粟をお湯でふやかし、冷ましてぬるくなったころを見計らって、耳かきで雛たちにあたえる。ふごの蓋をあけると、雛は親鳥が餌をやりにきたのだと勘違いするようで、パッと眼をさまして反応し、粟を盛った耳かきで嘴《くちばし》をつついてやると反射的に口を大きくあけた。そこへすかさず耳かきごと粟を突っこんでやる。
 最初はおっかなびっくりやっていたので、餌がこぼれおちたり、うまく口のなかにはいらなかったりしたが、すぐにコツが呑みこめてきた。思いきって喉の奥まで耳かきごと突っこんでやればいいのだとわかった。人間とちがって、喉の奥までものを突っこまれても、雛たちは苦痛は感じないらしかった。
 ちいさな粟粒《あわつぶ》といえども耳かきにはせいぜい五、六粒しか盛れなかったが、それをどんどん雛たちの口の奥へと突っこんでやるのだ。四匹いる雛にまんべんなく、えこひいきのないように餌をやる。
 首の付け根にある餌袋にどんどん粟粒がはいっていき、ぱんぱんにふくらんでくる。それが満杯になると、雛たちは自然に口をあけなくなる。そうなるまでどんどん給餌してやるのだ。

2013年6月9日日曜日

音読療法の有効性を確信、自分を大切にしながら表現する、楽しいリズム読み

今日は北陸の実家に帰省。
新緑がさわやか。
田んぼの稲もすくすくと育っている。

一昨日の金曜日は、旅行で長く家をあけている友人宅まで、鉢植えの水やりに出かけた。
そのあと、午後は二子玉の老人ホーム〈玉川すばる〉に行き、音読ケアワークの補助。
KATと野々宮のふたりがファシリテート。

音読療法はやるたびにその有効性と必要性を確信・確認する。
呼吸、音読、そして共感的コミュニケーション。これらがセットになって、現代社会のなかでイキイキと生きていくための強力なツールとして有効だ。
実際、私自身も非常に役に立っている。
この方法をもっともっといろいろな人に伝えていきたい。
これで救われる人がたくさんいると確信している。

夜は中野スウィートレインで「ののみずライブ」
レポートはこちら

昨日の午前中は現代朗読基礎講座の5回め。
なにか表現したり、自分の好きなことをやろうとしたとき、つい外側からどう思われるか、どう見えるか、どういわれるかを想像してしまって表現がすくんでしまったりできなくなってしまう、という問題をどのようにかんがえ、解決していったらいいかについて、かなりの時間をさいてみんなでかんがえた。
後半はリズム読みのエチュード。
これはなかなか楽しく、しかも複雑でおもしろかった。

午後は昼ゼミ。
ここでもリズム読みのエチュードをやってみる。
もっと深めてみたいエチュードだ。

演出ゼミ、そして夜はテキスト表現ゼミ。
テキスト表現はオンラインゼミの日だったが、奥田くんが MacBook Air を買ったばかりで使い方を教えてほしいというので、急きょリアルゼミに変更。
とはいえ、KATはオンライン参加。
奥田くんにMacの使い方をいろいろと教えこんだ。

2013年6月8日土曜日

中野スウィートレインでの「ののみずライブ」

昨日の夜は中野〈スウィートレイン〉で、現代朗読の野々宮卯妙と、私の即興ピアノによるライブだった。
それと、山田みぞれのスウィートレイン・デビューセッション。

今回のライブはちょっと特別な感じだった。
なにを読もう、というとき、いくつかの案が出たが、最終的に決まったのは私の書いた朗読テキスト「記憶が光速を超えるとき」だった。

これは2010年3月に中野の〈plan-B〉というスペースでおこなった榊原忠美との朗読パフォーマンスのために書きおろしたテキストだ。
その後、榊原とは何度かこのテキストでやっているが、ほかの朗読者でやったことはない。
しかも今回は女性朗読者。
テキストは中年のおやじのひとり語りとして書かれている。
はたして成立するのか。

19時前にスウィートレイン入りして、マイクやPAの調整、そしてピアノと自分の身体をなじませる。
え、こんなに鳴ったっけ、というほど、ここのピアノはよく鳴るピアノ。
繊細な音を出す方法を試行錯誤する。

19時半すぎになると、お客さん(といってもほとんどが知り合いだが)がぼちぼちとやってきた。
ゼミ生の美子さん、KAT、バンガードさん、そして「表現よみ」を提唱されている渡辺さん。
川橋さんと、いつものizaさんも来てくれてうれしい。

開演ギリギリにみぞれちゃんが来たのだが、私にプレゼントをくれた。
私は勝手に「げろきょボス蛙」と命名したのだが、ピアノと蛙と蓮の花、そして譜面台には「カエルの歌」が乗っている、小さなかわいいフィギュア。
なんてうれしいサプライズ。

20時に第一部開演。
まず私のピアノソロから。
夏の曲をやりたいと思って、「われは海の子」のアレンジを演奏。
そのあと、野々宮卯妙と「記憶が光速を超えるとき」を一気にやる。
いやいや、おもしろいではないか。
私もマインドフルに集中できて、濃密に表現できた。

休憩をはさんで、第二部。
アタマはピアノソロ、というリクエストが来たので、なにもかんがえないまま、みぞれちゃんからもらった「げろきょボス蛙」をイメージして、「カエルの歌」を即興アレンジで。
そして野々宮がはいって、「記憶が光速を超えるとき」の後半。
もともと「沈黙の朗読」として作られたものなので、後半は沈黙が長くなっていった。

このようなライブハウスで、一連の流れがあるテキストを読むということはめったにない。
ホールなどの公演では普通だが、ライブスペースでやることはめずらしい。
しかし、こういうのもおもしろいかもしれないと思ったし、ひょっとしてやりようによってはあたらしい展開を作れるかもしれない。

第三部は、まずはみぞれちゃんのひとり朗読。
小川未明の全然怖くない話を、怖く読む。
私ももちろんそれに協力。
つづいてみぞれちゃんと野々宮のデュオ朗読による「I am Foods」と「I am Sports」というネタテキストの朗読。
これは若干みんなに引かれたかなあ(笑)。

最後は事故で入院されている板倉克行さんと野々宮が一緒にやっていた「万葉集」の朗読を、私と。
板倉さんに思いをはせながら演奏する。
早くよくなって帰ってきてくれることを祈っている。

とてもおもしろいことが進行中の私たちのパフォーマンスを、どうやって似たような興味を持っている人たちに届けることができるのか、それがいまの私の課題だ。
多くのアーティストは、彼が亡くなってから認められるという例が少なくないけれど、私はそんなのはいやだなあ、ちょっと寂しい。
できれば、いま現在、私たちがおこなっているこのおもしろいことを、いくらかの人たちに届け、知ってもらいたいというささやかな希望を持っている。
大それた希望ではなく、ささやかな希望だと思うんだけど。

2013年6月6日木曜日

朗読と「共演」するということ

現代朗読協会の体験講座やワークショップなどで「主宰者である私自身は朗読をしない」というと驚かれることが多いのだが、演出、そして共演者としておなじステージに立つことが多い。
げろきょの朗読者がやるときはもちろん、外部の朗読者からピアニストとして共演依頼を受けることもある。
たぶん、私ほど朗読者との共演が多い演奏家はほかにいないと思う。
しかも「伴奏」ではなく「共演」という立場でやる。
依頼を受けるときも、そのことを理解いただいた上で受けるし、私に依頼する人は最初からそのことをわかっているだろう。

共演というのは、ピアニストとして朗読者とおなじステージに立つ、ということだけではなく、演出として関わる、ということも意味している。
朗読演出をやる人は何人かはいると思うが、私の場合は現代朗読の演出家としてかかわる。
それは、演出としてのこちらのイメージを一方的に押しつけるのではなく、本人すら気付いていない朗読者の資質や魅力を引きだし、マインドフルな状態で即興的に読めることの楽しさに気付いてもらう、という方法をとる。
その場合、私の側に「こう読んでほしい」というものは一切ない。
「どう読みたいのか」「どう読めるのか」「どんな読みになるのか」という問いを立てつづけることが、私の演出法だ。

その上で、おなじステージに立つ。
ピアノを弾く私にとって、あらかじめ企まれたものは最小限しかなく、また朗読者がどのように来るのかも予想できない。
なにしろそのように演出しているわけだから。
フリージャズのセッションのように、おたがいにあらかじめ企んだものを一切捨て、「いまここ」のマインドフルな自分で瞬間瞬間を大切にとらえていく。
なにが起こるかは私にも、共演者にも、そしてオーディエンスにも予想はつかない。

もっとも数多い共演のチャンスを持っているのは、最近では現代朗読の野々宮卯妙だろう。
かつては榊原忠美と多くのセッションを持っていたが、なにしろ名古屋在住なのでそうそう頻繁に共演はできない。
ほかにもしばしば共演していた朗読者は何人かいるが、残念なことに遠方だったり離れていったりした者もいる。

しかし、現代朗読のメンバーがたくさんいて、共演のチャンスは野々宮以外にもたくさんある。
最近のメンバーのなかには、自分でも朗読ライブをやりたいと思っていても、なんとなく気がひけたり遠慮したりしているような気がする。
そんな必要はまったくない。
共演依頼をいただくと、私はピアニストとしても演出家として自分の能力を発揮し、ともにステージを作る表現とつながりのニーズを満たすことができて、とてもうれしいのだ。
遠慮なく共演依頼をしてほしい。

明日の夜はまた野々宮卯妙と中野〈スウィートレイン〉で「ののみずライブ」をおこなう。
今回は野々宮は初朗読になる私のテキスト「記憶が高速を超えるとき」をやる予定だ。
また、最後のほうではゼミ生の山田みぞれにも参加してもらって、楽しくシメようと思っている。
もちろんどうなるのか、どんなことが起こるのかはまったく予想できない。
予測できないことが苦手な人はおいでにならないほうがいいだろう。
人生は偶有性に満ちたものであり、それを受容し楽しんでいる人においでいただきたいと思っている。
詳細はこちら

2013年6月4日火曜日

法然院での朗読会が決まった


京都在住の琵琶奏者・片山旭星さんのご紹介で、法然院での朗読会が今日決まった。
法然院では本堂、大書院、方丈など、ライブをやれる場所がいくつかあるが、今回は方丈を使わせてもらうことになった。
9月16日(月/休日)。

出演は琵琶の片山旭星さん、現代朗読の野々宮卯妙、そしてキーボードその他の私の3人。
夕刻からスタートして、しだいに夜が降りてくる法然院の庭を背景に、朗読と音楽演奏によるライブをおこなうことが決まった。
とても楽しみだ。

方丈は100名から150名くらい入れようと思えば入れられるということだが、とても京都でそんなに集客できるものではない。
が、いろいろな方に協力をお願いして、できるだけたくさんの方に来ていただきたいと思っている。
そしてその翌週の9月23日は「沈黙の朗読」と、扇田拓也くんとの共同ワークショップの最終ライブ「物語と自我」の公演をひかえている。
また、栃木県での収穫祭にワークショップとライブのために出かける話も持ちあがっている。
とても濃い9月になりそうだ。

スコット邸でのサロンコンサート

京都修学院にて、熟睡してすっきりと目がさめた。
今日も梅雨はどこへやら、すっかり晴れわたって、日中は30度以上になるという予報が出ている。
昨日はスコット邸でサロンコンサートだった。
いやいや、楽しかった。

あるじの雅子さんがちょちょいと手料理を作って、ほんの数時間でパーティー料理の品々が出てきたのには驚いた。
本人いわく、こんなのはまだまだ序の口で、全然本格的ではないとか。
写真には写っていないが、これの倍ほどの数々と、メインのカレーも最後に出てきた。

夕方6時くらいに平田くんが来た。
平田くんは実家がこのすぐ近くにあるのだ。
歩いて来れる距離らしい。
さっそく近所のコンビニまでお使いを頼む。

NVCを学んでいる、やはり近所のゆつきさんも来る。
楽しい方で、人にたいしてまったく壁がない。
どんどん話がはずんでしまう。
このあと、どんどん人が集まってきたのだが、ゆつきさんに任せておけば座がしらけないので安心。

雅子さんの友人、知り合い、間接的な知り合いのみなさんが続々とやってきた。
始まる前は数人くらいのこじんまりした集まりだろうといっていたのに、20人以上おいでいただいて、さすがのスコット邸のサロンもぎっしり。
そしてまずは軽食と飲み会。
すでにそこで盛り上がること、盛り上がること。

かつて宇宙物理学者で、最近までコンピューターネットワークの仕事にたずさわっていたというイングランドの方とか、お医者さんとか、クラシックギタリストとか、ワインを作っている若者とか、エステティシャンとか、ボサノバ歌手とか、それはもう多彩な顔ぶれで、話がつきない。
無理やり仕切って、ライブタイムへと移行する。

まず私がピアノで一曲弾き、そのあと野々宮卯妙が梶井基次郎の『檸檬』を朗読。
つづいて野々宮と平田くんがフリーのかけあい朗読で『方丈記』の冒頭をやる。
そのあとはみなさん自由に出入りしてのジャムセッションのような流れに。
クラシックギタリストの溝渕さんの演奏も、雅子さんのイタリア歌曲の歌唱も、心打たれるものだった。

終電がある人は11時すぎには帰っていったが、ほとんどの人は近所か、車で来ていたということもあって、お開きになったのは午前1時すぎだった。
みなさん、本当に明るく、人とのへだたりのない楽しい方ばかりだった。
これをきっかけに、京都でも朗読や音楽をはじめとする表現や、共感的コミュニケーションの勉強の場が、ある程度継続的に開催していけるといいなあと思う。

2013年6月3日月曜日

京都へサロンコンサートに来た

今日は京都に来ている。
修学院の近くにあるスコット邸でサロンコンサートを開催してくれるというので、私のピアノと野々宮卯妙の朗読、あるじのスコット雅子さんと声楽家の方、ほかにボサノバ歌手や朗読の方も来られて、音楽と朗読をみんなで楽しむことになっている。
雅子さんは野々宮のいとこで、最近仕事をやめてフリーになったので、こういうイベントをやろうということになった。

東京からわざわざゼミ生の平田くんも来てくれる。
彼は偶然、この近所に実家があって、いまでも月に一度は帰っているとのこと。
とはいえ、今日のイベントに合わせてわざわざ帰省してくれたのだ、ありがたい。

スコット邸は東山のふもとの高台にあって、京都の町を一望できる。
夜になればさぞ夜景がすばらしいと思われる。

私はこういうサロンコンサートとか、病院のロビーとか、老人ホームの集会室とか、聴いてくれる人と距離が近いところでやることが好きだ。
ライブハウスも近いが、それはプレイヤーとお客さんという関係がはっきりしていて、サロンとはちょっと違う。
できれば一方的に音楽を聴いてもらうだけでなく、話をしたり、レクチャーもまじえたりできるとうれしい。

レクチャーは音楽のこと、朗読のこと、あるいは共感的コミュニケーションのことなど、たくさん伝えたいことがあるし、コミュニケーションのなかでおたがいに気づいたり学んだりできればもっとよい。
そういうサロンをある程度継続的にやりたい、ということを雅子さんに伝えたら、彼女もよろこんでくれた。

京都は地の利がいいので、近隣の人も京都リトリート的なとらえ方で、一泊するつもりで来てくれるといいな。
大阪、滋賀、岐阜、名古屋、静岡、福井、石川、富山、兵庫、徳島、香川あたりまでカバーできるんじゃないかと思っているのだが。
もちろんもっと遠いところから来てもらってもいいが。