2010年12月31日金曜日

ウェルバ・アクトゥスとはなにか

ウェルバ(Verba)とは、ことば、音声、言語といった意味。
アクトゥス(Actus)とは、行為、行動、動きといった意味。私たちは「表現行為」という意味で用いる。

「ことば」を「表現」する行為としては、朗読、演劇、歌(音楽)などいろいろあるが、私たちは朗読を中心にかんがえている。
朗読は「すでに書かれたことば」を表現の材料として用いる。「書かれたことば」は文学作品であったり、朗読者が書いた詩であったり、あるいはその他さまざまなものであったりするが、それを手に持ってそのとおりに読む、ということにおいて、朗読は演劇などとは異なる。
ウェルバ・アクトゥスでは「朗読」という表現行為の「枠」を大きく広げようとしている。あくまで書かれた「ことば」から出発するのだが、行き着く先、すなわち表現の場においては、ことばが「身体化」「実体化」される。

ウェルバ・アクトゥスが「書かれたことば」を用いる理由は、「ことば」といういわば記号=バーチャルなものを、「表現」という身体=リアルなものに立ちあげていく、その過程を重要視するからである。
表現の過程において私たちは、できるだけ既成概念をリセットしたいと思っている。すなわち、「朗読はこうあらねばならない」とか、「ステージはこんな感じ」といったなんとなく思いこんでいるものを捨て、自由な発想であらゆるものを取りいれてみる。
かつては分類されていなかったはずの「ひとの表現」が、現代においては細かく分類され、ジャンル化されているが、それをゼロリセットし、再融合をめざす。音楽、演劇、ダンスといった表現ジャンルを取りいれることを試みる。文学や美術などからもインスピレーションを得ることを試みる。

これら異質な表現者が、おなじ場で互いにコミュニケーションを取り、融合した表現をおこなっていく。そのためには、個々の表現者の表現クオリティが高度であることが望ましい。そのために私たちはウェルバ・アクトゥスのワークショップという学びの場を作り、お互いに磨きあうことを継続的におこなう。
よく誤解されるが、表現クオリティを高めるというのは、なにか特別な技術を磨き、だれにもできないアクロバティックなことができるようになる、ということではない。むしろその逆といってもいい。私たちが成長、加齢の過程で身につけてしまった思いこみ、身体の癖,感受性の癖を自覚し、それらをリセットしていくこと。子どものようにフレッシュでリアルな感性を取りもどすこと。子どものように毎日驚きに満ちた時間をすごすこと。そのためにマインドフルネスを学ぶ。
表現の場においても、子どもが歌を歌ったり絵を描いたりするときのように、純粋な内的動機を発見し、その表現を人と共感・共有する喜びをめざすこと。
そのために必要なことは、こだわらずになんでも取りいれてみる。
原始、人が表現することを始めたとき(それは純粋表現とでも呼ぶべきものだっただろう)、歌、踊り,演奏、朗唱、ペインティングなどの「区別」を意識しながらおこなっていただろうか。ただ人は自分の望む方法を用いて表現することで、純粋に自分を他者に向けて伝えようとしたのではないだろうか。
ウェルバ・アクトゥスではその原初的な表現欲求を私たちのなかに再発見し、共有したいと願っている。ジャンルの壁を超越し、自由に融合しあい、異質なものが響きあう道を私たちは探す。

「異質なものが響き合う」とは、たとえばこういうことだ。
ダンスは言葉を(基本的には)使わないが、朗読と融合できないわけではない。ダンスは「身体運動」ということばをつむいでいるし、朗読は「テキストを読む」というダンスを踊っているともいえる。
ピナ・バウシュはダンサーに語らせるが、「語る」という行為そのものをダンスのひとつとしてとらえている証拠だろう。その地平において朗読者もダンサーであるといえる。
音楽は「演奏する」ことで物語をつむいでいるし、朗読は言葉で音楽を奏でている。
絵画も音楽的であったり、物語を語ったりするし、朗読もまた絵画を描くことができる。
このようにすべての表現は原初的表現衝動において、ジャンルを超え、融合して響きあうことはできる。

ウェルバ・アクトゥスの活動では、「公演」や「ライブ」などの表現の現場は最終ゴールではない。そこに至る過程そのものがウェルバ・アクトゥスの活動といっていい。
したがって定期的に開催されるワークショップが活動の中心になる。
ワークショップでは私たちが無意識に身につけてしまっている考え方や身体運用や感受性やコミュニケーションの癖を自覚し、リセットするために、いくつかの方法を用いる。
たとえばNVC(Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)というコミュニーション方法であり、またアレクサンダーテクニークという身体運用の方法である。またコンテンポラリーアートのひとつとして朗読をとらえる現代朗読の方法も用いるし,現代演劇の方法を使って身体作りをおこなったりもする。
これら学びの場であるワークショップは、日常生活と接続しているし、また表現の現場である公演やライブにも接続している。ワークショップで学んだこと/気づいたことを日常生活に取りいれれば、生活も変わるし、また表現も変わる。そのように両足で一歩ずつ階段を上るようにして表現/身体のクオリティを高めていく。その結果として、公演やライブでもクオリティの高いパフォーマンスが可能になる。
ダンサーがダンスという言語活動を高めるために毎日身体トレーニングを欠かさないように、ウェルバ・アクトゥスのパフォーマー(朗読者)もまた朗読というダンスの質を高めるために、日常でのトレーニングを欠かせない。

現代社会ではすべての表現ジャンルが細分化され、商業化されて、袋小路にはいりこんで行き詰まり、息苦しい閉塞感に包まれている。
その閉塞感を解放するには、異質なジャンルを再融合させ、ふたたび風通しをよくしてあたらしい世界の風景を呼びこむことしかない。
そう、世界は私たちが気づかないうちに、すでに風景を一新させている。私たちにその風景を見えなくさせている壁を取りはらい、広々と風通しのいい場所をふたたび作りたい。多くの人が共感を共有できる場所を作りたい。
それがウェルバ・アクトゥスの望みであり、目的でもある。

2010年12月30日木曜日

2010年を振り返る(もう過ぎたことではあるけれど)

今年も長いながい一年だった。
毎年書いているような気がするけれど、年齢を重ねるにつれ時間の流れ方がゆっくりになり、一年がとてつもなく長く感じる。逆のことをいう人が多いのだが、私は違っているらしい。マインドフルネスの修行のせいかもしれない。
マインドフルネスにおいては過去をくよくよせず、未来をたくらまず、現在を生きることが大切なのだが、それはちょっと置いておいて、一年をざっくり振り返ってみる。

念頭に「祈る人」というプロジェクトをスタートさせた。それはいまも継続中だ。今年の後半は名古屋が忙しくなってあまり「祈る人」の活動を深められなかったが、2011年はさらに展開させたい。
その名古屋のイベントである「ウェルバ・アクトゥス・アート2010」は、2009年暮れからすでにスタートしていて、2月からはワークショップや企画会議が本格的に動き出した。これはつい先日までつづいた。2011年の活動も、すでに準備がはじまっている。
小学校や中学校での朗読公演もいくつかおこなった。演目は「Kenji」と「ホームズ」。「ホームズ」は世田谷文学館からの依頼であらたに作られた演目で、初演は世田谷区立上祖師谷中学校だった。
3月には「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき」という公演を、中野のライブスペース〈plan-B〉でおこなった。これは名古屋ウェルバ・アクトゥス・アート公演でも「特殊相対性の女」とペアで再演された。2011年も「沈黙」をキーワードにした朗読をさらに追求していきたいと思っている。

東松原のレストラン〈スピリット・ブラザーズ〉では、オーナーの人見氏の呼びかけで、児童養護施設の子どもたちを招いての食事とアートパフォーマンスのボランティアイベントがスタートし、現代朗読協会もそれに参加した。2011年も継続することが決まっている。さらに関わりを深くして私が全体をコーディネートする形で継続することになる予定だ。
6月には名古屋千種小劇場で「初恋」が再演された。ツルゲーネフではなく、私の作品である。
9月から11月にかけて、世田谷芸術百華に参加したワークショップとライブのイベント「Kenji」がおこなわれた。
9月には演劇と朗読と音楽をひとつのステージに乗せた「特殊相対性の女」を初演。
また、芥川龍之介のテキストを使ったエンタテインメント朗読パフォーマンス「朗読とマジックのある食卓」も開催した。
そして12月には名古屋の愛知県芸術劇場小ホールにて、「Ginga」「沈黙の朗読」「特殊相対性の女」の3演目4公演という大きなイベントが開催され、長い一年の締めくくりとなった。

やりすぎだね(笑)。
2011年はもう少し腰を据えて、アウトプットを絞りこんでいこうと思う。とくに、私個人のアウトプット/活字・音楽・映像といったものをじっくりと作っていく時間を確保したいと思っている。
とりあえずは、ウェルバ・アクトゥス/現代朗読についての論評をしっかり出していきたい。

2010年12月29日水曜日

ダンサーとの音楽会話

20歳前後にジャズという即興音楽にのめりこんで以来、ジャンルにとらわれず即興系の音楽に取りくんできた。一種の異種格闘技のような経験を積んできた。私のポジションはピアノ、ときにシンセサイザーなどのキーボードだったが、相手はいろいろだった。
もちろん多種多様な楽器と格闘してきた。サックスやドラムスなど、普通のジャズ楽器などはもちろんのこと、尺八や篠笛などの邦楽器、馬頭琴、ビリンバウ、二胡などの民族楽器、そして楽器ですらないものとの格闘もたくさん経験した。演劇、現代美術、写真、そして最近はもっぱら朗読。
朗読は音楽と同様、音声表現なので、ほぼ音楽的感覚としておなじ土俵に立つことができる。私にとってはまったく違和感はない。いつも楽しくやらせてもらっている。
が、音声表現でないものも魅力的だ。
「特殊相対性の女」ではスライドで映写された写真を見ながら演奏するということをやった。写真はに風景や人物のほかに、美術作品も多く含まれていた。
そして私が一度やってみたいと思っていたのが、ダンスとの共演だった。

昨夜、現代朗読協会のアレクサンダーテクニーク講座に、参加者のひとりが知り合いのダンサーを連れてきてくれた。
ミナル(Minalu)というアースダンスの方で、即興でも踊るという。
講座が終わってから、ピアノとダンスで会話してみたいとお願いしてみた。
ミナルさんは快く承知してくれて、羽根木の家の座敷で踊りはじめてくれた。私はミナルさんの動きを見ながら、ピアノを弾いた。音声に反応するのではなく、人の身体の動きや身体に反応して音を出す。一度やってみたかったことだが、これはなかなか楽しい会話だった。
地面や空と交流するような、過去と現在をつなぐようなミナルさんのゆったりとした、どこかなつかしいおだやかな動きに触発されて、私もピアノを弾いた。
動きは時に止まるかのようにゆっくりになるかと思えば、大きな強く動く時もある。
それに反応して音で返していくのは楽しかった。ミナルさんもまた私の音に反応して動いてくれていた。
言葉による意味をたどる会話ではないけれど、異質なもの(人)が共感する時間と場所が生まれたように感じた。ほんの短い会話だったが、深い感触が残った。
初めての踊りとの音楽会話だった。できればもっとやってみたい。もっと長い会話もやってみたい。ダンス、朗読、音楽、という組み合わせもおもしろいだろう。
ただし相手は「会話」ができる人に限る。

2010年12月28日火曜日

次世代オーディオブック・リーダー養成講座受講生募集(第七期)

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芸術は分類されたものを再融合させる

レヴィ・ストロースの『野生の思考』に、
「分類は、つねにその極限にまで進みうるものである。その極限をきめるものは、あらゆる分類は対比を二つずつ組み合わせて行われるとする暗黙の公理である」
とある。
人間は放っておけばものごとを分類したがる生き物であるらしい。
その極致が博物学や科学であり、また学問だろう。
表現行為も「評論」や「商業システム」によって極限まで分類されていく。たとえば音楽。クラシック、ポップス、民族音楽、などという分類がさらに細分化され、ロックのなかのハードロックのなかのなんとかロックのなんとか系……
CDショップに行けば(もう長らく行ってないけれど)ジャンルごとに細かく分けられた棚が並んでいて、ミュージシャンはそこに押しこめられている。もちろんこのほうが売るのに都合がいいからだし、買う者もそれを目安にして買いたい音楽を選んでいる。
消費者も表現コンテンツがそのように細かくジャンル分けされていることに、便利でこそあれ違和感を覚えることはない。世の中全体がそのような「システム」化されていて、ほうっておけばそれはどんどん進んでいく。そのことが長く続く社会システムの「閉塞感」を強めていく。

ほうっておくと、と書いたが、ではだれがほうっておかずにこれに抵抗するのだろう。分類され、細分化されて風通しの悪くなった社会に、ふたたび風穴をあけ、さまざまなことを融合させ、あらたな視界を開いていく者はだれなのか。
それが芸術家であり表現者なのだろうと思う。

芸術や表現行為の重要な役割のひとつに、まったく異なるものをひとつに融合させてみせる、ということがある。
わかりやすい例では、シュルレアリズムという芸術運動がある。ぐにゃりとゆがんだ時計や、か細く長い脚の象を描いたダリの絵は、だれもが知っている。
あるいは美術館に展示された男性用便器でもいい。これらはそれまでの風景とはまったく別の視界を人々に提示し、与えてくれた。その作品を見る前と見た後とでは、私たちは世界の見え方が少しだけ変化するのだ。見えていなかったものが見えてきたりすることもある。

分類という行為は、ものごとのディテールに踏みこんでいく作業だが、融合はその逆だ。異質なものをわしづかみにし、異質なものであふれている世界の見え方を再構成する行為。
世界は日々更新されており、閉塞などしていない。分類によって閉塞「感」だけが蔓延していく。
芸術や表現行為は分類され、分節化された世界を、再融合してあらたな世界観を提示していく。そのことによってしか時代時代の閉塞感は打ち破ることはできないのだ。

2010年12月26日日曜日

2010年12月25日土曜日

睡眠時間を削ることなく朝の貴重な時間を確保するライフハック

昨日の午後から、北西風がにわかに強まってきて、気温が下がってきた。こういう日は日本海側は大雪になる。
午前から昼にかけては、雲ひとつない晴天だった。
日の出前後から午前中にかけてもっとも美しく貴重な時間だと感じるようになったのは、いつごろからだったか。若いころにはそんなことには思いもおよばなかった。ただ惰眠をむさぼるだけだった。時間なんていくらでもあると思っていた。「生きる」ことも知らない時代だった。

生きることは「死」が近づいてきて初めて輝きはじめる。
40歳をすぎたころから、私は朝型の生活にスイッチした。いまももちろん朝型だ。
人が早起きをすると「年寄りだ」とからかう記号的風潮が世間ではあるようだが、年寄りだから早起きするのではない。迫りくる「死」の予感が人を早起きにさせるのだ。少なくとも私はそうだ。

世の中にはどうしても早起きができない人がいるらしいが、私が実行していることを紹介しよう。
用意してもらいたいものがひとつ。タイマー付きのコンセント。
私が使っているのはダイヤル式のタイマー付きで、クリクリと回すと30分、1時間、2時間、3時間といったふうに、スイッチが入る/切るの設定ができるようになっている。コンセントになっていて、そこに通電する/切電する時間を決められる。
私はこのコンセントに枕元の電気スタンドのコードを突っこんである。時間がたつとスイッチが「入」になる。
寝る前に、ダイヤルを回して、あと何時間後に電気スタンドのスイッチが入るかの設定をする。当然、同時にスタンドは消灯し、そのまま眠りにつく。
6時間とかに設定して寝ると、6時間後にスイッチが入り、電気スタンドがパッと点灯する。部屋には遮光カーテンをかけてあるので、スタンドの明かりでもかなりまぶしくて目がさめる。

この方式のいいところは、「何時に起きる」のではなく、「何時間後に起きる」と設定できることだ。
私は割合しっかりと睡眠を取りたいタイプで、睡眠不足ぎみのときはうまく頭が働いてくれない。なので、最低6時間から7時間はしっかりと睡眠をとる。もっとも、日によってコンディションが違うので、疲れているときはより長めの睡眠時間を確保する。
たいていは7時間くらいにしておく。
夜11時に寝れば、6時には起きることができる。いまだとまだ日の出前だ。遮光カーテンをあけ、ゆっくりと空が白み、美しい朝の時間がやってくるなかで、最初の仕事を片付ける。
できればメールとかネットとか、そういう雑用は後回しにして、頭がクリアなこの時間帯に詩やシナリオや原稿書きなどに集中したい。

水城ゆう「身体のなかを蝶が飛ぶ」@中野ピグノーズ

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強制のことば「〜ねばならない」が生まれるわけ

私たちが「~しなければならない」というふうに考えるとき、その考えはどこから来たものだろうか。
朗読の練習をするときの具体例をあげてみる。
朗読ではしばしば、日本語発音規則のことが問題になる。たとえば共通語アクセント。
朗読では共通語アクセントを使うことが多くの朗読者の間では暗黙の了解となっていて、もしアクセントを間違えた場合、「間違えている」と指摘を受けることが多い。そこで朗読者はますます「正しいアクセントであらねばならない」と身を固くすることになる。
しかし「正しい共通語アクセントで朗読しなければならない」という法文はどこにも存在しない。つまり社会的・公共的にはなんの強制力もない「ねばならない」なのである。

ところで、その「強制」の感じはどこから来たものだろうか。
「ねばならない」という思いこみは、もちろん私たちの中にある。しかし、その思いこみはだれに、あるいはどこから植えつけられてものだろうか。
共通語アクセントの例に戻ってみる。
ここには法的根拠などはなく、だれがどうやって決めたものなのかも実ははっきりしていない。たしかに『日本語発音アクセント辞典』といったものが出版されていて、あたかもそれが絶対的な決まりごとであるかのようにされているが、根拠は薄い。たとえばこの辞典そのものが数年おきに改訂されていて、表記そのものがしゅっちゅう変わっている。
非常に柔軟な言語である日本語は時代とともにアクセントはおろか、文法や言葉の意味そのものもどんどん変化している。アクセントももちろん変化している。
つまり、絶対的な規定はなにもないのだ。

そもそも表現行為において自分自身になにかを規定することは危険なことだ。
一般的な社会生活においては、法律を遵守したり、非常識なふるまいをいさめたりすることは大切だろう。しかし、表現の場ではいかに自分がさまざまな思いこみや自分自身への強制から自由になるか、社会的に作られた自分ではなく本来の自身になれるかが重要だ。

「ねばならない」のもうひとつの問題は、それが商業的、あるいは権威主義的に利用されることがある、ということだ。
現代朗読協会では「知らずに自分がおこなってしまっている癖」や「どこかから持ちこんでしまった思いこみ」をどうやって外すかということに主眼が置かれている。
これは実は指導する側としてはやっかいな方法なのだ。
楽な指導法は「~しなければならない」を生徒に思いこませることだ。その際、権威はこちら側にあり、強制の言葉というパワーを使って生徒を支配できる。さまざまな権威づけ「ねばならない」を押しつける方法は楽である。
たいていの学校や講座は、この権威づけによって生徒から対価を徴収している。多くの学校や講座の多くが、実にたくさんの「ねばならない」ことにあふれ返っている。そこに自由な表現はあるだろうか。

私たちはつねに自分自身の内側を注意深く観察していたい。
自分のなかに思いこみや強制はないだろうか。もしあるとしたらそれはどこからやってきたものだろうか。本当にそれは必要なことなのだろうか。
「ねばならない」という言葉に注意を払いたい。

2010年12月23日木曜日

iPhoneの iOS 4.2 の新機能はなにげなく便利

すでにアップデートされて日時がたってしまったが、iOS 4.2 の新機能はちょっと便利なものがいくつかある。

もっとも重宝したのは、「iPhoneを探す」という機能だ。
これはiPhoneに限らず、iPadや iPod touch でも利用できる。
この機能はすでに有料のMobileMeでは使えていたものだが、iOS 4.2 からは無料でだれでも使えるようになった。もっとも、有料MobileMeメンバーにしてみればどうなんだろう。
これはすでに書いたが、かなり実用的である。

ほかに、4.2で初出ではないが、マルチタスク機能がある。
これ、アプリを立ちあげていくと、どんどん常駐していってしまい、最終的にはメモリを圧迫してアプリが落ちやすくなると、悪評ブイブイなのだが、音楽的にはおもしろいことができる。
ある音楽アプリを立ちあげて、それがマルチタスクに対応していれば、その音源を鳴らしたまま、別の音楽アプリを立ちあげて、重奏できるのだ。
たとえば、環境音アプリである「Ambiance」を鳴らしながら、別の音楽アプリで演奏する、というようなことができる。

私は使っていないが、無線LAN上にあるプリンターに直接プリントできる「AirPrint」とか、映像や音楽をAppleTVやAirPlay対応の機器に送れる「AirPlay」などもある。
小技では、メモアプリでフォントを選べるようになった、とか、Safariでページ内検索ができるようになった、とか。

バズハウスのMacBook Air 11インチ用ハンドメイドフェルトケース

私は MacBook Air をいつも須田帆布製のショルダーバッグに入れて持ち歩いているのだが、さらに軽装で出たいときもある。
ショルダーバッグには手帳、モバイルHDD、モバイルWiFiルーター、その他小物などが入っているが、そういうものすら不要のちょっとした外出もある。近所まで買物に出るとか、散歩に行くとか、お茶を飲みに行く、といったような時である。
そういう時でも、Airは持っていたい。私の場合はいつでもどこでも執筆の続きができることが理想なので、いつなんどきなにかを書きたくなっても書けるのがありがたい。
iPhoneでも書けないことはないが、やはりもどかしいし、広い画面ですでに書いたものを俯瞰して文脈を読むのもむずかしい。時々、ちょっとした外出時にAirを持っていなくて残念な思いをすることがあった。
裸で持って出る、という手もないことはないが、やはりこわい。

そういうときにうってつけのケースを見つけたので、買ってみた。
バズハウス・デザインというメーカーはこの手のケースをたくさん作っていて、どれもセンスがいい。特に「売り」はこのフェルト製の、書類入れの形のぴったりしたサイズのものだ。
iPadやiPhone用のものも作っている。
デザインもかわいいが、なかなか使いやすくできている。フェルトなので、手で持ってもすべりにくい。保護性も高いだろう。
これなら、書類を持って出るみたいに、ケースにほうりこんでひょいとつまんで出かけることができる。
もちろんこのケースに入れたままバッグに入れられるので、バッグ内で別の小物とぶつかって傷がつくことも防げる。
しばらく使いこんでみよう。


水城ゆう「Night Passage」@中野ピグノーズ

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2010年12月22日水曜日

「沈黙の朗読」を全編オンエア@Ustream番組「UBunko」

2011年12月11日に名古屋・栄の愛知県芸術劇場小ホールでおこなわれた公演「沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき」のビデオ映像を全編、お送りします。
記録用映像なので、カメラは固定の1台、音声もカメラで拾ったものなのですばらしいわけではありませんが、公演の全容をご覧いただけると思います。
名古屋の会場までお越しいただけなかった方は、ぜひご覧ください。

放送は明日12月23日(木)午後8時より。
視聴はこちらから。

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(3)

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夢野久作「月蝕」@中野ピグノーズ

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ロードクセッション「げろきょでないと」2011年1月のお知らせ

現代朗読協会(www.roudoku.org)が毎月おこなっている定例ライブ「げろきょでないと」は、毎月第三火曜日の夜開催ですが、1月のみ、変則です。ご注意ください。

いつものように、飛び入りの朗読や音楽演奏の方、歓迎です。とくに朗読との共演や即興演奏に興味のある方、気軽にお越しください。
もちろん、聴くだけの方も歓迎。飲食もとてもリーズナブルな料金なので、気楽に飲み食いしながら聴いていただけます。
途中入りや途中抜けも大丈夫です。お仕事やご予定に合わせておいでください。

◎日時 2011年1月11日(火)20:00-22:30
◎場所 中野Pignose(中野区新井1-14-16)
◎料金 ミュージックチャージ 1,500円ほか飲食代

※このライブの模様は随時、YouTubeにUPしています。

2010年12月18日土曜日

沈黙の朗読@名古屋ウェルバ・アクトゥス公演より抜粋

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沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(1)

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男は引退しよう

農耕文明が生まれ、富の囲い込みと蓄積が始まったとき、力のある者が暴力で国家を建設し、略奪と紛争と戦争にいろどられた人類の歴史がいまにいたるまで続いている。
男たちが作った歴史であるといっていい。
ヒト・オスという性はもともと、狩猟の性質であり、そのために女性より体格も大きく筋肉質にできている。その競争的・争乱的な性質を持ったまま富の蓄積や経済システムや国家建築をおこなえば、社会は暴力性に満ちたものになることは自明と思える。

現代消費社会も環境破壊も究極に達し、民族紛争も絶えない。民主主義という皮をかぶった議会を見れば、議員はののしりあい、批判し合い、共感的な発展はなにもない。このような事態にもっとも心を痛めているのは、育みの性である女性たちであろう。
女性たちの社会進出は確かに求められているし、実際に活躍する女性が増えているのは事実だろう。が、男性が作ったこの暴力構造の社会では、女性もやはり暴力的にふるまうことを要求される。また男性顔負けのやり手女性が活躍していることも事実だ。
そうではないのだ。
社会構造そのものを女性的なものにすること。共感的で育みの喜びに満ち、穏やかで、非消費的・循環的・贈与的、自然環境とも調和的である社会は、女性にしか作れない。
そのためにはどうすればいいか。
ただちに男性たちが現場から引退することがよろしいだろう。

自分の話をするが、現代朗読協会は女性が多い。ほとんど女性ばかりといっていいほどだ。私のほかに、二、三人、いないことはないが、極めて控えめなふるまいを心がけていて、表に立つことはない。
女性たちに任せた結果、ここは大変おだやかで、居心地のいい場所となった。
非暴力であり、効率や報酬を求めない贈与的な運営であり、クオリティの高いつながりをもってコミュニケートしたり表現しあったりしている。何度も書いているが、本当に奇跡のような場所になっている。これも女性が中心となって活動しているおかげだ。

私の決意は決して彼女たちの邪魔をしないこと。できることがあれば徹底的に彼女たちをサポートすること。彼女たちのこの居場所をなんとしても死守すること。
男は表舞台から引退するが、隠居するわけではない。女性のサポートに回るのだ。
彼女たちが気持ちよく活躍できるように、男は掃除をしよう。料理をしよう。子どもを預かろう。雑用をこなそう。
場合によってはお金を稼いでくる必要もあるかもしれない。お金は重要だが、プライオリティではない。最優先すべきは女性たちの活躍の場を整えることだ。
まずは現代朗読協会のような小さなコミュニティから始めて、こういう場がたくさんできてくれば、間違いなく社会は変わるだろう。だれもが希望のもてる社会が見えてくるだろう。

2010年12月17日金曜日

人の命の鮮度と向上

ひとりの少女が生まれてから10歳になるまでの写真を連続的につなぎ合わせて、動画のようにしたのをネットで見た。それを見て感じたのは、10歳といえど生まれた瞬間から人はすでに劣化に向かって進んでいくのだな、ということだった。
プルプルのはちきれそうな赤ちゃんが、成長するにしたがって彫りが深くなり、骨張り、表情も静まり、だんだん大人の顔に近づいていく。10歳なんてまだまだ子どものように思うが、あらためて見ると生まれた瞬間からはずいぶん遠いところまで来ているのだ。
車だって10年も休みなく毎日使っていれば、相当ポンコツになる。
人に限らずすべての生命は、生まれた瞬間から劣化しはじめている。種によって、あるいは個体によってその寿命に差があるにせよ、生まれ落ちてからゆるやかに死に向かって生命の劣化の旅をしている。

そのように日々鮮度が失われていく命を私たちは生きているわけだが、人間はただみずからの劣化に身を任せて無為に死に向かっていくようにはできていない。人間は社会的動物であり、想像力を持っているため、自分以外の事物にたいしても思いをはせることができるからだ。
自分が死んだあとの子どもや愛する人のことを思い、少しでもよかれと思うことをする。自分を含む多くの人たちが生きていく社会が少しでもよくなることを願い、自分ができることで貢献しようとする。それをおこなうために、学習と鍛錬を自分に課すことをする。
それは命の鮮度の劣化との絶えまない闘いといっていい。
衰える筋肉を鍛える。衰える思考能力や記憶をふるいたたせる。衰える感受性をみずみずしく磨きつづける。涙ぐましい努力であり、時間に対する抵抗でもある。
もちろんそんな面倒なことはしないという人はたくさんいる。それはそれでいいし、否定するものではない。
自分を表現し、社会と関わり、相手や社会の変化に関わろうとする人は、日々劣化との闘いをおこなっている。なぜなら、昨日より今日、今日より明日の自分が、ほんの一歩でもいいから前に進んでいたいからだ。

私はピアノを弾くが、毎日、必ず一度は鍵盤の前に座り、音階練習をやる。なぜなら、やらなければ指は確実に動かなくなるからだ。
1日さぼると、その劣化を取りもどすのに三日はかかる。毎日やれば、劣化は食いとめられる。
さらにいえば、劣化を上回っていきたいのだ。
そのためには「これでいい」という、さらに上のレベルで毎日トレーニングしていきたい。そうやって続けていくことで、劣化を上回って向上していくことも可能になる。げんに私は、ピアノ弾きで食い扶持を稼いでいた20代のころよりいまのほうが演奏技術は上だろう(当社比)。
毎日の努力は苦痛でもあるが、それ以上に喜びでもある。昨日より今日のほうがより向上している自分を確認できることが、表現する者の自信となる。その努力が喜びに結びつかない者は、表現者としては不向きだろうと思う。

2010年12月16日木曜日

【録画】「特殊相対性の女」を全編オンエア@Ustream番組「UBunko」

先日、UStream番組「UBunko」から生放送でお送りした「特殊相対性の女」公演全編の模様ですが、録画モードでいつでも見ることができます(ネット映像として圧縮されてますのでクオリティはあまり高くはありません)。

2011年12月11日に名古屋・栄の愛知県芸術劇場小ホールでおこなわれた公演「特殊相対性の女」のビデオ映像の全編です。
記録用映像なので、カメラは固定の1台、音声もカメラで拾ったものなのですばらしいわけではありませんが、公演の全容をご覧いただけます。
名古屋の会場までお越しいただけなかった方は、ぜひご覧ください。
聴取はこちらから。

特殊相対性の女(3)

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2010年12月15日水曜日

「語りの芸術祭」にサポートで参加します

国際芸術連盟という団体が主催の「語りの芸術祭」というイベントがあります。
ここに出演されるフリーアナウンサー/ナレーター/朗読の秋山雅子さんのサポートで、ピアノ演奏で出演します。
秋山さんのほかにも3名の方が出演します(チラシ参照/クリックで拡大)。

1月8日(土)午後1時半からスタートです。
場所は江東区のティアラこうとう小ホール。
チケットは2,000円。

秋山さんは私の「Bird Song」という作品と、中原中也の「月夜の浜辺」という詩を朗読する予定です。
私はそれとピアノ演奏で共演します。
興味のある方はどうぞ。

2010年12月14日火曜日

「特殊相対性の女」を全編オンエア@Ustream番組「UBunko」

2011年12月11日に名古屋・栄の愛知県芸術劇場小ホールでおこなわれた公演「特殊相対性の女」のビデオ映像を全編、お送りします。
記録用映像なので、カメラは固定の1台、音声もカメラで拾ったものなのですばらしいわけではありませんが、公演の全容をご覧いただけると思います。
名古屋の会場までお越しいただけなかった方は、ぜひご覧ください。

放送は明日12月15日(水)午後8時より。
視聴はこちらから。

特殊相対性の女@名古屋ウェルバ・アクトゥス公演より抜粋

2010年12月11日、愛知県芸術劇場小ホールにておこなわれた公演「特殊相対性の女」から一部を抜粋してお送りします。
作・演出・音楽、水城ゆう。
出演は石村みか、野々宮卯妙。ピアノ演奏は水城ゆう。

なおこの公演に使われたテキスト全文(シナリオ)を「水色文庫」で公開しています。

特殊相対性の女(1)

を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
⇒ こちら

MacBook Pro 15インチのメモリを8GBに増設した

このところ MacBook Air ネタばかりだったが、私のメインマシンは MacBook Pro 15” のほうである(といいながら、これはAirで書いているのだが)。
Proは内蔵HDDが500MBと容量が大きく、音声や画像を扱うことが多い私の作業にはなにかとこちらのほうが都合がいい。
とくに不都合なく使っていたのだが、唯一不都合なのがWindowsに切り替えて使うときだった。私は WMware fusion 3 を使っているのだが、MacのOS-X上で動くバーチャルマシンソフトであるfusionは、さすがに重い。内蔵メモリが4GBあるので、fusionに2GB割り当てるのだが、WindowsとMacを行き来しているとすぐにハングしてしまう。
Windowsではとくに重厚な音楽編集ソフトである SONAR 8.5 を走らせるので、重い作業にはとても耐えられない。
普段は音楽編集もMacで不都合なくやっているのだが、どうしてもSONARにしかない機能があるので(とくにヴォーカル関係)、Windowsを完全に捨てられないのだ。

先日の名古屋公演で音響をやってくれた加藤明さんが、やはり MacBook Pro を使っていて、しかしデジタルミキサーのコントロールはWindowsからおこなっていた。
加藤さんはParallelを使っておられた。
「大丈夫なんですか?」
と聞いたら、メモリを8GB食わせているという答えだった。
私は MacBook にはメモリが4GBしか乗らないとばかり思いこんでいたので、ちょっとびっくりした。
さっそく東京に戻ってから調べてみたら、4GBメモリがびっくりするほど安くなっている。2枚セットでも安い。
ちょっと冒険だったが、もし不具合があれば元の2GB二枚差しに戻せばいいや、と思って、名前も知らないメーカーの8,000円くらいの二枚セットを買ってみた。
ノートパソコン用増設メモリが8GBで8,000円ですよ、あなた。

届いたので、精密ドライバー(プラス)1本で MacBook Pro 15” を裏蓋からバラし、メモリを入れ替えた。
実に簡単。工作が苦手な人でもできるだろう。
スイッチを入れると、無事にメモリを認識して立ちあがった。
まだfusionをきちんとインストールしなおしていないのでわからないが、全体の動作はきびきびした感じがする。とくに立ちあがりと終了処理が格段に速くなった。
快適、快適。
これで年末年始はひさしぶりに音楽製作に取りかかろう。
ふと、気づいてみると、毎年、年末年始は音楽製作をやっているような気がする。

2010年12月13日月曜日

名古屋ウェルバ・アクトゥス・アート公演レポート(3)

12月11日、土曜日。晴のち曇。
東京組のみんなとホテルの朝食会場で待ち合わせ。
名古屋公演は今日が最終日。体調はいい。睡眠も充分に取れている。
10時、芸文センター入り。
「特殊相対性の女」のリハーサル。照明や小道具などのセッティングをしてから、かいつまんでやる。通しはなし。かなり時間的余裕があって楽だった。

午後2時半開場、3時半開演。
野々宮の両親が、ほかにも知り合いの方を何人も連れて来てくれた。全体的に客の入りは少なかったのだが、客席の後ろのほうをつぶしたりして工夫。
東京からもとくちさんと丸さんが来てくれた。
役者の石村みかは調子があまりよくないということだったが、ひらめきのある演技を見せてくれた。いつものことだが、思いがけないことをいろいろとやってくれる。野々宮の読みも安定のなかに鋭さと迫力があり、3人のコミュニケーションが昨夜の「沈黙の朗読」とはまた異なった高いクオリティでおこなわれた。
お客さんからの反応は「意味がわからない」「ストーリーがわからない」など、高齢者を中心に多かった。一方、若い人からの「涙がとまらなかった」「衝撃的だった」などがあり、終わってからも私に熱烈に語ってくれる人もいた。
つまり、賛否両論まっぷたつ。中間はなし。これまでの経験で、これはパフォーマンスが成功したときの反応ととっている。

終演後、「Ginga」の修正リハーサル。今日だけ笛吹きふえこさんが生徒さんふたりと参加してくれるので、そのタイミングや動きも交えて。
夕食をはさんで午後6時半開場、7時半開演。
この回が一番お客さんがたくさん来てくれた。
昨日すでに一回やっているので、出演者もリラックスしてやれたようだ。
終演後、撤収があるためにホールをさっさと追いだされた観客も、ロビーで出演者たちと歓談。にぎやかだった。

撤収。
打ち上げ会場の〈まちの縁側MOMO〉にそれぞれ移動。メイン出演者、ゲスト、スタッフ、協力者など、30名以上が集まって、大変にぎやかになった。
11時半まで飲んで、東京組は丸さんの車で帰還。
途中、何度か休憩しながら、東京に着いたのは午前6時半だった。丸さん、お疲れさんでした。皆さんもお疲れさんでした。
この三日間、協力してくれた方々や出演してくれた皆さんには、心から感謝いたします。

2010年12月12日日曜日

名古屋ウェルバ・アクトゥス・アート公演レポート(2)

12月9日のことはすでに日記に書いたので省略。
日記はこちら

12月10日、金曜日。晴。
6時半、起床。メール処理など。
ステージ用の服装に着替えて、ホテルの朝食へ。
昨日到着した東京組のみんなとロビーで合流して、歩いて栄の芸術文化センターへ。窪田涼子も大阪から来ていた。矢野司空さん、デリヘイも参加して、ようやくフルメンバーに。全員がそろったのはこれが初めて。
尺八の司空さん、馬頭琴とホーミーのデリヘイ、歌の伊藤さやか、ピアノの私という音楽隊の音合わせからスタート。そのあと、音楽とからむところを中心に全体のリハーサル。
弁当昼食をはさんで、午後もリハーサル。ほぼ全体の確認をなんとかできた。

午後2時半、開場。来客にはまず、ロビーに展示した絵画を観ていただく。それからホールへ。
ホールは3時開場。
3時半、「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」の開演。ほぼ一年かけて準備してきたステージなので、やっている最中にもいろいろな思いがよぎる。結局、名古屋ワークショップメンバーで最後まで残っていっしょにステージに立てたのは、柊麗子、山田哲也、加藤祐子、西川智里、岡本薫、西村邦子、小木曽琴江の7名だけだった。当初のワークショップ参加メンバー30名という構想は消え、まったく違うイメージのものとなった。いまとなってはそれも必然なのだったかと思える。

エンディングは朗読陣、音楽陣、音響、照明、美術が一体となった迫力のある空間を作った。
4時半すぎ、終演。
知り合いの来客と話をしてから、夜の「沈黙の朗読」の準備に取りかかる。出演の坂野さんは「Ginga」を観てくれたらしい。

夕食弁当をはさんで、6時半から「沈黙の朗読」の開場、7時半開演。
こちらはほとんどリハーサルらしきリハーサルもなかったのだが、非常に密度の濃い、リラックスしたなかにも緊張感のあるパフォーマンスとなった。お客さんも昼の「Ginga」とおなじくらい来てくれて(バラさんのおかげ)、たくさんの賞賛の声をいただくことができた。
これは東京組を含む「Ginga」の出演者のほとんども観てくれた。

終わってからバラさん、坂野さん、一歩さん、理子さんと軽く飲みに行く。あとでファンキーと麗子さんも合流。坂野さんからは何度も私の音楽が「美しい」といってもらえてうれしかった。
11時すぎ、解散。ホテル帰着。
0時半すぎ、就寝。

名古屋ウェルバ・アクトゥス・アート公演レポート(1)

2010年12月8日、水曜日。晴。気温は低い。
午後3時前、名古屋ウェルバ・アクトゥス・アート公演のために世田谷・羽根木を出て品川に向かう。
公演では当初、シンセや電子楽器を使おうと考えていたが、リハーサルを重ねていくうちに電子音はいらないと思うようになって、結局全演目、アコースティックピアノで通すことにした。
そういうわけで、荷物は足掛け5日間の滞在にも関わらず、小さい。いつもの小さめのカートとショルダーバッグひとつ。カートのほうは衣類がほとんどなので軽い。
「特殊相対性の女」で使う小道具の鳥かご・羽毛・石村みかの衣装などは、別便でホールの楽屋に送ってある。

品川で昼食。かき揚げうどん。
のぞみ49号で名古屋へ。窓の外は急速にたそがれて暗くなっていく。隣は中年女性。ずっとケータイをいじっている。通路をはさんで隣の席はふたりの子ども連れ。そのにぎやかなこと。

6時前、名古屋着。
一歩さんにと栄のオアシス21で落ち合う。オアシスのカフェでビールと軽食をとりながら、制作関連の打ち合わせ。来年のウェルバ・アクトゥスの活動のことも含め、いわば首脳会談。
8時前、バラさんが来て合流する。
少し話してから、バラさんの車で一歩さんの娘さんの店に移動。バラさんも交えて突っこんだ話をする。

9時すぎ、解散。
バラさんに車でホテルまで送ってもらう。チェックイン。
BLOGなどネット作業をして、ビール。
11時、就寝。

2010年12月10日金曜日

芸文センター入り、仕込み、「Ginga」と「沈黙」のリハーサル

午前6時半、ホテルにて起床。入浴。
ホテルでの朝食バイキング。
9時前、ホテルを出て、歩いて栄の芸文センターへ。すでに加トちゃん、西川ちゃん、ナオスケさん、手伝いの須藤さん、照明・舞台・音響のスタッフたちが来ている。

ロビーに西村一成ほかアート参加者の絵画を展示する作業。手分けして。
11時、バラさん来る。「沈黙」のピアノと客席配置を変更する。その打ち合わせ。
お弁当で昼食。
照明のシュート、音響調整など進む。スモークとミラーボール。

3時前、東京組が到着。石村みか、伊藤さやか、野々宮卯妙、岩崎さとこ、嶋村美希子、照井数男。
楽屋に落ち着いてから、名古屋組とのすり合わせ、舞台確認など。ピアノも出されてきて、だんだんステージらしくなってきた。
電子蝋燭を実際に点灯させて、床に置いたりしながら、動きやきっかけの確認。

6時、夕食の弁当。
司空さんもおいでになったので、音響テストを兼ねて私と司空さんと伊藤さやかの3人で曲のリハーサル。そのあとすぐに「Ginga」のオープニングのリハーサル。いくらか変更があった。
オープニングから音楽も入れて、途中まで通してのリハーサル。途中とエンディングのリハーサルは、明日の午前中からやることになった。
つづいて、「沈黙の朗読」のリハーサル。坂野さんも来てくれたので、バラさんと私の3人でオープニングやステージセッティングの確認。
9時すぎ、終了。「特殊相対性の女」のリハーサルはできなかった。明後日の午前中にしっかりやることになった。

バラさん、坂野さん、理子さん、一歩さん、そして私と、近くの居酒屋に行って軽く一杯。あとでファンキーと麗子さんも合流。大変楽しく盛り上がって、まるで打ち上げみたいになった。本番初日もまだ迎えていないのに。
11時すぎ、ホテル帰着。ほかのメンバーは無事に帰ってくつろいでいるようだ。

2010年12月8日水曜日

「特殊相対性の女」の野々宮卯妙は「Ginga」にも出演する

野々宮卯妙は純粋培養の現代朗読パフォーマーといえる。
なぜかというと、まだ現代朗読協会が発足する前、漠然とした既製の朗読指導の方法に疑問を持った私が、徹底的に表現の基本原理に立ち返り、確認しながら再構築していった「現代朗読」の方法が、どこまで純粋に「既製の朗読指導を受けたことのないまっさらな者」に通用するのか、実験台となってもらったのが、野々宮卯妙だからだ。

初期の頃、げろきょにまだ多くの職業ナレーターやアナウンサー、商業声優が出入りしていたときには、野々宮もなかなか彼女たちのようにはうまくいかず(それはそうだろう、技術的なことを真似しようとしても彼女らのほうが何歩も先んじているわけだから)、いつも泣きながら練習していたものだ。
が、現代朗読の方法論と思想がはっきりしてきたころから、そして彼女もがんばってオーディオブックを収録したりライブに出たりするようになったころから、急にのびのびとしはじめた。
しまいには、いつどんなものが飛びだすかわからない個性的な朗読者ということで「テポドン野々宮」などというニックネームまでつけられるようになった。
いまでは個性的な表現力に加え、確かな技術も身につけて、たとえば、
「長年型にはまった朗読を続けてきたベテラン朗読者」
なんてのを演じてみせることすらできる。

今回の「特殊相対性の女」では、こちらもなにが飛びだすかわからないスリリングな女優・石村みかを相手に、一歩もひけを取らない読みを聞かせてくれるはずだ。しかも、野々宮はわざと「朗読者」を具現して固定位置で読むことになっている。圧倒的にパフォーマンスとしては不利な位置にいる。
それでもスリリングなパフォーマンスになることを、私は期待している。
また、彼女は「Ginga」のほうにも出演することになっていて、3ステージのかけもちだ。もっとも私は4ステージのかけもちだけど。
野々宮卯妙が出演する「特殊相対性の女」の詳細はこちら

「Ginga」に出演する嶋村美希子と照井数男

今回、急遽名古屋公演に出演が決まったげろきょ若手組のふたり。
ふたりとも昨年後半にげろきょのゼミ生になり、ふたりとも熱心に参加している。ふたりとも埼玉県人。それは関係ないか。
先月は愛知県豊明市までいっしょに行って、市民文化会館の大ホールでおこなわれた子どもたちへのイベントに参加した。また、養護施設の子どもたち相手の慰問イベントにも参加している。

照井数男は定期ライブである中野ピグノーズ「げろきょでないと」に無欠勤・前回参加で、めきめきとパフォーマンスの腕をあげてきている。
嶋村美希子はいわば「肉体派朗読パフォーマー」で、体当たりのパフォーマンスが魅力。もちろん若くきれいなお姉さんでもあるので、よくあるタイバン形式の音楽ライブに朗読で出演しても、自称アーティストのシンガーソングライターのお姉さんたちにひけを取らない魅力的な存在感を見せてくれる。
自分では「アイドル未遂」なんていっているが、実際にその手の事務所に所属していたことがあるとか、いまでも所属しているとか、そういうコである。
肉体派というだけでなく、彼女は耳がよく、音楽によく反応する。朗読の「意味」ではない非言語部分で、ピアノなど楽器とのコミュニケーションができる人だ。
それは照井数男もおなじことだ。

このふたりが加わったことで、名古屋の「Ginga」はグッと活気に満ちることになるだろう。フレッシュな彼らの元気に全員がよい影響を受けることはまずまちがいない。
嶋村美希子と照井数男が出る「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」の詳細はこちら

「Ginga」音楽隊のひとりとして出演する伊藤さやか

伊藤さやかともけっこう長い付き合いになった。2005年からの付き合いだ。
童謡や唱歌をあたらしくアレンジしなおして演奏してみたいと思っていたところへ、彼女を紹介してくれる人がいた。さやかは当時、〈ザ・ヌーカ〉というアマチュアのミュージカル劇団をやっていた。
そうか、まだ当時は彼女も20代半ばだったのか。
Oeufs(うふ)という音楽ユニットをふたりで結成して、活動を始めた。ライブをやったり、老人ホームに慰問に行ったり、『ゆりかごの歌』というアルバムを出したりした。
YouTubeで毎週配信という無茶なペースで、「うふTube」という番組を作ったりもした。
その後、さやかは一年弱のイギリス音楽留学を経て、今年の夏、帰ってきたばかりだ。
そしてOeufs(うふ)の活動もぼちぼちと再開している。

今回の「Ginga」公演には、Oeufs(うふ)として出てもらうわけではない。ソロ歌手として出演してもらう。
「Ginga」では「この河」という私のオリジナル曲、「星めぐりの歌」という宮澤賢治が作った曲、そして「ここへとつづく道」という私のオリジナル曲の3曲をフルで歌ってもらう。それに尺八(矢野司空さん)と馬頭琴(デリヘイ)、そして私のピアノがからむ。
国際色豊かな音楽隊だ。
それぞれの音楽性が異なっている。もちろん私と伊藤さやかの音楽性も違っている。そこがおもしろいのだと思う。
多様な個性がひとつの表現を作りあげていく。全体とディテールがともに生きている世界。私はそれが大切だと思っている。それが世界のありようそのものだと思うし、表現の世界もそうだろう。

昨年の「Kenji」もそうだったが、今回の「Ginga」も音楽劇といってもいいようなものかもしれない。
伊藤さやかが歌う「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」の詳細はこちら

2010年12月7日火曜日

「Ginga」に出演する窪田涼子

今回、ただひとり、大阪からの参加となる窪田涼子。
彼女との付き合いも、岩崎さとこに次いでけっこう長い。
窪田涼子にもまた、多くのオーディオブックをとってもらっている。夏目漱石『彼岸過迄』、筒井康隆『問題外科』『緑魔の街』、太宰治『お伽草子』、芥川龍之介『猿蟹合戦』『桃太郎』などなど。

またライブにもたくさん出てもらっている。
昨年は銀座アップルストアでの朗読ライブ「前略な・だ・草々」にも出てもらった。あのときは「緊縛朗読」をやってもらったのだった。
YouTube番組YouBunkoにも何本か出ている。最多出演かもしれない。そのたびに大阪から出てきてくれるのだ。

最近は名古屋の〈少年王者館〉にも劇団員として参加している。
オールマイティな人だが、とにかく奇抜で変なことにも果敢に挑戦してくれるのでありがたいし、おもしろい。いい意味で自分を捨てられる人だ。
今回の公演でも特異な役回りを引き受けてもらった。なにをやらかしてくれるのか、とても楽しみだ。
窪田涼子が出る「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」の詳細はこちら

「Ginga」に出演する岩崎さとこ

高校生のときに今村昌平監督の映画「楢山節考」でデビューしたという経歴の持ち主なので、役者歴は長い。
が、私との付き合いは朗読がスタートだった。
かれこれ10年近くになるかもしれない。
岩崎さとこには数々のオーディオブックを収録してもらっている。夏目漱石の『夢十夜』や『こころ』、林芙美子の『放浪記』といった大作をはじめ、織田作之助の『夫婦善哉』や『競馬』など、すぐれた朗読をたくさん残してくれている。
私にとって岩崎さとこは、映画俳優でも舞台役者でもない。秀逸な朗読パフォーマーだ。

私が演出したものには、現代朗読協会がNPO法人としてスタートしたときの旗揚げ公演ともいうべき「おくのほそ道異聞」に出演したもらったことがある。2006年春のことだ。
それまでにも小さなライブパフォーマンスはちょくちょくやっていた。
非常に反応性の高いパフォーマーで、独特の個性もある。ほっそりした小さな身体の女性なのだが、パフォーマンスでは大変大きく見える。
私としては彼女にもっと朗読に本腰を入れてもらいたいのだが、演劇や映画方面が本拠地だと思っているらしく、なかなかこちらへ来てくれないのがもどかしい。
朗読のほうが未開拓で、未知の表現ジャンルなので、岩崎さとこにも広大な可能性があるのにね。

それはともかく、今回はみずから名乗り出て「Ginga」に出てくれるという。
ありがたいことだ。
彼女にはちょっと不思議な役回りを受け持ってもらう。自由度が非常に高い役回りなので、いろいろ思いがけないことをやってくれるのではないかと期待している。
「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」詳細はこちら

「特殊相対性の女」の石村みか

女優・石村みかに最初に会ったのはいつだったろうか。
たしか、2年くらい前のことだ。場所は現代朗読協会が羽根木の家に移る前、活動拠点としていた豪徳寺のドルチェスタジオだったと思う。
安納ケン講師によるアレクサンダーテクニーク講座がおこなわれていて、そこに参加者としてやってきたのだった。
ある舞台のための演技でちょっとした悩みを抱えていて、それをアレクサンダーテクニークで解決してみようといろいろやってみていたことを覚えている。
その後、その舞台公演を観に行ったりした。また、彼女のほうから現代朗読協会に遊びに来てくれたりもした。

そんなこんなで、なんとなくのゆるい友だち付き合いが続いていたのだが、今年の9月に「特殊相対性の女」を初演することになったとき、朗読の野々宮卯妙の相方女優としてお願いすることになった。
小劇場を中心に、商業演劇にも駆り出されたりすることもあって、かなりいそがしい人なのだが、快く引きうけてくれた。
もともとは朗読台本なのだが、彼女はあくまで「役者」としてやりたいということで、テキストを全部覚えてしまった。つまり、セリフとして。読めばわかるが、どうかんがえてもセリフ的な文章ではない。それを覚え、また朗読の野々宮とかけあいで演じるというのは、相当な力ワザだ。

初演は下北沢のライブカフェでおこなわれた。
その模様のごく一部をYouTubeに公開した。
私が見込んだとおり、石村みかはすばらしい身体性を持った役者であり、自由を与えれば与えるほど輝く表現者だった。
このたびの名古屋ウェルバ・アクトゥス・アート公演の企画は、愛知県芸術劇場という小ホールではあるけれど300名がはいる空間でおこなわれる。ぜひともこの広大な空間に石村みかという「鳥」を放ってみたい。
私はそのシーンを夢想して、彼女に出演を打診した。
今回もラッキーなことに、快く出演を引きうけてくれた。
ご来場のチャンスがある方は、ぜひお見逃しないよう。
詳細はこちら

Oeufs(うふ)の年末年始といよいよGingaですよ!

音楽ユニットOeufs(うふ)のヴォーカル担当・伊藤さやかと、朗読の野々宮卯妙がゲスト。
年末の終電間際の電車の話から、通勤ラッシュ、クリスマスと正月について、そして伊藤さやかが年末年始に出かけるインドの話まで、例によってゆるトークが転々と。
そして、2010年12月10日(金)15:30と11日(土)19:30の2回おこなわれる公演の案内をしてます。名古屋の芸術文化センター(愛知県芸術劇場)小ホールにて、第二回ウェルバ・アクトゥス・アート公演の「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」に伊藤さやかも野々宮卯妙も水城も出演します。

ケロログ「RadioU」で配信中。

2010年12月6日月曜日

「特殊相対性の女」抜粋映像と次回公演

2010年12月11日(土)15:30より、名古屋の芸術文化センター(愛知県芸術劇場)小ホールにて、第二回ウェルバ・アクトゥス・アート公演の一演目として「特殊相対性の女」が上演されます(14:30開場)。

その初演の模様の一部です。
これは下北沢〈Com.Cafe 音倉〉で2010年9月におこなわれたものです。
出演は女優の石村みか、朗読の野々宮卯妙、そして演奏の水城ゆうの3人です。

公演情報は MIZUKI's Twitter までどうぞ。

猫、石村みか、特殊相対性の女

2010年12月11日(土)15:30より、名古屋の芸術文化センター(愛知県芸術劇場)小ホールにて、第二回ウェルバ・アクトゥス・アート公演の一演目として「特殊相対性の女」が上演されます。

その出演者の野々宮卯妙と、飼い猫のこと、共演者の石村みかのことなどを話しました。
また、同席の伊藤さやかは、同公演の別演目である「Ginga - 宮澤賢治・時と地と星 - 」に出演します。

ケロログ「RadioU」で配信中。

パフォーマーが失敗したとき

ステージやライブなどパフォーマンスをやっていると、いくらリハーサルや訓練を積んでいても思いがけず失敗してしまうことがある。音楽や演劇、ダンス、朗読といったリアルタイムなパフォーマンスにおいては、よくあることだ。
それについて考えてみたい。

失敗すると私はかつて、よく「へこんで」いた。また一緒に演じた仲間たちに申し訳なく「すみません」とあやまっていた。
最近はそういうことはないし、しない。表現する者にとってこれらの反応はまったくなんの利益もないからだ。
ではステージやライブなど現場で失敗してしまい、へこみそうになったときはどうするか。
そういうときは、まず「自分を悼む」のだ。
失敗しようとして失敗する人はいない。どんな人も、失敗したくなかったのに失敗してしまうのだ。
意に反して失敗してしまい、悔しさや悲しみを覚えている自分をまず認め、いたわってやる。これをNVCでは「self empathy」と呼ぶ。
次にするのは、なぜ失敗したのか、ではなくて、なぜ失敗したくなかったのか、を考える。

順番が大切だ。
まずは現場における自分のニーズを確認すること。なんのために現場に立ったのか。
私が表現行為をするのは「人に自分を誇示する」ためでもなく「自分が人より優位に立つ」ためでもない。昔はそういうときもあったが、そこには満足も幸福もなかった。
また、表現行為をするのは「自分を売って金銭的対価を得る」ためでもない。なんのためにやっているかというと、人とつながりを深めるため。表現することで、つながりの質をたかめ、自分を理解してもらい、また人を理解するために表現行為をやっている。

失敗したことによってそのことの質がそこなわれた(=ニーズの欠如)と感じたから、悔しさや悲しみを覚えたのだ、ということを確認する。そうすることで、「へこむ」のではなく、次にむかってなにをすればいいのか、自分の現時点での行動と動機が決まってくる。
共演者にあやまる必要もない。もし共演者がそのような価値観を共有しているなら(そういう人としか共演したくないともいえるが)、共演者は私が失敗しようとして失敗したわけではないことをよくわかっているし、そのことに対して共感的に思いやりを持っている。
私がおこなうのは、共演者(と私自身)と失敗したことの「事実」を認識し、私とみんなのニーズを確認し、どのようにしたいのか、すればいいのかを話し合う。それだけだ。
この考え方はNVC(非暴力コミュニケション)とZENから影響を受けている。

2010年12月2日木曜日

モレスキンのiPhone+Volantカバー

私は手帳が好きで、いろいろなものを使ってきたが、ここ5年くらいはモレスキンに落ち着いている。
そのモレスキンから、iPhoneを収容できる手帳カバーが出たというので、買った。

黒い皮製のカバーで、手帳とおなじくゴムバンドで止めるようになっている。
開くと、右側にiPhoneがちょうどぴったり収まるサイズのホルダー、左側には Volant Notebook という小型の、ページに切り取り線がついているタイプの手帳がセットされている。
閉じると背の内側にペン一本を差し込むくらいのスペースがあって、ちょうどいい。
また、カバーにはiPhoneのカメラアイのための穴もあいていて、カバーに装着したまま撮影ができるようになっている。もっとも、カバーに着けたまま電話をするのはちょっと不格好だ。はずすか、ブルートゥースのレシーバーを使うのがいいだろう。

さっそく使い始めているが、とてもかわいい。手にしっくりとなじんで、ずっと持っていたくなる。
これは手帳を使いこなすための重要な要素のひとつで、とにかくいつも手のなかにあって、なんでもメモすることを習慣づけるのがいい。そこにiPhoneもセットされているとなれば、なおさらいつも持ちなじむことになりそうだ。
開いてiPhoneでメールチェックをしたり、RSSリーダーで記事を読んだりしていても、外からはまるで手帳を開いているようにしか見えないかもしれない。
おすすめですよ。

2010年12月1日水曜日

フリージャズ的朗読セッション「特殊相対性の女」@中野ピグノーズ

2010年11月16日(火)に中野ピグノーズでおこなわれた「げろきょでないと」の第22回ライブから、水城ゆう作「特殊相対性の女」の朗読セッションをお送りします。
この演目は、来たる12月11日(土)15:30より、名古屋の愛知県芸術文化センター小ホールにて朗読・野々宮卯妙、演技・石村みか、演奏・水城ゆうによってウェルバ・アクトゥス・アート公演の一環として上演されます。
詳細はこちら

今回は即興セッションとして、飛び入りのドラムス、ヴォイスとともに、野々宮卯妙の朗読と水城ゆうのピアノ演奏でおこないました。
朗読なのに、まるでフリージャズですね。

ケロログ「RadioU」で配信中。